第四部 第ニ章 第7話
昼の鐘が、遠くの教会から澄んだ音色となって街に響き渡っていた。
ゆったりと空気を震わせるその音は、石造りの建物に反響し、グレイスラーのパン屋の奥まで柔らかく届いてくる。
鐘の余韻の中、厨房の奥からはまだ焼き立てのパンの香りが濃く漂い、麦とバター、そして表面を焦がす香ばしさが混じり合って、店の中を満たしていた。
アリスは、名残惜しそうに厨房の光景を見やりながら、手元の鞄の口を軽く押さえた。
肩にかけたストラップから伝わる重みは、昨日までの思い出をそのまま詰め込んだかのようだ。
その隣で、クラリスも控えめに深呼吸をしている。
淡い笑みの奥には、つかの間の滞在が終わる惜しさと、これから向かう場所へのわずかな緊張感が同居していた。
ふたりは荷物を手に、カウンターの向こうで待つギルバートとエリナの前に立つ。
「お世話になりました、ギルバートさん、エリナさん。本当に、楽しい滞在でした」
クラリスは、まっすぐに相手の瞳を見つめながら深く頭を下げた。
その声は丁寧でありながら、心の底にある温度をそのまま乗せていた。
「まあ……そんなふうに言ってもらえると、こっちが嬉しくなるわ」
エリナはクラリスを娘のように見つめ、表情を柔らかく緩める。
「クラリスさん、仕事も忙しいんだろう? 少しでも休まったなら良かった」
ギルバートが腕を組み、照れくさそうに笑った。
「ええ、本当に。アリスの家って……空気があったかいんです。昨晩なんて、寝る前にほっと息が出るくらいでした」
クラリスは胸元に手を当て、少し恥ずかしそうに微笑む。
「またいつでもおいでなさいね。うちのパンくらいでよければ、何個でも袋に詰めて持っていっていいんだから」
エリナは軽やかに言いながら、クラリスの肩にそっと触れた。
「そ、それは……そんな贅沢、いただいていいんでしょうか?」
「いいのよ。あなたは“娘の友達”なんだから。ううん――ほとんど娘みたいなものよ」
その言葉にクラリスは目を瞬かせ、頬をほんのり赤らめた。
「ありがとう……ございます」
小さく、でも深く頭を下げる。
アリスはそんな二人を見守りながら、笑みを浮かべつつも、心の奥が少しだけきゅっと締めつけられるのを感じていた。
「ありがとう、母さん。……じゃあ、行ってきます」
アリスはほんの一瞬、視線を揺らした。
心の奥にある“もっとここにいたい”という小さな衝動を押し隠すように、明るい声を出す。
「アリス、気をつけてね。クラリスさんも、道中は無茶しないように。二人とも細いんだから」
エリナは心配そうに口を尖らせる。
「だ、大丈夫だよ母さん……! 誰が細いって?」
アリスが焦ったように返すと、クラリスが控えめに笑う。
「ふふ……エリナさん、アリスは学院でも元気いっぱいですよ。むしろ私が守ってもらってるくらいで」
「ちょ、ちょっとクラリス……!」
「事実でしょ?」
からかう声にアリスは頬を膨らませ、ギルバートは喉の奥で笑い声を漏らした。
「じゃあ、またすぐ帰ってこい。次は……そうだな、秋の収穫祭には絶対戻ってこいよ。お前の好きな焼き栗パン、特別に焼いてやるから」
「え……焼き栗パン? あれ、また食べられるの……?」
アリスの目が一瞬で輝く。
「ああ、約束だ」
ギルバートの言葉に、アリスは胸の奥がじわっと温かくなるのを感じた。
玄関の扉を開けると、午後の陽光が差し込んできた。
木の床に長く落ちた光の帯が、風に揺れる鞄の影と重なり、ゆらゆらと形を変える。
外の空気は少し暖かく、昼の匂い――石畳が太陽に温められた独特の香りと、遠くから漂う花の香りが混じっていた。
通りの向こうでは、昼食へ向かう人々の足音と、商店の呼び込みの声が重なって聞こえてくる。
「……行こっか、クラリス」
アリスの声はどこか名残惜しさを含みながらも、前を向く強さを帯びていた。
「ええ。エクスバルド邸へ――レティアさんが待っているものね」
クラリスは鞄の紐を握り直し、小さな決意を宿した瞳で頷いた。
こうして二人は、ゆっくりと通りへ踏み出した。
パン屋の扉は静かに閉まり、香ばしい香りだけがふたりの背中をそっと押していた。
店の前には、漆黒の光沢を帯びた魔導馬車が静かに待機していた。
光沢のある車体には埃ひとつなく、職人の手で磨かれた木の枠が柔らかく陽を反射する。
扉の側面にはエクスバルド家の紋章が金で象られ、深い黒の中で誇らしげに輝いていた。
御者は、二人を見つけると帽子のつばに手を添え、深く礼をしながら扉を開けた。
その仕草は流れるように滑らかで、長年仕えてきた経験がにじみ出ている。
「……来てたね」
アリスがかすかに息を呑み、クラリスへと目を向けた。
「ええ。レティアさん、本当に早いわね。予定よりだいぶ前じゃない?」
クラリスは鞄の紐を小さく握り直し、苦笑混じりに囁く。
「レティアだもん。張り切りすぎると、こうなるよ」
アリスは肩をすくめつつ、どこか嬉しそうに笑った。
「ふふ……そういうところ、嫌いじゃないわ」
クラリスも小さく笑う。
互いに「いよいよね」という思いを確認するような一瞬のやり取りの後、先にアリスが、続いてクラリスが馬車に乗り込んだ。
座席に腰を下ろすと、しっとりとした革張りのクッションが背中を優しく包み込み、ふたりは小さく息をついた。
肩に残っていたわずかな緊張が、座席の柔らかさと共にほどけていく。
「……すごく、静か」
クラリスは馬車の内部をきょろきょろと見回しながら、驚いたように言った。
「エクスバルド家の馬車、振動が少ないんだよ。昔からこだわってるみたいで」
アリスは窓へ視線を向けながら、自然と誇らしげな口調になる。
「それ、レティアさんの話し方に似てきてるわよ?」
「え、ほんと?」
「ええ。……なんだか、仲の良さが滲み出てる」
クラリスは唇を少し上げて、どこか温かい目で言った。
「な、なんか照れる……」
アリスは頬を指でつつきながら俯いた。
馬車は御者の短い合図と共に静かに発進した。
石畳を進む車輪が一定のリズムで音を立て、車内にかすかな揺れをもたらす。
「……この揺れ方、ちょっと好きかも」
「わかる。落ち着くよね」
窓の外には、午前中の賑わいを終えた街並みがゆっくりと流れていった。
露店の布が風に揺れ、通りの端には午後の買い物をする婦人や子どもたちの姿がある。
パン屋から漏れる香りがふっと車窓に届き、アリスは無意識に深呼吸をした。
「……いい匂い。さっきまであそこで働いてたんだって、実感するなあ」
アリスは軽く笑い、胸に手を当てた。
「アリスの実家、本当に温かい場所だったわ。あんなに落ち着ける家、久しぶりだったもの」
クラリスは素直に言葉を紡ぎ、その瞳は少し遠くを見るように柔らかく揺れた。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。母さん、絶対喜ぶ」
「ふふ……帰ったらまた伝えておいて」
「うん! 任せて」
やがて馬車は、街の北に広がる邸宅街へ入っていく。
両脇には高い塀と手入れの行き届いた庭が続き、その向こうには色とりどりの花々や整えられた生け垣が見える。
石畳は街中よりもさらに滑らかに敷かれており、車輪の音も柔らかくなっていた。
「……やっぱり、こっちの地区は空気が違うね」
アリスがぽつりと呟く。
「静かだもの。高貴な家の区域って、こんな感じなのね……落ち着くけど、少し背筋が伸びるわ」
「レティアが言ってたよ。“静けさは責任とセット”なんだって」
「……らしい言い方ね」
クラリスは微笑みながらも、その言葉に含まれた重みを感じ取り、わずかに表情を引き締めた。
「ここから先が、エクスバルド領主邸の私道だよ」
アリスの言葉に、クラリスは息をのむ。
「すごい……もう森みたい。綺麗すぎて、絵本の中みたいだわ」
「レティアが案内してくれるだろうし、きっと楽しいよ。……泊まりだしね」
「あ、そういえば泊まりだったわね……覚悟しておいた方がいいかしら?」
「ふふっ。レティアの張り切りようによるかな?」
二人は思わず笑い合った。
馬車はさらに奥へと進み――
やがて、エクスバルド邸の壮麗な門が静かに姿を現した。
その最奥に、ひときわ広大な敷地と白亜の外壁を誇る建物が現れる。
エクスバルド伯爵邸――王国でも指折りの格式を持ち、百年を超える歴史の中で数々の来賓を迎えてきた屋敷だ。白い壁面には季節ごとの蔦が這い、今は淡い緑の若葉が陽光を浴びてきらめいている。
高くそびえる尖塔の窓からは庭を見渡すためのバルコニーが突き出ており、その造りは威厳と優雅さを兼ね備えていた。
門前で馬車が静かに止まる。
待っていたのは、端正な執事服に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしたオスカーだった。
「お待ちしておりました。アリス様、クラリス様、ようこそお越しくださいました」
深く低い声が、重厚な門構えの前で心地よく響く。
「こんにちは、オスカーさん。今日もありがとうございます」
アリスは笑みを浮かべて返し、その声色には親しさと尊敬が混じっていた。
「本当に丁寧ね……」
クラリスがそっと呟く。
少し緊張が混じった声音だったが、どこか楽しげでもあった。
「ご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
オスカーは片手を胸に当て、もう一方の手で邸内への道を示す。
その所作一つにも、屋敷の品格を支える自覚がにじんでいる。
重厚な扉をくぐると、玄関ホールが広がった。
高く伸びる天井には大きなクリスタルのシャンデリアが吊り下げられ、窓からの光を受けて虹色の反射を床に落としている。
大理石の床は鏡のように磨かれ、歩くたびに靴音が静かに響き渡った。
「うわ……」
クラリスが思わず声を漏らす。
その視線はホールの奥の天井画へ吸い寄せられていた。
「ここ、やっぱり広すぎない?」
「うん、初めて来た時は迷子になるかと思ったよ」
アリスは苦笑しながら肩をすくめた。
「アリス様は三度ほど迷われました」
オスカーが淡々と補足し、アリスは顔を赤らめた。
「ちょっ……オスカーさん、それ言わなくても!」
「事実でございますので」
「そこは優しさでオブラート包んでよ!」
クラリスは吹き出しそうになり、手で口元を押さえている。
そんな和やかな空気のまま、客間の扉が開かれた。
ふたりの視線の先に、明るい笑顔のレティアが立っていた。
「アリス! クラリスさん! よく来てくれたわね!」
その声は弾み、部屋の空気を一気に華やがせた。
「レティア!」
アリスが駆け寄ろうとした――その瞬間。
「お嬢様!」
オスカーが低くも鋭い声で呼びかける。
レティアははっとして一歩下がり、表情を引き締めた。
さっきまでの親しげな笑顔は影を潜め、背筋がぴんと伸びる。
「申し訳ございません、オスカー。お待たせいたしましたわ。
アリス様、クラリス様、お越しいただき誠にありがとうございます。どうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ」
その声は凛として澄み、所作も流麗な貴族令嬢そのものだった。
オスカーは満足げに頷き、静かに脇へ控える。
アリスとクラリスは、予想以上の切り替えの早さに一瞬驚きながらも、笑みを交わした。
「そんなにかしこまらなくてもいいんだけどね……」
アリスが囁く。
レティアは一瞬だけ目をそらし、頬を少し染めた。
そして再び、柔らかな笑顔を取り戻す。
「ふふ、でもこれも私らしさってことで!」
「まったく……ほんとに完璧ね、あなた」
クラリスが肩をすくめる。
「完璧じゃないわよ。ただ……大事なの。家の者たちの前では、ちゃんと“エクスバルド家の次女”でいたいから」
その声音には少し照れと、少し誇りが混じっていた。
レティアは二人を促し、応接室へと案内した。
扉の向こうには、深い色合いのカーペットが敷かれ、壁には古い油彩画と細やかな刺繍のタペストリーが飾られている。
磨かれた木製のテーブルの上には、香り高い茶葉と菓子のセットがすでに用意されていた。
淡く立ちのぼる湯気が、午後の柔らかな光の中に溶けていく。
「ねぇレティア、これ全部……今日のために?」
アリスが尋ねる。
「もちろんよ。今夜はちょっとしたディナーも用意してあるの。
明日にはまた王都に戻るけど……その前に、しっかり楽しんでもらうわよ?」
「ふふ……あなた、ほんとに“迎え入れる”のが好きね」
クラリスがくすくす笑う。
「好きなのよ。アリスたちと一緒に過ごす時間って、私にとってすごく特別だから」
「レティア……」
アリスの胸がじんわりと温かくなる。
その優しさは、どこまでもまっすぐで、どこまでも彼女らしい。
「じゃあ今日は、遠慮なく甘えさせてもらうね」
「私も。肩書き抜きで、友達として楽しませてもらうわ」
「ええ、期待してて!」
三人は笑い合い――
王都の日常とは違う、少し贅沢で穏やかな時間へと歩み出した。
静かな午後と語らいの夜が、ゆっくりと幕を開けていく。




