第四部 第ニ章 第8話
応接室でしばらく談笑が続いた。
窓から差し込む午後の光は、白いカーテンを透かしてやわらかく拡散し、テーブルの上に置かれた花瓶の水面をきらきらと揺らしている。
壁際の暖炉には火は入っていないが、磨かれた真鍮の飾りが光を受けて温かな色合いを放っていた。
やがて、重厚な扉が静かに開く音がして、一人の使用人が姿を現す。
深緑の制服に身を包み、姿勢は直線のように正しい。その手には銀色のトレイがあり、その上には温かなティーポットと、白磁のカップとソーサーが並べられていた。
銀器の縁やポットの取っ手は磨き込まれており、差し込む光を反射して眩しいほどに輝いている。歩くたび、ポットの中で茶葉と湯が小さく揺れ、ふわりと香りが空気に溶けた。
使用人はテーブルの前に立つと、滑らかな動作でポットを下ろし、一つ一つ慎重にカップを並べる。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
深く一礼し、その背筋は最後まで乱れなかった。
足音をほとんど立てずに部屋を後にすると、扉はゆっくりと元の位置に戻る。
三人は自然とカップに手を伸ばした。白磁の縁に指が触れた瞬間、じんわりと伝わる温もりが心地よい。
柔らかな湯気が立ちのぼり、紅茶特有の上品な香りとほのかな甘い香りが鼻腔を満たす。
クラリスがそっとカップを口元に運び、一口含むと、わずかに瞼を伏せた。
「やっぱり、こういうひとときがあると落ち着くわね」
微笑みながらそう言う声には、学院や研究所での慌ただしい日々をふと思い出し、その対比を楽しむ余裕がにじんでいた。
「うん。今日はゆっくり話せて嬉しい」
アリスも、湯気越しに穏やかな表情で応じる。
カップを両手で包み込みながら、その温もりを胸の奥まで染み渡らせていた。
レティアは、そんな二人を見て、ちょっと得意げに唇を上げた。
「またこうやって集まろうね。王都の喧騒から離れて、静かな時間を過ごすのも悪くないでしょ?」
そう言いながら、カップを置く仕草も自然と優雅さを帯びている。
「……というか、あなたたち、本当に忙しすぎるのよ」
レティアが少し眉を寄せて言う。
「まあ、否定できないけど」
クラリスが肩をすくめた。
「でもこうして呼んでくれるから、私はバランス取れてるって感じ」
「わたしも」
アリスは微笑んだまま続ける。
「レティアのところに来ると、少し背筋が伸びるけど、同時に落ち着くんだよね」
「でしょ! ここは私の“もうひとつの息抜き場所”なんだから」
レティアは胸を張るが、次の瞬間ふっと照れたように視線をそらす。
「……アリスたちが来てくれると、なんだか家が明るくなる気がするのよ。ほら、うちはわりと格式ばってるから」
「確かに、エクスバルド家って“敷居高い!”って感じはする」
クラリスが冗談めかして言い、アリスはくすりと笑った。
「でも、それを和ませてるのはレティアだと思うよ。だって――」
「だって?」
「さっき、オスカーさんに注意されて慌ててたでしょ?」
アリスが笑いながら言う。
「ちょっ……それは言わない約束!」
レティアの頬がほんのり赤く染まる。
「かわいかったわよ?」
クラリスが意地悪く微笑む。
「もう二人とも!」
レティアは両手で顔を覆いながらも、笑いをこらえきれない様子だった。
午後の陽光は徐々に傾き、薄金色に変わりつつあった。
紅茶の香りと三人の笑い声が優しく混ざり、屋敷の中に穏やかな空気が満ちていく。
「……ねぇ、今日がこうして穏やかで良かった」
アリスがぽつりと呟く。
「うん。たまには何も気にしないで、おいしい紅茶飲んで、他愛ない話をするのもいいでしょ?」
レティアが頷く。
「こういう時間、もっと増やしましょう」
クラリスの言葉に、二人は自然と微笑んだ。
その穏やかな表情は、日常の緊張をふっと解き、三人の友情がそっと深まっていく瞬間を静かに照らしていた。
その時、軽やかなノック音が扉の向こうから響いた。
一定の間隔で二度。
「どうぞ」
レティアが声をかけると、扉が静かに開き、ゆったりとした足取りで伯爵夫妻が入ってきた。
ロベルト伯爵は背筋を伸ばし、紳士らしい立ち姿で、歩くたびに靴の革がわずかに鳴る。
伯爵夫人アイリスは、柔らかい色合いのドレスをまとい、胸元に一輪のブローチを光らせている。
その微笑みは優美で、場の空気を和らげるようだった。
「レティア、アリス君が来ていると聞いてきたのだが?」
伯爵の声は低く響き、穏やかながらも確かな存在感を帯びている。
夫妻の視線が部屋の奥に座るアリスへと向かうと、二人の目元がわずかに細まり、嬉しそうな色を帯びた。
「おや、あれは……アリス君じゃないか? ずいぶん久しぶりだなあ」
ロベルト伯爵は微笑みながら歩み寄る。
その仕草は昔から知る者に向ける温かさと、家の主としての落ち着きを兼ね備えていた。
「まぁ、本当に。すっかりお姉さんになって……学院生活は順調かしら?」
伯爵夫人アイリスが柔らかく語りかける。瞳は優しい光を湛え、細やかにアリスの仕草や表情を見守っている。
「伯爵様、伯爵夫人様。ご無沙汰しております。今日はお招きいただき、ありがとうございます」
アリスは立ち上がり、少し照れくさそうに微笑みながら深くお辞儀をした。
その礼には、形式ばった硬さよりも、再会の喜びと感謝の思いが込められている。
「いやいや、礼なんていらないよ。君が来てくれて、こちらこそ嬉しいよ。レティアが随分楽しみにしていたんだ」
ロベルト伯爵が冗談めかして肩を竦めると、レティアが横で「もう、お父様ったら」と小さく咳払いをした。
耳の先がほんのり赤い。
「ち、違うのよアリス……! ほら、その……久しぶりだったから……」
レティアが小さく抗議するように言う。
「うん、知ってる。嬉しいよ」
アリスが微笑むと、レティアは照れ隠しのように視線を逸らした。
夫妻の視線がようやくアリスの隣に座るクラリスへと移った。
「あっ……失礼。お連れの方に気づかず申し訳ない」
ロベルト伯爵が一歩進み、穏やかだが礼を欠かさぬ口調で言葉を向ける。
クラリスは椅子から立ち上がり、落ち着いた動きで一礼した。
「はじめまして。ミラージュ王国魔導技術開発局第二班に所属しております、クラリス・ノーザレインと申します。現在は王立魔導学院にて特別講師も務めております。このたびは、アリスさんとご一緒させていただき、まことに光栄です」
その声は澄んでいて、場の空気を乱さずにしっかりと届く。
「これはご丁寧に……ようこそいらしてくださいました。……ロベルト・エクスバルドです。こちらは妻のアイリス」
伯爵が柔らかく微笑み、夫人もやわらかく会釈をした。
「クラリスさん、ようこそいらしてくださいました。ゆっくりなさってくださいね」
「ありがとうございます。……先ほどから感じておりましたが、邸内に漂う香りがとても落ち着きますね。庭木の香りでしょうか?」
クラリスが控えめに尋ねると、伯爵夫人が嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ……気づいてくださるなんて嬉しいわ。春の初めだけ、外の月桂樹を少しだけ風に乗せているの」
「とても心地よいです。こういう心遣いができる家……羨ましいです」
クラリスの言葉に夫人は軽く目を細め、レティアは誇らしげに胸を張った。
「でしょ? うちの自慢なんだから」
「レティア、それは私の台詞だよ」
伯爵がくすりと笑う。
エクスバルド家はファーレンナイト建国当時から続く由緒ある貴族家門であり、王国の魔導史においても重責を担ってきた一族だ。とりわけ、人魔大戦期に魔導戦の最前線で貢献した五つの家系――いわゆる〈魔導戦の五家〉のひとつとして知られ、その名は王都の学院生たちにもよく知られている。
「アリス君、君が来てくれて嬉しいよ。あの頃から変わらず元気そうで何よりだ」
伯爵の口調はくだけていても、そこに込められた情は隠しようがない。
「はい。……エクスバルド邸に来ると、なんだか落ち着くんです。昔から、ここだけ空気が違う気がして」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
伯爵は穏やかに笑い、夫人も頷いて言葉を添える。
「お元気そうで安心しましたわ。こうしてまたお会いできて、本当に嬉しいです」
「こちらこそ……。レティアがいつもお世話になっております」
クラリスが自然と続けると、レティアが「ちょっとクラリスさん!」と頬を染めた。
「事実でしょ?」
クラリスが柔らかく微笑む。
「あなたが困っていると、アリスさんがすぐ動く。……私も同じですけど」
「クラリスさん、それ以上は……!」
レティアは完全に赤面し、アリスは苦笑しながら肩を竦めた。
一連の挨拶が終わると、ロベルト伯爵は懐中時計をちらと確認した。
「それでは、我々はこれで。あとは若い皆さんにお任せしようか」
「ええ、レティアにしっかりお願いしてあるから。ゆっくり楽しんでいってね」
伯爵夫人も微笑みながらそう言い、夫妻は静かな足取りで部屋を後にした。
扉が閉まる直前、香水の柔らかな香りと、足音の余韻だけが部屋に残った。
伯爵夫妻が静かに部屋を後にすると、応接室には再び穏やかな空気が戻った。
「……ふぅ。やっぱり、あのふたりの前だとちょっと背筋が伸びるわよね」
クラリスが苦笑混じりにそう言うと、アリスも頷いた。
「うん。でも、あんなふうに迎えてもらえると嬉しいな。落ち着くっていうか……うまく言えないけど、ほっとする」
「でしょう? お父様とお母様、あれで意外と気さくなのよ。……まぁ、ちょっと“貴族家の主”をやりたがるところはあるけど」
レティアはふたりの様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「うちの両親、ちょっと格式張ってるけど、根は悪くないのよ。……それより、そろそろお部屋に案内しようかしら?」
「うん、楽しみ。エクスバルド邸のお部屋ってすごく綺麗なんだよね」
アリスが期待を込めて言えば、
「初めてだから少し緊張するわ……」
クラリスは控えめに微笑みながらも肩をほぐした。
アリスとクラリスが腰を浮かせたその時――扉の向こうから軽やかなノックが響いた。
「どうぞ」
レティアが顔を向けて声をかける。
扉が開き、姿を現したのは、栗色の髪を上品にまとめ、淡い藤色のドレスをまとった女性だった。
背筋の伸びた佇まいと、自然に人を引き込む穏やかな笑顔。
その瞳はレティアと同じ深い碧色を宿し、親しみと誇りが滲んでいる。
「あら……やっぱりアリスね」
その声を聞いた瞬間、アリスの表情がぱっとほころぶ。
「セリアお姉様!」
アリスは椅子から立ち上がり、駆け寄るようにして一歩踏み出した。
ミラージュから移り住んだばかりの幼い頃から、この女性はいつもやさしく接してくれた。
お菓子作りを教えてくれたり、庭で花冠を作ってくれたり――血のつながりはなくとも、アリスにとっては本当の姉のような存在だ。
「まぁまぁ、大きくなって……すっかり立派なお嬢さんになったわね。ほら、ちょっと顔を見せて」
セリアは微笑みながらアリスの手を取って軽く握り、指先でそっと頬に触れた。
「お姉様もお変わりなく。お会いできて嬉しいです」
「ふふ、そう言ってくれると嬉しいわ。レティアから“絶対アリスが喜ぶから”って言われたんだけれど、その通りだったみたいね」
「ちょ、ちょっとお姉様……!」
レティアが耳を赤くする。
「だって本当でしょう? 昔からアリスのことになると、あなた少し騒がしいのよ」
「ほ、騒がしいって……!」
レティアが小声で抗議する姿に、クラリスも思わず微笑む。
クラリスも席を立ち、礼儀正しく一礼する。
「ミラージュ王国魔導技術開発局第二班のクラリス・ノーザレインと申します。お会いできて光栄です」
「まぁ、ご丁寧に。レティアの友人で、そしてアリスの友人でもいらっしゃるのね。こうして会えて私も嬉しいわ。ふたりとも、本当に良いお友達に恵まれてるのね」
「光栄です。……レティアさんが“自慢のお姉様よ”と仰っていたので、お会いできて嬉しいです」
「ちょ、ちょっとクラリスさん!? そんなこと言ったっけ私!?」
レティアは顔の前で手を振って抗議する。
「言ったわよ、はっきりと」
クラリスは微笑み、アリスが「うん、言ってた」と囁く。
「アリスまで……!」
レティアが頬を膨らませると、セリアは「ほんと可愛いわね」とくすくす笑った。
「学院での生活や勉強のこと、レティアからも聞いていますけれど……アリスは小さい頃から変わらないわね。芯が強くて、でも無理をしがち」
「……耳が痛いです」
「ほんとにそうなの。昔なんて、庭で転んでも『まだ走れる』って言ってたんだから」
セリアが思い出して笑うと、
「アリスならやりそう」
クラリスが納得したように頷く。
「う……うぅ、その話は……」
アリスが照れる。
「でも、そこがあなたの良さよ。強さでもあるし、ちょっと心配の種でもあるけれどね」
しばらくの間、セリアは三人と紅茶を囲みながら談笑した。
王都の近況や、エクスバルド家での出来事、
そして昔話――アリスがまだ子どもだった頃の思い出に、何度も笑い声がこぼれた。
クラリスは初めて聞くエピソードの数々に興味深そうに耳を傾け、その様子を見てセリアも嬉しそうに笑みを深める。
「……ああ、懐かしいわ。本当に可愛かったのよ、アリスは」
「お姉様、もうやめて……!」
「ふふ、まだまだいっぱいあるわよ?」
「絶対だめ!!」
アリスが慌てて手を伸ばし、レティアとクラリスが声を抑えて笑い出す。
やがて、セリアは時計に視線を落とし、少し名残惜しそうにカップを置いた。
「そろそろ失礼しないと。お二人とも、また時間のある時にゆっくりお話ししましょうね。アリス、体に気をつけて。無理はだめよ?」
「はい、お姉様。……ちゃんと気をつけます」
立ち上がったセリアは、アリスの肩に軽く手を置き、もう一度だけ優しく笑いかけた。
「レティア、しっかりお二人をご案内して差し上げてね」
「もちろんですわ。任せてください、お姉様」
セリアはクラリスにも一礼し、静かな足取りで扉へ向かった。
ドレスの裾がわずかに揺れ、ほのかな香りが室内に残る。
扉が閉まると、その香りと、姉の温もりを思い出させる感覚だけが、しばらく室内に漂っていた。




