第四部 第ニ章 第3話
三人は、アリスの実家のパン屋を後にし、朝の光に照らされた石畳の道を旧市街の方へと歩き出した。
舗道には朝露がまだわずかに残り、光を受けて小さな粒のようにきらめいている。
両脇の建物は低く、白い漆喰と赤茶色の屋根瓦が整然と並び、窓辺には色とりどりの花鉢が飾られていた。
通りの奥からは、パン屋の煙突から立ち上る香ばしい香りがかすかに漂ってくる。
アリスの案内で、静かな裏通りや趣のある石造りの門をくぐり抜けていくと、やがて目の前に広がったのは歴史ある大聖堂の堂々たる姿だった。
高さ百メートル近くある尖塔が二本、空を突き刺すようにそびえ、その表面には繊細な彫刻がびっしりと施されている。
正面の大扉は深い木目のオーク材でできており、金属の装飾板には神話の場面が浮き彫りにされていた。
「……やっぱり立派ね。写真では見たことあったけど、実物は全然違う」
クラリスが感嘆の声を漏らすと、レティアが小さく頷いて付け加えた。
「この大聖堂、三百年前の人魔大戦終結の記念として建てられたものなの。天井のアーチとステンドグラスには、神話と歴史のモチーフが散りばめられてるのよ」
「へぇ、さすがレティアさん、よく知ってる」
「まあ、地元だからね。子供のころ、よく写生に来たわ」
朝の時間帯だったこともあり、大聖堂の中は観光客もまばらで、静寂に包まれていた。
足音が高い天井に反響し、外の喧騒が嘘のように遠く感じられる。
高い天井から差し込む光が、色鮮やかなステンドグラスを透かして床に幻想的な模様を描き出している。赤、青、金、緑――色の粒がゆっくりと揺れ、まるで空気そのものが輝いているようだった。
「……きれい……」
クラリスは自然と息を呑み、広がる光の海に目を奪われていた。
アリスもまた、ふと天井の一枚の絵に視線を止める。
「このパネル……なんだか見覚えがあるような」
「王祖レティシア様の戦いを描いた場面よ。あれは有名な《セレスの丘の激戦》」
レティアの言葉に、アリスは静かに頷いた。
描かれていたのは、魔物の群れに立ち向かう一人の女性騎士の姿――それは、彼女の中に眠る記憶と重なる風景だった。
レティアは視線をパネルから外さず、静かに続ける。
「この戦いの少し前、連合軍は魔国本土への攻勢を仕掛けるため、前線拠点としてここ、エクスバルド要塞を築いたの。物資と兵を集め、そこから進軍して最初にぶつかった大規模戦場が、このセレスの丘だったといわれているわ。……でも、あまりにも激しい戦闘で地形そのものが変わってしまって、いまではどこをセレスの丘と呼ぶのか、はっきりとは分からないみたいね」
アリスは目を細め、遠くを思うように、誰にも聞こえない声で小さく小さく呟く。
「……ここを当時の私が建造を指示した場所だ。あそこで準備が整わなければ、この丘に挑むこともできなかった……はず、なんだけど」
そう言いながらも、脳裏に浮かぶのは断片的な情景だけだった。
戦場の風、響く怒号、鋼のぶつかる音――確かに感じた覚えはあるのに、丘の全貌や戦局の細部は、霧の向こうにあるかのように掴めない。
(……どうしてだろう。記録と一致するはずなのに、輪郭がぼやけてしまう)
描かれた場面に視線を戻すと、丘を覆う魔物の影、仲間たちの掛け声、そしてその背後にそびえ立っていたはずの要塞の輪郭が、一瞬だけ現実の色を帯びて脳裏に浮かび、そしてすぐに溶けて消えた。
クラリスがアリスの横顔に気づき、そっと問いかける。
「……アリス、大丈夫? 急に静かになったけれど」
アリスは一瞬だけ肩を震わせ、微笑を作って返す。
「うん、大丈夫。ただ……なんだか胸の奥がざわついて。懐かしいような、苦しいような……うまく言えないんだけど」
レティアが柔らかくアリスの腕に触れ、穏やかに言葉を添えた。
「無理に思い出そうとしなくていいわ。記憶って、自分の準備が整った時に自然と戻るものだもの。ここは……ただ綺麗な場所として見てもいいのよ」
アリスは小さく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「……うん。ありがとう、レティア」
そんな思いを胸に秘めながら、アリスは大聖堂の荘厳な雰囲気に身を委ねていく。
石造りの柱には歴代の聖職者や英雄の姿が彫られ、壁際には燭台が整然と並んでいた。
香炉からはほのかに甘く、落ち着く香りが漂い、時間の流れさえも緩やかになったように感じられた。
三人はひととおり見学を終え、大聖堂前の広場に出て、ベンチに腰を下ろした。
広場には丸い噴水があり、水面から舞い上がる細かな飛沫が陽光を受けてきらきらと光り、水音が涼やかに響いている。夏の朝の空気はまだ柔らかく、風に混じる草花の香りがほのかに鼻をくすぐった。
「このあと、午後は湖畔のあの場所ね。もう少しゆっくり見てからでもいい?」
アリスがそう問いかけると、クラリスとレティアは顔を見合わせ、息を合わせるように微笑んで頷いた。
「もちろん。むしろ、急いじゃもったいないわ。せっかくだから、この街をたっぷり味わいましょう」
クラリスが柔らかく笑いながら答える。
「そうね。それに――午後の湖畔は、陽が少し傾きかけた時間がいちばん綺麗なのよ。湖面の色が二度変わるの」
レティアが少し誇らしげに言った。
「二度?」
アリスが目を丸くする。
「夕陽が差し込む直前と、差し込んだ直後。影の色と水面の色がまるで違うの」
レティアは指先で湖の形を描くように空へなぞった。
「へぇ……そんなに綺麗なのね。楽しみ」
アリスが微笑むと、クラリスも満足そうに頷く。
小さな笑顔が、夏の陽射しにきらめいていた。
午前の街歩きは、旧市街地の石畳の通りから始まった。エクスバルドの旧市街は歴史を感じさせる落ち着いた趣に満ちており、古い看板の残る雑貨屋や、時を経た煉瓦造りの建物が立ち並んでいた。商人たちの声、軒先の風鈴、パンを焼く香ばしい香り――すべてが穏やかに混ざり合い、ゆっくりとした朝の空気をつくっていた。
「ここ、見て……昔の薬草屋よ。今は観葉植物の専門店になってるけど、看板はそのまま残してあるの」
レティアがそう説明しながら、ある店先を指さした。
クラリスは興味深そうにのぞき込む。窓際には小さな瓶や陶器が整然と並び、棚の奥には乾燥させた草花が吊るされている。古い木材の香りに、植物の青い香りが混ざって心地よい。
「なんだか不思議な香りが漂ってる……でも、嫌な匂いじゃないわ。落ち着く感じ。こういう香りって、どこか懐かしいのよね」
クラリスは小瓶を眺めながら目を細めた。
「このあたりの店は、地元の職人さんが多いの。代々続く家系だったりして、物語がたくさん詰まってるのよ」
アリスがそう補足すると、クラリスも頷いた。
「旅先で見る歴史って、記録よりも街の雰囲気に残ってるものなのね。歩くだけで楽しいわ。知らなかったわ、こういう旅の楽しさ」
「記録より街のほうが正確なことも多いのよ?」
レティアが肩をすくめる。
「それ、ちょっとわかる。だって……街の空気って嘘つかないものね」
クラリスが小さく笑った。
三人は、手織りの布を売る露店や、装飾ガラスの工房をひやかしながら、通りの賑わいを楽しんだ。工房の奥では職人が真剣な表情で炉の前に立ち、溶けたガラスを息で膨らませていた。炉の熱気と、表面に浮かぶ光のゆらぎが、まるで魔法のようだった。
「うわ……ガラスって、こうやって作ってるんだ……!」
クラリスが思わず身を乗り出す。
「割れ物大好きよね、クラリスって」
アリスが笑いながら囁く。
「だって綺麗なんだもの。見て、あのグラデーション……色が溶け合って、世界に一つだけの模様になってる」
クラリスは息を呑んだまま視線を動かさない。
「職人さん、慣れてるからって簡単そうに見えるけど……絶対すごい集中力よね」
アリスが腕を組む。
「何百回も失敗して、やっと形になるのよ。うちの地元にも吹きガラスの工房があってね、子供のころ体験したことあるの」
レティアが懐かしそうに話す。
「えっ、そうなの? レティアさんがガラスを?」
クラリスが目を輝かせた。
「へぇ、知らなかった。どんなの作ったの?」
アリスの視線がレティアに向く。
「……丸い灰皿」
レティアは少し恥ずかしそうに視線をそらした。
「かわいいじゃない!」
クラリスが笑う。
「いや、それは……当時の先生が『とりあえず丸いのから作れ』って言うから……!」
レティアが気まずそうにつぶやき、三人の間にまた笑いが弾けた。
小さな噴水広場では子どもたちが水遊びをしており、遠くからは演奏家の奏でる弦楽の音が風に乗って流れてきていた。
通りの石畳に光が反射し、歩くたびに白い明滅が足元を照らす。旅先でしか味わえない、特別な時間がゆっくり流れていく。
「ほんと、絵本の中に迷い込んだみたい……」
クラリスが感嘆の声を漏らすと、アリスもその空気に頷いた。
「わたし、小さい頃はこの辺りをよく走り回ってたんだよ。レティアに連れられてさ」
「……あれは“走らされてた”の間違いでしょ?」
レティアがすかさず笑いながら言い返す。
「え? あれって、わたしが自分で走ってたんじゃなかったの?」
アリスが目をぱちくりさせる。
「違うわよ。あなたが迷子にならないように、全力で追いかけてただけ」
レティアは腰に手を当ててため息をつく。
「えっ……そんな苦労、してたの?」
アリスの顔がみるみる赤くなる。
「今知った?」
クラリスがくすっと笑った。
「もう……言ってよ……!」
アリスが頬を膨らませると、二人はさらに笑った。
三人の笑い声が、旧市街の通りにやさしく溶けていった。
しばらく散策を続けたのち、三人は昼も近づいたことを感じ、旧市街の一角にある小さなレストランへと足を運んだ。石造りの外壁と木の看板が目印の、地元でも評判のよい隠れ家的な店だった。扉を開けると、木の梁と漆喰の壁が温かみを感じさせ、窓からは通りの花々がちらりと見えた。香ばしい焼きたてパンとハーブの匂いが、ほっとするように三人を包み込んだ。
「ここ、雰囲気がすごく落ち着いてて素敵ね」
クラリスがメニューを手にしながら言うと、レティアが自信ありげに胸を張った。
「昔からよく来てたの。素材も地元産だし、パンもスープも絶品よ」
「レティアが胸を張るの珍しくない?」
アリスがからかうように笑う。
「だって本当に美味しいんだもの。エクスバルドの誇りよ、ここは」
レティアがあくまで真面目な顔で言うので、クラリスがぷっと笑う。
「じゃあ、地元の人おすすめのメニューにしようかな」
アリスは笑いながらそう言い、三人はそれぞれ地元料理のセットを注文した。
「クラリスはどれにするの?」
アリスが覗き込む。
「この……湖魚のセットにしようかな。説明文の“香草バター仕上げ”って言葉だけでもう美味しそう」
クラリスはメニューを見つめながら頬を緩ませる。
「正解。ここは魚が外れないわ」
レティアが誇らしげに指を弾く。
やがてテーブルには、焼きたての黒麦パンと香草バター、季節野菜のポタージュ、湖魚のソテーが運ばれてくる。黒麦パンの表面は香ばしく、中はふんわりと柔らかい。香草バターをのせると、じんわりと溶けて芳醇な香りが立ち上った。ポタージュは淡い黄色で、口に含むと野菜の甘みがじんわりと広がり、湖魚のソテーは皮がパリッと焼き上がり、淡白な身にレモンとハーブが爽やかに香った。
「……このポタージュ、信じられないくらい優しい味」
クラリスがスプーンを口元に当てたまま、思わず目を細める。
「わかる。素材の甘みがすごく引き立ってる」
アリスが頷きながらゆっくり味わう。
「子どもの頃ね、母に連れられてよく来てたの。寒い日はこのスープが体に染みて、ここに来ると冬でもほっとしたのよ」
レティアが少し懐かしそうに言う。
「想像できるわ。レティアさん、お皿を抱えて大人しく飲んでそう」
クラリスが微笑んで言う。
「抱えてはないわよ! でも……まあ、好きだったのは確かね」
レティアの頬がわずかに赤くなる。
「うちのパンも美味しいけど、ここも負けてないかも」
冗談めかして言ったアリスに、レティアがふっと笑う。
「それ、家で言ったらご両親が泣くわよ?」
「えっ、泣くかな……? 泣くか。泣くよね……」
アリスが困ったようにメニューで顔を隠す。
「間違いなく泣くわね。『アリスが浮気した!』って」
クラリスが笑いながら言う。
「言いそうで怖い……」
「でも、ここが本当に美味しいのは事実だもの。アリスちゃんの家のパンと比べられるなんて名誉よ」
レティアが優しく笑う。
「ほんと、エクスバルドって食べ物も温かいのね」
クラリスが窓の外を眺める。
「うん。この街の人、みんな“丁寧に作る”のが好きなんだ。料理に限らずね」
アリスが胸を張る。
「それ、今日歩いててすごく伝わった。工房も露店も、みんな自分の仕事を誇ってる感じがしたもの」
クラリスの声はほんの少し感動で震えていた。
三人は、食事の合間も穏やかな笑いを交わしながら、ゆったりとした時間を楽しんでいった。窓の外では、夏の風が花を揺らし、街のざわめきが遠くに響いていた。
香草バターの香りと、食器の軽い触れ合う音。流れる時間は静かで、どこか懐かしい。
「午後は湖畔でしょ?」
クラリスがフォークを置きながら尋ねる。
「うん。あそこは……アリスにとっても、わたしたちにとっても特別だから」
レティアが優しく言う。
「特別……?」
クラリスが目を瞬かせる。
「行けばわかるよ」
アリスが少しだけ照れたように微笑んだ。
三人の昼食は、そんな穏やかであたたかな空気の中、ゆっくりと過ぎていった。




