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第四部 第ニ章 第5話

 夕暮れが訪れるころ、三人は湖を離れ、再びエクスバルドの街へと戻ってきた。


 湖面に映る光はすでに黄金から淡い橙色へと変わり、波紋の揺れに合わせてきらめきを失いつつあった。背後に広がる水面は、まるで昼間の賑わいを忘れたように静かで、時折、岸辺の葦が風に揺れて微かな音を立てている。


 西の空には茜色がにじみ始め、石畳の道を照らす光は、昼間の眩しさとは違う、どこか柔らかく切ない色をしていた。道の両脇に並ぶ家々の壁や屋根も、その色をまとい、影がゆっくりと長く伸びていく。


「……もう、こんな時間なんだね」

 アリスがふと足を止め、空を見上げる。

 その横顔はどこか名残惜しげで、夕陽の橙色が睫毛に淡い陰影を落としていた。ゆっくりと肺に吸い込む空気は、昼より少し冷たく、夏の終わりを告げる風の匂いが混じっている。


「早いわね、一日なんて」

 クラリスがそっと呟く。

 その声は、楽しかった時間がゆっくり閉じていくのを惜しむように、どこか柔らかく震えていた。日傘をたたみ、胸の前で軽く抱える仕草に、今日一日の充実が静かに滲む。


 レティアは小さな笑顔を浮かべながら頷いた。


「でも、たくさん笑って、たくさん歩いて……本当に、いい思い出になったわ」

 彼女の言葉は、心の底から満たされたような落ち着いた響きを持っていた。歩きながら揺れる金の髪が、夕陽を受けて柔らかく輝く。

「また来ようね。季節が変わったら、きっと景色も違って見えるわ」


「うん……絶対に」

 アリスは小さく笑い返した。

「次は、今日よりゆっくり回ろうよ。もっといろんな場所を案内したいから」


「それ、楽しみにしてる」

 クラリスの微笑みは、旅人のそれではなく、もう“この街に馴染み始めた友人”のものだった。


 三人は並んで歩き、やがて賑やかな商店街へ入る。

 店先からはまだ営業を続ける呼び込みの声が響き、焼き菓子や香辛料の匂いが漂ってきた。ガラスの向こうに並べられた菓子パンや装飾品が夕陽を受けて淡く光り、行き交う人々の影がゆるやかに交差していく。


「わあ……この時間帯の商店街って、なんだか特別な雰囲気ね」

 クラリスは足を止め、飴色に照らされたショーウィンドウをのぞき込んだ。

「昼間より静かなんだけど……その分、街の息遣いが近く感じるっていうか」


「わかる」

 アリスも頷く。

「夜に変わる前の、この“間”の時間が、私はすごく好き。街が一度、呼吸を整えるみたいで」


「ふふ……アリスらしい感性ね」

 レティアは穏やかに微笑み、両手を背中で組む。

「でも確かに、エクスバルドの夕暮れは綺麗よ。城塞の影が長く伸びて、灯りがひとつずつ点る時間……昔から好きだった」


 三人が通りを抜けるころには、街灯のいくつかがぼんやりと灯り始めていた。

 その暖かな光は、昼間の喧騒を少しずつ夜の静けさへと溶かしていく。


「……さて、そろそろ帰ろうか。きっとお父さんたち、夕飯の準備してるよ」

 アリスが言うと、レティアとクラリスも頷いた。


「今日の夕飯、絶対おいしいわよね。アリスのお母さん、ほんとに料理上手だし」

「うん、帰るのが楽しみになってきた」

 三人は自然と笑みを交わし、ゆるやかな足取りで家路へと向かった。


 やがてアリスの実家――パン屋の角が見えた。

 しかし、店先に目を向けた瞬間、三人の足がぴたりと止まった。そこには見慣れた紋章を掲げた黒塗りの魔導馬車が一台、静かに待機していたのだ。


「……あー……来ちゃってたか」

 レティアが気まずそうに眉をひそめ、小声で呟く。

 その声には、逃げ場を塞がれたような微妙な諦めと、いつもの気丈さが半々に混ざっていた。


 馬車の傍らには、見覚えのある恰幅のいい中年の男性――エクスバルド家の執事、オスカーが背筋を伸ばして控えていた。彼は三人に気づくと、深々と丁寧な一礼をする。


「レティアお嬢様、予定より少し早めにお迎えに上がりました。ご準備はお済みでしょうか?」


 それまで砕けた調子だったレティアの声色が、一瞬で上品で落ち着いたものに変わった。

 背筋を伸ばし、柔らかくも毅然とした表情で答える。


「ご苦労さま、オスカー。ええ、すぐに向かいますわ」


 そして、馬車に乗る前にアリスとクラリスへと向き直る。

 その表情は、友人としての柔らかさを残しつつも、伯爵家の令嬢としての気品を帯びていた。


「本日はお二方と過ごせましたこと、まことに光栄に存じます。明日もまた、変わらぬご縁をいただければ幸いですわ」


 恭しく礼をするその仕草は、通りの人々の視線を自然と集めるほど優雅だった。

 アリスとクラリスも、思わず姿勢を正してしまうほどの気迫を感じた。


 次の瞬間、レティアはふわりと親しげな笑みに変わる。


「今日はありがとうございました。本当に……とても楽しいひとときでしたわ」


「こちらこそ。あっという間だったね」

 アリスが応えると、クラリスも優しく微笑んで頷いた。


「ええ、またぜひ三人で歩きましょうね」

 クラリスの声は柔らかく、今日一日の充実がそのまま滲み出ていた。


 レティアはふと「あら、そうでした」と小さく声を上げ、再び友人らしい口調に戻る。


「明日の午後、うちに来て。アリスも、クラリスさんも。泊まりで」


「えっ、泊まり?」

 アリスが思わず目を瞬かせる。

 その反応にレティアは、わかっていたと言わんばかりの笑みを浮かべた。


 レティアはいたずらっぽく微笑みながら念を押した。


「うん。だってその方が楽しいし、明後日の朝、一緒に王都へ戻れるでしょ?」


「……強引ね、相変わらず」

 クラリスが笑みを浮かべながら肩をすくめる。


「当然! ね、いいでしょ?」

 レティアの瞳は期待に輝き、子どものように真っすぐだった。

「三人でゆっくりお喋りもしたいし……。今日みたいに、ね?」


 アリスは小さくため息をついたが、その口元はわずかに緩んでいた。


「わかったよ。明日の午後、そっちに行くね」


「やった!」

 レティアはぱっと顔を輝かせ、手を軽く打った。

「それじゃあ、また明日ね!」


 その無邪気さに、アリスもクラリスもつられて笑みをこぼす。


 レティアは満足げに笑うと、再び表情を引き締め、馬車の階段を優雅に上った。


「それでは参りましょう、オスカー」


「かしこまりました、お嬢様」


 馬車はゆっくりと通りを進み、夕暮れの中へ消えていった。

 橙色の光の中で揺れるカーテンの向こう、レティアの姿はやがて見えなくなる。


 残された静けさの中で、アリスは小さく息を吐いた。


「……ほんと、レティアって切り替え早いよね」


「でも、あれがレティアさんらしさでもあるわよ」

 クラリスは柔らかく微笑む。


「うん。明日も楽しみだね」

 アリスはその言葉に頷きながら、もう一度馬車の去った方向を見つめた。


 「……ふふ、あいかわらず振り回されるね」

 アリスが肩をすくめると、クラリスがくすっと笑った。


「でも、そういうのも……ちょっと、楽しいかも」

 クラリスの声は、軽やかさの中に今日の余韻をそっと閉じ込めていた。


 二人は笑い合いながらパン屋の扉を押し開けた。

 店内からは、香ばしいパンの匂いと窓からこぼれる温かな光が迎えてくれる。

 昼の喧騒が嘘のように静まり返った店内には、焼き上がったパンの余熱と、木の棚から漂う柔らかな香りが満ちていた。


「おかえりなさい。ちょうど今、夜用の生地を仕込み始めたところよ」

 母のエリナがキッチンから顔を出し、優しい笑みを向けた。


「おかえり、楽しかったか?」

 父のギルバートも店の奥から声をかけ、粉のついた手をエプロンで軽く拭った。

 その声は、いつものように低く、安心感を与えてくれる温度があった。


「うん、すごく。今日は本当に、いろんな景色を見て、いろんな話ができたよ」

 アリスは頬を緩め、短く答える。

 その表情には、湖での穏やかな時間や、夕暮れの街並みがまだ残っていた。

 クラリスも隣で、「充実してたわね」と静かに微笑んだ。


 アリスはエプロンを手に取り、慣れた手つきで作業台へ向かう。

 台の上にはふくらみかけた生地が並び、その柔らかな手触りが指先に心地よく伝わる。

 丸めるたび、ほのかな酵母の香りが広がり、夜の静けさと混ざり合っていく。


 クラリスは椅子に腰掛け、アリスの手元を静かに見守っていた。


「こうして夜にパン屋の中で過ごす時間って……なんだか心が落ち着くわ。昼間の賑わいとは違って、夜のパン屋は、ほっとする匂いと音で満ちてる」

 言葉通り、クラリスの瞳は少しとろりとして、温かな居心地の良さに包まれているようだった。


 窓の外からは、夜風が軒先の風鈴を鳴らす小さな音が届き、遠くで虫の声がかすかに重なる。

 その音は、まるで時間をゆっくりと引き延ばしてくれるかのようだった。


「……明後日には、もう戻らなきゃいけないんだよね」

 アリスがふと漏らす。

 生地をこねる手は止めないまま、視線だけが少し遠くを見つめていた。


「うん。でも、帰った先にも大切な日常があるから」

 クラリスの穏やかな声は、どこか優しい説得のように響いた。

「それでも、こういう時間を心の引き出しに入れておくと、また頑張れる気がするのよね」


 アリスは微笑みながら、生地を最後の一つまで整えて並べた。


「……なんかわかる。疲れた時に、今日の湖の風とか、街の景色とか……ふと思い出せそうだもん」

 アリスの声には、ほんの少しだけ名残惜しさと、前に進むための温かさが入り混じっていた。


「ええ。きっと、戻った先でも力になるわ」

 クラリスは優しく言うと、アリスの横顔をそっと見守った。


 パンの発酵を待つ間、二人はしばし言葉を交わさず、夜の匂いと音に耳を傾けた。

 橙色の灯りがテーブルを照らし、その上に広がる影もまた柔らかく揺れていた。

 静かで、確かに存在する“今”が、二人の胸にゆっくりと刻まれていく。

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