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閑話 レティシア ストーリー2 第三話

前書き

『白銀の継承者 - Gate of Sealed Eternity -外伝「レティシア・ストーリー2」の第三話です。

 レティシアの予想以上に、事態は動いていた。


 魔国の重兵装部隊は帝国軍の攻城部隊を完全に崩壊させ、すでに重装歩兵同士の白兵戦へと移行している。

 破城槌は横倒しに放棄され、鉄輪が歪み、投石機は炎上していた。

 焼けた油と焦げた木材の匂いが風に乗り、黒煙が低く戦場を覆う。

 帝国軍前衛は分断され、盾列は裂け、統制を失った兵が後退と反撃の間で混乱している。


 さらに。


 一部の重兵装部隊が、帝国軍の重装歩兵による防衛線を突破。

 黒鉄の奔流が横合いから食い破る。

 楔の一端が滑らかに軸をずらし、中央突破ではなく、斜めに深く食い込む。

 陣の奥へ。


 その進路は、明らかに司令部方面だった。


 丘陵から戦場を見下ろしていたセリーネの表情が、はっきりと変わる。


「あれ、見える? あの黒鉄の流れ、ただの突破じゃないわ。楔の角度を変えている。中央を砕いたあと、軸をずらして本陣へ滑り込ませる動き。偶然ではあり得ない。あれは明確な意図を持った進路修正よ」


 彼女の視線が一点に固定される。


「レティシア。帝国軍の司令部と思われる場所……あそこ、見て。白地に金縁の幕、周囲に重装護衛が円形に展開している中枢区画。伝令が頻繁に出入りし、旗手が後方と前衛を繋いでいる。あれが落ちれば、指揮系統は一気に瓦解するわ。中央が崩れた以上、最後の支柱はあそこだけ」


 次の瞬間、セリーネは目を見開きながら、声が硬くなる。


「クリスは戦線にはいないはずよね。あの男は前に出る性格だけれど、少なくとも今この局面で最前線近くにいる合理性はない。全体指揮を担う立場の人間が、楔の射程圏に自ら立つなんて愚策よ。……いないわよね?」


 レティシアの表情が変わる。


 即座に司令部方面へ視線を向ける。

 両目に魔力を集中させる。

 蒼銀の瞳が淡く光を帯びる。


 ――千里眼。


 視界が拡張する。

 距離が圧縮される。

 戦場の雑踏が、まるで手の届く距離にあるかのように鮮明になる。


 砕けた盾。

 倒れ伏す兵。

 怒号。

 血飛沫。


 護衛騎士。

 副官。

 伝令。


 そして。


 中央に立つ青年将校。


「あ」


 一瞬の静止。


「……いた。いるわ。なんであそこに立っているのよ!。あの馬鹿、どうして後方にいないの?!」


 視界の中で、クリスは剣を抜いてはいない。

 だが後退を拒み、旗のすぐ傍らで副官へ指示を飛ばしている。

 重兵装部隊の一隊が、確実にその方角へ迫っていた。


「なんでいるのよ! 本来なら後方で全体指揮を執るべき立場でしょう! 自分が狙われることをわかっていないの!? あそこは一番危険な位置よ! 司令官が落ちれば、あの軍は完全に瓦解するのよ!」


 感情が爆発する。


 クリス・レイス・ロアウ。

 本来なら後方指揮に徹しているはずの男が、最前線近くで指揮を執っている。

 その前面に、黒鉄の重兵装部隊が迫る。


 レティシアの魔力が、急激に膨れ上がる。

 蒼銀だった光が、白銀へと変質する。

 空気が震える。

 丘陵の砂が跳ね、小石が浮き上がる。


 白銀の奔流が彼女を包み込む。


 自動展開。


 ヴァルキリーが、音もなく構築され始める。

 白銀の装甲が光の粒子とともに形成され、肩、腕、胸郭、脚部へと接続されていく。

 背部ユニットが展開し、薄い放射エネルギーが六対の翼のように広がる。

 翼そのものではない。

 だが放射された白銀の光が、刃のように鋭い軌跡を描き、空間を震わせる。


 丘陵の空気が変わる。


 セリーネは一瞬だけ目を閉じ、ため息をついた。


「懐に入れると、これですか。さっきまで、感情では動かないと言っていた人が……。理性より感情が先に動く。あなた、本当に身内扱いのことになると判断が直線的になるわね。あれほど冷静に消耗戦を語っていた人間が、たった一人で均衡を崩しに行こうとするなんて……矛盾している自覚、ある?」


 白銀の光が強まる。


「まあ、私たちだったとしても同じ扱いになるのでしょうね。自分を後回しにして、守ると決めた相手の方へ真っ直ぐ突っ込む。その不器用さ、じれったいわ。戦略も均衡も全部棚上げにして、まず命を拾いに行く。理屈を超えて動く。嫌いじゃないけれど、本当に扱いづらい」


 あきれと、どこか苦味を帯びた声音。


「理屈も順序も飛ばして、まず飛び込む。守ると決めたら一直線。そういうところ、嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど……困るのよ。あなたが無茶をすれば、私も無茶をする羽目になるんだから」


 だが、次の瞬間には決断している。


 胸元へ手を入れる。


「ワルキューレ、起動。全機能展開、戦闘モードへ移行。初陣よ、ワルキューレ。暴れすぎないで、でも遅れないで。私の神経に直結しなさい」


 蒼い光が彼女を包む。


 魔導神器ワルキューレが展開する。

 軽量装甲が身体へ沿って装着され、関節部が淡く発光する。

 視界補助陣が展開され、戦術情報が流れ込む。

 魔力流動が同期し、身体感覚が研ぎ澄まされる。


「仕方ないわね。あなたが突っ込むなら、私も行く。放っておけば後悔する顔をするのは目に見えているもの。あとで責任論を語る時間はあげるわ。戦術的愚行かどうか、徹底的に問い詰めてあげる。いまは――あなたの背中を支える」


 白銀の装甲が完全に形成される。


 蒼銀の瞳はすでに戦場へ向けられている。


 レティシアが、わずかに視線を向ける。


「……ごめん。わかってるわよ、感情的ですよ。指揮官としては失格かもしれない。でも、あれを見て黙っていられるほど、私は出来た指揮官じゃない。均衡も計算もなく、全部承知の上で、それでも行くわ」


「謝る暇があるならさっさとしなさい。文句はあとで山ほど言うから。戦術判断も精神論も全部まとめて。あなたの感情も、私の合理性も、両方ひっくるめて叩き直してあげる。いまは――走るわよ」


 丘陵の風が白銀の放射翼を揺らす。


 次の瞬間。

 地面が弾ける。


 白銀の残光が一直線に戦場へと落ちる。

 蒼の光がそれを追う。


 黒鉄の楔と帝国軍本陣の間へ。

 混沌の中心へ。


 次の瞬間。

 二人の戦乙女が、戦場へと跳躍した。


 丘陵の草を踏み砕き、土を抉り、白銀と蒼の閃光が同時に空へと舞い上がる。

 踏み切った地点から砂塵が円状に爆ぜ、遅れて衝撃波が草原を薙いだ。

 高度を得た瞬間、放射翼が大気を切り裂き、光の尾が長く引かれる。


 だがその後方で、蒼い光がわずかに揺らいだ。


 ワルキューレを装着したばかりのセリーネは、まだ空気の流れを完全に掴み切れていない。

 背部ユニットの推進出力が一瞬過剰に跳ね、左右の放射角が微妙にずれる。

 揚力が不均衡となり、機体がわずかに傾く。

 高度が一段、二段と落ちる。


「……くっ、まだ滑空制御が甘い。でも追いつく。置いていかれっぱなしは性に合わないの」


 蒼の光が再び安定する。

 セリーネは即座に魔力流を調整し、推進軸を再計算する。

 視界補助陣が展開され、風圧ベクトルが幾何学的線として視界に重なる。

 呼吸を整え、出力を半段階落とし、次の瞬間には再加速。


 前方では、白銀の残光がすでに加速している。


 レティシアのヴァルキュリーは空を切り裂く刃そのものだった。

 放射翼が完全展開し、六対の白銀光条が直線軌道を描く。

 空気が悲鳴を上げる。

 衝撃音が遅れて丘陵へと返る。


 眼下では黒鉄の楔が帝国軍本陣へと迫っている。

 重兵装の足並みは乱れず、巨大盾が押し出され、刃が振り上げられる。

 帝国軍護衛騎士が迎撃陣を形成するが、密度で劣る。

 黒鉄の圧力は止まらない。


 レティシアが振り返る。


「先に行くわよ。あそこが崩れたら終わりなの」


 その声は冷静だが、内側で白銀の魔力が荒れ狂っている。

 蒼銀の瞳はすでに本陣の一点を射抜いていた。


「行きなさい。中央はあなたが裂く。私は側面を断つ。黒鉄の横列を切り崩して、退路を作る。……無茶はするなと言っても無駄でしょうけど、せめて生きて戻りなさい。あなたが倒れたら、均衡どころの話じゃない」


 セリーネの声は静かだが、そこに揺らぎはない。

 蒼の光が安定し、推進軸が完全に整う。


 次の瞬間、白銀の放射翼が一段と輝きを増す。


 魔力が全開まで引き上げられる。

 空間が歪む。

 周囲の気流が巻き込み、白い渦が生じる。


 衝撃音。


 空気を裂く破裂音が連続し、音速を超えた瞬間、白銀の軌跡だけが残る。

 レティシアは弾丸のように戦場へと飛び去った。


 黒鉄の楔と帝国軍本陣の間へ。

 崩壊寸前の均衡へ。

 血煙と怒号の中心へ。


 蒼の光が、その後を追う。


 そのころ。

 帝国軍司令部周辺は、すでに地獄と化していた。


 白地に金縁の幕は裂け、支柱は傾き、旗は血煙に汚れている。

 守護兵たちが円陣を組み、重盾を重ね、必死に防衛線を維持していた。

 だが黒鉄の重兵装部隊が、その陣を一つずつ踏み潰していく。


 盾が叩き割られる。

 剣が弾かれる。

 兵が宙に舞い、地に叩きつけられる。

 骨の砕ける音が鈍く響き、土と血が混じり合う。


 護衛隊長が叫ぶ。


「司令部を守れ! 一歩も退くな!」


 その声は怒号と金属音に飲み込まれながらも、確かに響いた。

 だが黒鉄の大盾が振り下ろされ、その声は断ち切られた。

 衝撃とともに鎧が歪み、血飛沫が舞う。


 中央に立つクリス・レイス・ロアウは、その光景を静かに見ていた。


 顔に恐怖はない。

 ただ、理解があった。


「……まさか、重兵装部隊がまだいるとはな。情報では撤収済みと報告されていたはずだが」


 低い呟き。


 副官が振り返る。


「閣下、撤退を。ここは持ちません。予備隊も分断され、後方との連絡も途絶えつつあります」


 だがクリスは小さく首を振る。


「我々は捨て駒にされたわけか。大本営から。中央が崩れれば、この司令部も崩れる。わざわざ“煙たい将校”を前線に集めた理由が、いまようやく腑に落ちた」


 しみじみとした声音。


 副官の目が揺れる。


 今回の奪還作戦。

 名目は《ケルヴァン》奪還。

 だが選ばれた将校たちは。


 中央から煙たがられていた者ばかり。

 改革派。

 現実主義者。

 そして――人族連合再建を密かに志す者たち。


 気づくべきだった。

 だが、いまさらだ。


 黒鉄の影が近づく。

 守護兵がまた一人、倒れる。

 大盾が叩きつけられ、槍が折れ、陣形が裂ける。


 クリスの脳裏に浮かぶのは、別の光景。


 丘陵の上。

 蒼銀の旗。

 レティシアとセリーネ。


 本来なら。

 この戦の後。

 ここで、人族連合の再建を宣言するはずだった。

 戦場の勝利を象徴として。

 希望を作り出すために。


 自分が立てなくとも。

 彼女たちに託せると信じていた。


 だが。

 それすら、叶わないらしい。


「……最前線にいるなど、言っていないからな。後方にいると伝えた覚えもないが」


 乾いた苦笑。


 助けが来るはずもない。


 黒鉄の重兵装部隊が、あと数十歩の距離まで迫る。

 大盾が振り上げられる。

 副官が剣を構える。


 クリスはゆっくりと目を閉じた。


 迫る圧力。

 足音。

 地鳴り。


 そして。

 頭上を、何かが切り裂いた。


 怒号が上がった。


 次の瞬間。

 世界が裂けた。


 閃光が天から地へ一直線に落ちる。

 音は遅れて消し飛ぶ。

 爆発的な衝撃が暴風となり、司令部前の大地を抉る。

 半径数十メートルが白光に飲み込まれる。


 黒鉄の重兵装兵が、まるで紙片のように吹き飛ばされた。

 巨盾が空を舞い、鎧が内側から歪み、地面へ叩きつけられるたび衝撃波が連鎖する。

 粉塵は上がらない。

 その圧が、空気そのものを押し潰していた。


 衝撃の中心に立つ影を見て、クリスの瞳が見開かれる。


「……な、に……?」


 砂塵の向こう。

 光が収束し、形を成す。


 白銀の放射翼。

 戦場を切り裂くその姿。


 理解が追いつかない。


「……嘘、だろ……」


 思わず漏れた声は、戦場の喧騒の中でもはっきりと震えていた。


 副官もまた、息を呑む。


「あれは……」


 クリスの視界に、はっきりと映る。


 黒鉄の楔の中心へ単騎で降り立ち、圧倒的な魔力で戦線を断ち切る存在。


 胸が軋む。


「……なぜ、ここにいる」


 それは責める言葉ではない。

 信じがたい現実を前にした、呆然とした問いだった。


 次の瞬間。


 白銀の刃が横薙ぎに走る。

 黒鉄の盾列が断ち切られ、鎧が裂ける。


 戦場の中心で舞う姿。


 クリスはようやく理解する。


「……来た、のか」


 かすかな笑みが浮かぶ。


 絶望の中で、ただ一つだけ差し込んだ光。


「本当に……来るとはな」


 白銀の閃光が再び走る。

 重兵装部隊が吹き飛ぶ。


 その姿を見つめながら、クリスは小さく息を吐いた。


「……無茶をする」


 だが、その声音はどこか安堵を含んでいた。



 レティシアは垂直降下の勢いのまま着地する。


 地面が沈み、円形にひび割れる。

 白銀の放射翼が背後で脈動する。


 重兵装部隊は三方向から同時に踏み込む。

 大盾を重ね、槍を突き出し、圧殺の陣形を組む。


 白銀の瞳が開く。


 一閃。


 横薙ぎの軌跡が白線となって走る。

 盾列が一瞬で断ち切られ、背後の鎧までまとめて両断される。


 二閃。


 踏み込んだ十体がまとめて後方へ吹き飛ぶ。


 三閃。


 鎧が裂け、地面に叩きつけられる前に次の斬撃が走る。


 それでもなお、後方に控えていた重兵装兵が前進する。

 厚い黒鉄の鎧。

 全身を覆う魔導強化。

 重盾を重ね、五体が密集陣形を取る。


 レティシアは剣をわずかに下ろす。


 空気が震える。


 左腕をあげ、その指先の周囲に、蒼白い光点が生まれる。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 よっつ。

 いつつ。


 五球の《フレイム・ボール》。


 それは炎ではない。

 青白く脈動する高密度の純魔力球体。

 内部で微細な炎光が揺らぎ、鼓動のように明滅する。


 重兵装兵が盾を構える。


 発射。


 五球が異なる軌道で走る。


 一球目が正面盾へ直撃。

 爆ぜない。

 だが盾内部へ干渉し、魔力回路を焼き切る。

 重盾が内側から崩壊する。


 二球目が足元へ潜り込む。

 地面に触れた瞬間、圧縮解放。

 衝撃ではなく、下方からの持ち上げ。

 巨体が浮く。


 三球目が胸甲へ。

 表面をすり抜け、内部で収束。

 次の瞬間、内部から魔力爆縮。

 黒鉄がひしゃげる。


 四球目と五球目が交差軌道を描く。

 二体を同時に貫き、背後で交差。

 遅れて、純魔力の爆光が走る。


 五体、沈黙。

 黒鉄の鎧が崩れ落ち、残存部隊が動揺する。


 レティシアの魔力が臨界へ達する。

 白銀が、球状に膨張する。


 その瞬間。

 時間が止まった。


 剣を振り下ろそうとした兵の腕が空中で凍りつく。

 砂粒が宙に浮いたまま静止する。

 悲鳴も、金属音も、風も消える。


 世界が、白銀の静寂に沈む。


 レティシアは一歩踏み出す。

 その歩みだけが動く。


 指先がわずかに開く。


 解放。


 音はない。

 だが白銀の圧が波紋のように広がる。


 重兵装部隊がその場で崩れ落ちる。

 鎧が内側から砕け、武器が粉となり、地面に伏す。


 時が戻る。


 轟音が一斉に押し寄せる。


 司令部を攻めてきていた、先行の重兵装部隊。

 ほぼ殲滅。

 生き残った数体が後退する。


 その空隙へ、蒼い光が滑り込む。

 セリーネだ。


 まだ軌道は荒い。

 だが強引に修正し、司令部前へ着地する。

 地面を削りながら踏みとどまり、即座に体勢を整える。


 ワルキューレの蒼い装甲が発光する。


 両腕を広げる。


 蒼い魔力刃が展開。


 威嚇。


 蒼い魔力圧が波となって広がり、生き残った重兵装兵が完全に退く。

 完全制圧。


 その中心で。

 白銀が、ゆっくりと退き始める。


 白銀化の解除。


 それは崩壊ではない。

 神話の終幕のような、荘厳な退潮。


 放射翼が一枚ずつ分解し、粒子へと変わる。

 羽根の形を保ったまま光の雪となり、空へ舞い上がる。

 装甲表面の紋様が星屑のように剥がれ落ちる。

 肩の装甲が透け、腕部が光へ還る。


 白銀の粒子が戦場に降り注ぐ。


 それは幻想でありながら、確かにそこに存在していた。


 蒼銀の瞳から白銀の輝きが抜ける。

 髪色が本来の色へ戻る。


 最後に胸元の魔力核が静かに瞬き、光が一点へ収束する。

 音もなく。

 ヴァルキリーが完全解除された。


 そこに立っているのは、一人の少女。


 白銀の粒子がまだ空中に漂っている。

 砕けた黒鉄の鎧が地面に散乱し、焦げた匂いと鉄の匂いが風に混じる。

 遠くではまだ断続的に金属がぶつかる音が響いているが、この一角だけが奇妙な静寂に包まれていた。

 風が強く吹き抜け、裂けた軍旗がばさりと揺れる。

 砂塵が足元を滑り、血で濡れた地面に細い筋を描いた。


 レティシアは肩で息をしている。

 白銀化の余熱がまだ身体の奥に残り、指先がかすかに震えている。

 呼吸はそこまで荒くはない。

 だが、張り詰めていた神経が一気に弛緩し、心臓の鼓動が耳の奥で強く響いていた。


 そして振り向く。

 視線の先にいるのは、叩き潰されかけていた司令部の中心に立つ男。

 無傷ではない。

 軍服の袖は裂け、頬には煤が付着し、それでも背筋だけは折れていない。


 パチン。

 乾いた音。

 戦場のざわめきの中でも異様なほど鮮明に響いた。

 白銀の粒子がその衝撃でわずかに揺れる。


 頬が熱を持つ。

 クリスは叩かれた頬に手を当てる。

 熱はすぐに鈍い痛みに変わり、現実を突きつけるように残った。


「な……なんで」


 その瞬間、レティシアの瞳が揺らぐ。

 強く保っていたはずの蒼銀が、かすかに滲む。

 次の瞬間、溜め込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出した。

 頬を一筋、透明な雫が伝う。

 白銀の残光を受けて、その涙はひどく鮮明だった。

 拭おうともしない。

 怒りでも威厳でもなく、失いかけた恐怖がそのまま零れている。


 風が二人の間を横切る。

 砕けた盾の破片が転がり、かすかな音を立てる。


「何も言わなかったの? どうして最前線にいるなんて一言も知らせなかったの? あなた、自分が何をしているのかわかっているの?」


 声は震えていない。

 だが涙は止まらない。

 怒りの奥にある、切実な恐怖が滲み出している。


「そんなに信用がないわけ? 私はあなたにとって、戦況報告も必要ない存在なの? それとも、巻き込まないための優しさのつもり? そんな勝手な判断、誰が望んだのよ」


 レティシアの拳はわずかに握られている。

 白銀化の残滓が指先で微かに弾ける。

 涙が顎先から落ち、血で濡れた地面に小さな跡を作った。


「私はあなたのなに? 都合のいい協力者? 利用できる駒? それとも、ただの理想論者の象徴?」


 その問いは刃より鋭い。

 クリスの胸に突き刺さる。


「同胞ではなかったの? 同じ未来を見ていると、同じ旗を掲げる仲間だと、私は信じていたのに……どうして一人で背負おうとするのよ。どうして一人で死ぬ覚悟なんて勝手に決めるのよ」


 遠くで爆ぜる音。

 煙が空へ昇る。

 だが二人の間だけ、時間がゆっくりと流れているようだった。


「あなたが倒れたら、誰が責任を取るの? 誰があなたの理想を引き継ぐの? 私に託すつもりだった? ならどうして最期を見せない覚悟をするのよ。託すって、そういうことじゃないでしょう」


 風が彼女の髪を揺らす。

 涙がまた一筋落ちる。

 それでも蒼銀の瞳は逸らさない。


「私はあなたを救うためにここに来たの。戦略でも政治でもない。あなたが死ぬ未来を、私は認めない。それだけよ」


「あなたが死ぬ戦場なんて、私が許すわけないでしょう。私は――あなたを失うために戦っているんじゃない」


 沈黙。

 その言葉だけが空に残る。


「……ごめん」


 クリスの声は低い。

 戦場で何度も命令を下してきた声が、いまはただ一人の男の声になっている。


「ごめんなさい。君を巻き込みたくなかった。これは俺の責任で、俺の判断で、俺が引き受けるべき結末だと思っていた」


 彼の指が、叩かれた頬からゆっくりと下りる。


「だが、甘かった。俺は君を守るつもりで、逆に君を侮辱した」


「俺は怖かった。君に止められるのが。君の目を見て、この作戦に意味があると言い切れる自信がなかった」


 遠くで兵が叫ぶ。

 命令が飛ぶ。

 それでもこの場所だけ、言葉の重さが勝っていた。


「怖いのは私も同じよ。失うのが怖いの。あなたも、セリーネも、ここにいる兵も、未来も」


 声が少しだけ掠れる。

 それでも視線は逸らさない。


「一人で決めないで。一人で終わろうとしないで。あなたが背負うなら、私も背負う。それが同胞でしょう。それが連合でしょう」


 蒼銀の旗が遠くで大きく揺れる。


「次に勝手に死のうとしたら、本気で殴るから」


 涙を流したまま、きっぱりと言い切る。


「それは……遠慮したいな」


 かすかな苦笑。

 緊張がほんのわずかにほどける。


 戦場の風が、三人の間を吹き抜ける。

 血と煙と焦げた鉄の匂いを運びながら、それでもどこか澄んだ冷気を含んでいた。


 だがその瞬間だけは、刃も盾も、二人の間には存在しなかった。

どうだったでしょうか。

少しでも楽しんでいただけていれば嬉しいです。


このストーリーは、予約投稿は行わず、出来上がり次第、即投稿していきます。

そのため、投稿時間や日時は未定となります。


少しずつの更新になりますが、気長にお付き合いいただければ嬉しいです。


本編も引き続き、よろしくお願いいたします。

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