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第四部 第ニ章 第6話

 朝靄が、まるで街全体を淡いヴェールで包み込むかのように漂っていた。

 石畳の上を渡る冷たい空気は、夜の名残をわずかに含み、吐息を白く染めながらゆっくりと流れていく。


 その中で、グレイスラーのパン屋からは、もうすでに小麦の甘い香りと、焼き立てのパン特有の香ばしさが静かに漏れ出し、まだ人影のまばらな通りに温もりを添えていた。


 石造りの外壁には、東の空から差し込み始めた淡い朝の光が斜めに当たり、古びた漆喰の白をやわらかく照らし出している。

 窓辺に吊るされた花鉢には夜露がきらめき、つぼみの先端に丸い雫を抱えたまま小さく揺れていた。


 通りを行き交うのは、パン屋の常連である近所の老人や、仕入れに向かう小商人、牛乳瓶を抱えた配達少年たち。


 彼らの中には、店先から漂う香りに誘われて足を止め、まだ閉じられた扉をちらりと見やってから、満足げな顔で再び歩き出す者もいた。

 中には深呼吸をして、鼻先に残る香りを味わうように微笑む者もいる。


 奥の厨房では、アリスが父ギルバートと肩を並べて作業台に立っていた。

 陽が完全に昇る前の薄暗がりの中、窓から差し込むわずかな光と、頭上のランプが二人の手元を照らしている。

 作業台には打ち粉が薄く散り、空気の中には小麦粉の細かな粒が舞っている。

 それらが光を受け、ほんのりと金色に輝きながらゆっくりと落ちていく。


 アリスは両手でやわらかな生地を持ち上げ、指先でそっと押しつつ丸く成形していく。

 掌に伝わる生地の温もりと弾力、そして呼吸のリズムに合わせるような均等な動きは、何度も繰り返してきた経験が染みついている証だった。

 時折、息を吐くたびに前髪がかすかに揺れ、その表情には集中と穏やかさが同居している。


 隣のギルバートは、熟練の職人らしい大きく厚い手で生地をまとめ上げ、迷いなく作業台の端へと並べていく。

 その速さはアリスの倍にもなり、手元の動きに無駄がない。

 パン生地を扱う音、木のボウルが台に当たる軽い響き、そしてわずかな生地の発酵音が、二人の間を静かに満たしていた。


「今朝も手伝ってくれて助かるよ、アリス」

 作業の合間、ギルバートが穏やかに声をかける。


「ううん、むしろこの空気が落ち着くんだ。……きっと学院に戻ったら、しばらく恋しくなると思う」

 アリスは手を止めず、生地を指で押し込みながらちらりと父を見上げる。

「学院の厨房、機材はすごいけど……温度も匂いも、ちょっと違うから」


「ふふ、お前がそう言ってくれると嬉しいよ」

 ギルバートの声が、どこか照れたように少しだけ低くなった。

「アリスが小さい頃なんて、こねた生地を“もちもち怪獣”とか言って遊んでたのになあ」

 大きな手の動きを少し止め、懐かしそうに目を細める。


「ちょっ……お父さん、それ覚えてたの?」

 アリスは半ば呆れながら、でもどこか楽しげに目を丸くした。

「やめてよ、クラリスやレティアに聞かれたら絶対笑われる……!」


「はは、誰にも言わないさ。……母さんにも、な」

「それは……母さんには言ってもいいよ。どうせ覚えてるし」


 窓の外では、まだ開ききらない空の下、細い路地を抜ける朝の風が、乾いた麦の匂いとほのかな露の香りを運び込んできた。


「でも、アリス」

 ギルバートは成形した生地をトレイに並べながら、ふと真面目な口調に変わる。

「無理はするなよ。学院でも、ここでもな」


「……してないよ」

 アリスは少しだけ返事が遅れた。

「ううん、してる時もあるけど。でも、ちゃんと戻ってくるから。ここは私の……帰ってくる場所だから」


 ギルバートは、ほんの短い沈黙のあと、静かに微笑んだ。

「そう言ってくれれば十分だ」


 厨房に立つ親子の会話は多くない。

 けれど、粉をこねる音や木の器が触れ合う音、そして時折交わす視線の温もりが、言葉以上に確かな絆を伝えていた。


 一方その頃、二階の部屋ではクラリスが帰宅の支度を進めていた。

 朝の光を受けてやわらかく照らされた部屋の中、淡い色合いの鞄がベッドの上に広げられ、その横にはきちんと畳まれた衣類や革の資料フォルダーが整然と置かれている。

 クラリスの手は滑らかに動き、必要な物を順に詰めていく。

 その所作は研究所で器具や資料を扱う時と同じく、寸分の狂いもない正確さだった。


「……これも入れておいた方がいいかしら」

 独り言のように呟きながら、小さな魔導計測器を確認し、鞄の奥へそっと滑り込ませる。

「アリスのところに置きっぱなしだと、きっと“研究室じゃないんだから”って苦笑されちゃうものね」


 鏡の前に立つと、細い指先で前髪を整え、口元にほんのりと笑みを浮かべる。

 髪留めをやや斜めに直し、身だしなみを確認する視線は真剣で、どこか旅立ちの前の静かな決意が感じられた。


「ふぅ……うん、これで大丈夫。……たぶん」

 自分で言いながら、鏡の中の頬がわずかに赤くなる。

「アリスみたいに“直感で何とかする”ってタイプじゃないし、忘れ物したら恥ずかしいものね……!」


 最後に、アリスの家からもらった小さな焼き菓子の包みを鞄の上にそっと置く。

 紙包みの隙間から漂う甘い香りに、昨日の夕暮れの笑い声や食卓の温もりが蘇る。


「あ……これ、すごく美味しかったなぁ」

「お母さまのレシピ、帰ったら資料にメモしておこうかな……。いや、研究資料じゃないんだけど……でも、あの味は忘れたくないし……」


 ふと窓辺に近づき、外を見やる。

 靄がゆっくりと溶けはじめた空の下、石畳の道はしっとりと濡れ、家々の屋根の端からは小さな雫が滴っている。

 遠くでパン屋の看板が風に揺れるのが見えた。


「……アリス、もう起きてる頃よね。きっとパン生地をこねながら、少しだけ眠そうな顔してるんだ……」

 その想像に、口元がほころぶ。

「レティアは……まだ寝てるかも。昨日あんなに歩いたし。ふふ、起こされたら“淑女に対する暴挙ですわ”って言うのに、結局すぐ起きるのよね」


 昨日、観光と語らいに費やした時間が、胸の奥で温かい余韻となって広がる。


「……本当に、良い時間だったわね」

 小さくこぼれた呟きは、窓から入り込むひんやりとした朝の空気に溶け、静かに消えていった。

「今日も……いい一日になるといいな。アリスとレティアと過ごす“あの時間”って、やっぱり特別……」


 やがて、厨房からはこんがりと焼き上がる香ばしい香りが一層強く立ちのぼり、家全体をほっと包み込んだ。

 アリスは手を洗い、木製のフックからエプロンを外すと、肩の力をゆっくり抜いてダイニングへ向かった。


 階下では、すでにクラリスが丸テーブルのそばに腰掛けていた。

 朝の光がレース越しに差し込み、彼女の淡い髪に柔らかい金色の縁を添えている。


「おはよう、クラリスさん。よく眠れた?」

 エリナが、湯気の立つスープをテーブルに置きながら声をかける。


「はい。……とてもぐっすり眠れました。ここって、不思議なくらい落ち着くんですね」

 クラリスは照れくさそうに笑い、指先で髪を耳の後ろにそっとかけた。


「まあ……そう言ってもらえるなんて嬉しいわ」

 エリナは目を細め、パンが盛られた籠をテーブル中央へ滑らせる。


「お、クラリスさん。準備はもう終わったのか?」

 奥からギルバートが現れ、手についた粉をエプロンで軽く払った。


「はい。昨晩のうちに半分まとめておいたので。忘れ物があっても……きっと、ここなら何とかなる気がしてしまいますけど」

 クラリスは小さく冗談めかして言い、アリスに向けて柔らかく目を細めた。


「ふふ。クラリスなら、何を忘れても許される気がするよ」

 アリスが席につきながら微笑む。


「そんなこと言って……あとで“本当に忘れたの?”って言うんじゃない?」

「言わないよ。……たぶん」

 アリスは肩を竦め、クラリスは苦笑しながら首を振った。


 テーブルを囲む空気は、朝の光と湯気が揺れる中で、じんわりと温度を帯びていく。


「でね、今日は午後にエクスバルド伯爵邸へ行くことになってるの」

 アリスはパンをちぎり、ふわりと立ち上る香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「一泊して、明後日の朝に王都へ戻る予定なんだ」

 柔らかい言い方ではあったが、その声の奥にはほんの少しの名残惜しさが滲んでいた。


「……そうか。やっぱり、あっという間だな」

 ギルバートが深い息を吐きながら頷く。


「ほんとにねぇ。次はいつ帰ってこられるの?」

 エリナの問いに、アリスは視線を少し泳がせた。


「えーっと……それは、学院の予定次第かな。なるべく早く、帰ってこられるようにするよ」

「まあ、上手にはぐらかされた気がするけど……仕方ないわね」

 エリナは苦笑しながらバターナイフを手に取った。


「それなら……せめて今のうちに少しでも恩返しを。午前中だけでも、店番を手伝いましょうか?」

 クラリスがふっと微笑み、姿勢を正す。


「えっ、いいの?」

 アリスが目を丸くする。


「ええ。あれだけもてなしていただいたんですもの。ほんの少しですが、お力になれれば」

 その穏やかな声は、嘘のない真心で満ちていた。


「まあ……嬉しいわ。よかったらお願いしてもいいかしら?」

 エリナの瞳が嬉しそうに細まる。


「じゃあ、俺は仕込みの続きに戻るから、クラリスさんには表のレジをお願いしようかな」

 ギルバートが頼もしげに笑った。


 そして午前九時。

 木製の扉が開かれた瞬間、朝の空気と焼き立ての香りが混ざり合い、店先は一気に活気づいた。


 クラリスは淡い色のエプロンを身につけ、カウンターの内側に立つ。

 最初は背筋をピンと伸ばし、少し緊張が滲んでいたが、客の笑顔に触れるにつれ、自然と表情がほぐれていった。


「こちら、お会計になります。ありがとうございました」

 クラリスは丁寧に微笑み、パンを包んだ袋をそっと差し出す。


「あら、お嬢さん上手ねぇ。看板娘かと思ったわよ」

 近所の常連客が笑って声をかける。


「ふふ、そんな……でも、そう言っていただけると嬉しいです」

 クラリスはほんのり頬を染め、控えめに礼をした。


 一方アリスは厨房と店頭を行き来し、焼き上がったパンを木棚に並べたり、注文に応じて手早く包み紙を結んだりと忙しく動き回っていた。

 額にはうっすら汗が浮かび、頬はわずかに紅潮している。


 ふたりの姿を見つめるギルバートとエリナは、ふと視線を交わし、静かに微笑み合った。


 ――賑やかな朝のひととき。

 それは、この先もずっと続く日常のように思えるほど穏やかで、温かい時間だった。

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