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第四部 第ニ章 第4話

 三人は、食後の満足感を胸に、再び街を歩き、午後の目的地である湖畔へと足を延ばした。


 エクスバルドの湖は、城塞都市の外縁部から少し下った場所に広がる、鏡のように静かな水辺だ。

 遠くに連なる山々が水面にくっきりと映り込み、ところどころに雲の影が流れていく。

 その影を撫でるように、涼やかな風が湖面を揺らし、小さな波紋を広げていた。


 遊覧船の発着所から少し離れた散策路を進むと、湖岸沿いには木陰のベンチが点在し、芝地の緑が柔らかく足を包み込む。

 道端には初夏の野花が風に揺れ、その香りがかすかに漂ってくる。

 遠くで小さな鐘の音が響き、教会か船の時報か、時の流れをゆったりと告げていた。


「……うわぁ、やっぱり気持ちいいね」


 アリスは足を止め、両腕を軽く広げるようにして風を受けた。

 頬を撫でる風はほんのりと冷たく、日差しの暑さを優しく和らげてくれる。

 肩越しに流れる金髪が、光を受けてきらりと輝いた。


「この風、昼寝したくなるくらい心地いいわ」


 クラリスは日傘を傾け、湖を一望した。

 水面の上では、白い水鳥が数羽、羽を休めるように静かに浮かび、ときおり羽ばたいては小さな水しぶきを上げている。

 そのしずくの煌めきが、まるで宝石のように空中で瞬いて消えた。


「夏でも涼しいでしょ? 標高が高いから、日中でもそこまで蒸し暑くならないの」


 レティアはベンチの背にもたれて、ゆったりと大きく伸びをした。

 その動作は上品でありながら、親しい友人たちの前だからこその気安さがにじむ。


 三人は湖畔の木陰に腰を下ろし、時折吹く風に揺れる葉の音や、遠くで響く水音に耳を傾けながら、ゆるやかな時間を過ごした。

 水面を渡る風は、ほんのり甘い草の香りを運び、まるで時が少しだけ緩やかになったかのようだ。


「……こうしてると、城塞都市にいるのが夢みたい」


 クラリスがぽつりと呟くと、アリスは小さく頷いた。


「うん。いろいろなことから少し離れて、こういう風に自然の中にいると、自分を取り戻せる気がする」


「そういう時間も大事よね。わたしたち、どうしても“走る”ことに慣れちゃってるから」


 レティアの言葉に、二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 湖のほとりからは、子どもたちが水辺ではしゃぐ声が、風に乗って届いてくる。

 家族連れや観光客がゆっくりと散策を楽しみ、時折通り過ぎる水鳥の鳴き声が、この静かな場所にささやかな命の鼓動を添えていた。


 三人は語らいながらも、言葉の隙間にただ湖を眺める沈黙を共有した。

 水面に映る青空と雲が、ゆるやかに形を変え、流れていく。

 アリスはその景色を見つめながら、自分の胸の奥にある、言葉にしがたい感覚をそっと確かめていた。


 三人はしばらく静けさを味わったあと、再び立ち上がり、湖沿いの散策路を歩き出した。

 木漏れ日が差すなだらかな道を進むと、その先にひっそりと佇む石造りの構造物が目に入った。


「……あれ、記念碑かしら」


 クラリスが立ち止まり、指差した。

 声には素直な驚きと、少しの興味が入り混じっていた。


 レティアも同じ方向を見つめ、少し懐かしそうな表情を浮かべる。


「うん、この辺りでは少し有名な場所よ。見に行ってみる?」


 三人はゆっくりと丘を登り、記念碑の前へと歩を進めた。

 丘といっても小高い盛り上がりで、そこからは湖と周囲の山並みが一望できた。

 淡い苔に覆われた灰色の石碑は、長い年月を経てなお、その表面の刻字をくっきりと残していた。


 《この湖の一部は、かつて緑豊かな丘陵地帯であった。

  人魔大戦の末期、熾烈な戦いによって地形が崩れ、湖が形成されたという。

  ここには、数多くの命と記憶が眠っている――》


 文字を追っていたアリスの瞳が、ふと遠くを見つめるように揺らいだ。


(……ここ、来たことがある。

 いや、違う……“知ってる”……どうしてこんな……)


 その違和感は、胸の奥の“深いところ”をまさぐるように膨らんでいく。

 今いる現実の空気が、ふっと薄くなるような感覚――息を吸ったはずなのに、胸がうまく膨らまない。


(なに……? この感じ……)


 次の瞬間、胸の奥底で何かがざわめいた。

 耳の奥に、遠いはずの轟音が、断片のように蘇る。


――爆音。

――地を揺るがす咆哮。

――焼け爛れ、抉られた大地。


 視界の端に、無数の魔物が蠢く影が見えた気がした。

 蒼黒い瘴気のようなものが、地面の裂け目から絶えず立ち上り、空を汚していく。


(……これ……幻覚じゃない……誰かの“記憶”そのもの……?)


 戦場の中心には、銀白の鎧を纏った一人の少女が、背を向けて立っていた。

 その背中は、孤独で、必死で、けれど揺らぎがなかった。

 少女は剣を強く握り、群れをなす魔物たちへと、一歩、また一歩と踏み出していく。


(……あれは、誰……?

 どうして……胸が痛い……こんなに、苦しい……)


 胸が焼けるように熱くなり、喉の奥が微かに震えた。

 アリス自身の記憶ではない――それは確かだ。

 なのに、少女の背中を見た瞬間、心臓が悲鳴を上げるように締めつけられる。


 感情と景色が、自分の内側と溶け合う。

 熱い息遣い。

 血の匂い。

 剣が振るわれるたびに響く鋼の音。

 焼け焦げた大気の熱が、頬を刺す。


(痛い……苦しい……でも、離れたくない……どうして……)


 その全てが、現実のような鮮明さで蘇る。

 アリスは無意識に胸元へ手を当て、震える呼吸を整えようとした。


「……あの日、私は……ここで――」


 零れた言葉は、自分でも知らない声音だった。

 まるで“誰かの想い”が、喉を通して外へ漏れ出たような。


 その声は、湖畔を撫でる風に溶けて消えた。

 レティアが心配そうに近づき、そっと肩に手を置く。

 その手の温かさで、アリスはようやく現実へ引き戻された。


「アリス? どうかしたの?」


 アリスは軽く首を振り、かすかな微笑みを浮かべる。


「……ううん、大丈夫。ただ……ちょっと不思議な感覚になっただけ。

 昔の……誰かの記憶みたいなものを、少し感じただけ」


 その声音には、無理に取り繕った明るさと、本当に言葉にできない戸惑いが微妙に混ざっていた。


 クラリスが一歩踏み出しかけたが、アリスの落ち着いた声に安心し、静かに息をついた。


「……そう。でも、本当に大丈夫? 顔色、少し白いわよ」


「うん。ありがとう、クラリス。

 心配かけてごめん。でもね……大丈夫。ちゃんと自分の中で整理できてるから」


 アリスはやわらかな表情で答えた。

 その微笑みはどこか幼いころのままの優しさを思わせ、クラリスは胸の奥の緊張が、すっとほどけるのを感じた。


 レティアは湖面に視線を向けたまま言葉を続ける。


「……そう。でも不思議ね。今ここに立っていると、その時の感情が伝わってくるような気がするの。

 懐かしくて、切なくて、少し痛い……」


 彼女の声は、過ぎ去った誰かの想いを辿るように静かで、湖の風に乗って揺れた。

 ゆっくりと瞬きをするレティアの睫毛が、午後の光を受けて淡く影を落とす。その瞳には、今見えている景色ではなく、もっと遠い時代の風景を見ているような色があった。


 そして僅かに唇をかむ。


「……ああ、それに……この記念碑がどこの戦闘のものかわからなくて、もしかしたら、ここが“セレスの丘”だったのではと言われているんだけど……湖なんだよね、ここは。

 いくら地形が変わるとしても、ここまで変わるなんて――少し無理がある気がするわ」


 言葉には、歴史を丁寧に追い続けてきたレティアならではの疑念と、説明しきれない違和感が滲んでいた。

 彼女は記念碑に触れそうで触れない距離まで歩み寄り、刻まれた文字を見つめる。石の冷たさではなく、その底に眠る無数の声に耳を澄ませるかのように。


「……レティア?」

 クラリスがそっと問いかける。

「そんなに……気になるの?」


「うん。

 “セレスの丘”って、資料では何度も読んだことがあるの。でも、どうしても……この景色と繋がらないのよ」


 レティアは小さく息を吐いた。

 その声は迷いと確信の狭間に揺れながらも、どこか優しい温度を帯びていた。


「ねぇ、アリス。あなたは……どう思う?」


 アリスは静かに頷いたが、その表情はどこか影を帯びていた。

 それは思い出せない記憶を追うときにだけ浮かぶ、細く揺れる陰り。


(……はっきりと思い出せない。

 戦場の匂いも、風の音も、確かに感じたはずなのに……

 どうして、肝心なところだけ霞んでいくの……?)


 胸の奥で小さく軋むようなもどかしさを抱えながら、三人はしばらく無言のまま記念碑の前に立ち尽くした。

 風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳を包む。

 湖面には、午後の光が細かなきらめきを散らしている。


 その穏やかな景色は、さっきまでアリスの内側に吹き荒れていた嵐とは対照的で、だからこそ胸の奥が静かに疼いた。


 クラリスがそっとアリスを覗き込む。


「……ほんとに、平気?

 顔色……少し白いわよ」


「うん。平気だよ」

 アリスはそう返したが、声にはほんのわずかな震えが混ざっていた。

「ただ、ちょっと胸が……ざわついてるだけ」


「無理しないでね。

 もし何か思い出したら、私たちに言って」


 クラリスの優しい声音に、アリスはかすかに笑みを返した。


 過去と現在が交差するこの場所で、アリスは自分の中に流れる“時”の感触を、確かに覚えていた。

 それは懐かしい記憶が遠くから呼ぶような、あるいは未来へ続く何かの予兆のような、不思議な響きだった。


「……さ、行こっか。まだ今日という一日は続いてるんだから」


 アリスの声は優しく、どこか前を向く力を持っていた。

 その一言に、重くなりかけていた空気がふっと軽くなる。


 クラリスとレティアは笑顔を返す。

 クラリスはほんの少し安心の色を滲ませ、レティアは穏やかに頷きながらアリスの横に並んだ。


 三人はゆっくりと丘を下り、再び湖畔の道を歩き出した。

 遠くで水鳥が飛び立ち、羽音が静かな空気に溶けていった。

 湖面に揺れる光が三人の影を細く伸ばし、午後の柔らかな風が、その背中をそっと押し進めていくようだった。

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