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第四部 第二章 第1話

 次の日の朝、エクスバルドの空にはやわらかな朝日が差し込み、谷に漂う朝霧を少しずつ溶かしていった。

 高い山々の稜線が金色に縁取りされ、湖面には光の筋が幾重にも揺れて映る。

 街の屋根からは煙突の白い煙がゆらゆらと立ち上り、朝の冷たい空気に溶けていった。

 遠くで小鳥たちが競うようにさえずり、石畳の通りにはまだ眠たげな静けさが漂っている。


 パン屋の軒先には、ほんのり焦げた香ばしい匂いが流れ出していた。

 店の奥からは、生地をこねる規則的な音が響く。


 アリスは袖をまくり、両手でしっかりと生地を押し込み、折りたたみ、また押し込む。

 粉の感触が手に心地よく、力を加えるたびに柔らかくなっていく。

 幼いころから慣れ親しんだ動作だが、こうして朝の空気の中で行うと、身体が自然に目覚めていく気がした。


 薪窯の前では、父ギルバートが火加減を確かめている。

 木の板の先に並べた生地を窯へ滑らせる動きは熟練そのものだ。

 窯の中からはパチパチと木がはぜる音が聞こえ、やがて生地の表面がふくらみ、黄金色に変わっていく。

 母エリナは、焼き上がったパンをすばやく取り出し、粗熱を取ってから籠に美しく並べていく。

 夫婦の呼吸はぴたりと合い、長年積み重ねた経験の確かさを感じさせた。


 作業場の端で借りたエプロン姿のクラリスが、感心したようにその様子を見守っていた。


「さすがね……手際が良すぎるわ、アリス」

 湯気の向こうで、彼女は舞台の観客のように微笑む。


「ふふ、慣れてるからね。小さい頃から手伝ってたし、手が勝手に動くの」

 アリスは軽く笑い、粉の付いた手を払った。

 その指先にはまだ、温もりと柔らかさが残っている。


「こんなにきれいにまとめるなんて……魔導演算より難しいって思うんだけど?」

「えぇ? さすがにそれは言いすぎ」

 アリスが苦笑すると、クラリスは少し肩をすくめてみせた。


「だって、本当に“技術”よ。見てると簡単そうなのに、やろうとするとぜんぜん形にならないもの」

「コツはね、力より“リズム”なんだって。お父さん直伝」

「リズム……料理でも魔術でも、結局はそこに行き着くのね」


 クラリスは、アリスの指先の動きをじっと観察していた。

 その様子は、まるで新しい魔導機構の解析をしている時のように真剣で、アリスは思わず吹き出す。


「そんな真面目な顔で見ないでよ……パン生地も緊張しちゃう」

「えっ……パンって緊張するものなの?」

「するかもしれないでしょ、クラリスに見つめられたら」

「な、何よそれ……!」

 クラリスは思わず頬を赤くし、アリスはにやりと笑った。


 そんな二人のやり取りに気づいた母エリナが、優しく目を細めながら声をかける。


「クラリスちゃん、何なら一つやってみる?」

「えっ、わ、私が……?」

「うん。せっかくだし、体験していきなさい。アリスからも教えてもらえば、きっと上手にできるわよ」


 クラリスはエプロンの裾をぎゅっと握りしめ、ほんの少し不安そうにアリスを見つめた。


「……教えてくれる?」

「もちろん。ほら、手を出して」

 アリスは自分の掌に残る粉をはたき、クラリスの両手をそっと引き寄せた。


 温かい手と、冷たい生地の触感が同時に伝わる。

 クラリスは驚いたように瞬きをして――それから小さく息を整えた。


「……冷たい。でも、なんだか柔らかいわね」

「ね? 魔力みたいでしょ。最初は扱いづらいけど、馴染んでくると反応が変わるの」


「……本当にあなたって……なんで何をしても絵になるのかしら」

「え? いま褒めた?」

「褒めたんじゃないわ! 感想よ、感想!」

 耳まで赤くなったクラリスが慌てて手を動かすと、アリスはくすくすと笑った。


 朝の光が作業場に差し込み、湯気に反射して柔らかな金色の粒子を散らす。

 引き締まった山の空気、窯の温もり、焼き立ての香ばしい匂い――

 すべてがゆっくりと、二人の時間を包み込んでいた。


「……いい朝ね」

「うん。こういう朝なら、ずっと続いてもいいのにな」

 アリスの呟きに、クラリスはそっと微笑みを返した。


 一通りの仕込みが終わると、エリナが笑顔で声をかける。

「さあ、朝ごはんにしましょう。パンは店頭のバスケットから好きなものを取ってね、クラリスさんも遠慮しないで」

「ありがとうございます。では……遠慮なく」


 籠にはさまざまな種類のパンが山のように盛られていた。

 クロワッサンの層は光を受けて薄く輝き、フルーツデニッシュには赤や黄の果実が瑞々しく並んでいる。麦の香りとバターの芳醇な匂いが、空腹をやさしく刺激した。


「……今日のフルーツデニッシュ、最高に焼けたよ」

 アリスが嬉しそうに胸を張る。

「本当に見た目も味もプロの仕事ね。売り物なのに、食べちゃっていいのかしら」

「大丈夫、試食ってことで」


 二人が笑い合っていると、外から魔導馬車の軽やかな車輪音が近づき、店の前で静かに止まった。

 少し間をおいて、扉が勢いよく開き、明るい声が飛び込んでくる。

「おーい、アリス~! 昨日来たのに会えなくてごめんね~っ!」


 栗色の髪を肩で揺らしながら駆け寄ってきたのは、端正な顔立ちと貴族的な気品を備えた少女――レティア・エクスバルドだった。

 頬がわずかに紅潮し、息を弾ませながらも、その瞳はきらきらと輝いている。

「レティア……!」

「うん、ただいま。ちょっと視察が長引いちゃってさ、昨日来たんでしょ? オスカーさんに聞いたよ。それで気になって、朝から押しかけちゃった」

 満面の笑みで手を振るレティア。


 しかし、視線が店の奥のクラリスで止まった瞬間、目を丸くした。

「あ……え?、クラリスさん!? なんでここに!?」

 クラリスは軽く手を振り、苦笑を浮かべる。


「え、なにこの偶然……っていうか、なんでアリスの実家にいるの? 二人で旅行って、まさか――」

「……うん、いろいろあって一緒に来たの」

 アリスが肩をすくめながら答えると、レティアは一拍置いて吹き出した。

「なにそれ、面白すぎるんだけど!」


 そのやり取りに、店内は焼きたてパンの香りと三人の笑い声で満たされる。


「レティアさん、朝ごはんはもう食べたの?」

 エリナが優しく問いかける。


「ううん、食べてこなかったよ。ちょっと確信犯だけどね」

「やっぱりね、そうだと思ったわ」

 アリスが笑みを浮かべる。


「それじゃあ、一緒に食べよう」

 ギルバートも穏やかに頷き、全員がテーブルを囲んだ。


 窓から差し込む朝の光がパンの表面を金色に照らし、湯気がふわりと立ち上る。


「……やっぱりアリスの家のパンって、いい匂い」

 レティアは思わず深呼吸し、肩を落としてリラックスした。


「褒めても何も出ないよ?」

「出るよ! パンが出るでしょ!」

「……そのとおりだね」


 クラリスがくすっと笑う。

 その表情には、昨日の旅路の疲れがほとんど残っていない。


「レティアさん、よかったらこれもどうぞ。さっき焼き上がったばかりです」

 エリナが小皿に乗せた温かなロールパンを差し出す。


「ありがとうございます! ……わぁ、柔らかい……!」

 レティアは両手で包み込むように持ち、まるで宝物のように大事そうに目を細めた。


「そんな幸せそうな顔する?」

「するよ! この味はね、アリスが子どもの頃からの味なんだから。私にとっても思い出の味なの!」


「……そういえば、レティアって昔からうちのパン好きだったよね」

「好きだったよ? アリスに会うついでにここへ来るんじゃなくて、ここに来るついでにアリスに会ってた時期あったもん」


「それ、逆じゃないんだ……」

「逆じゃないの!」

 レティアが真剣に断言するので、クラリスは思わず吹き出し、アリスは手を額に当てながら笑った。


「こういう時間って、なんだか……いいですね」

 クラリスの声は柔らかく、どこか安堵の色を帯びていた。


「だろう? 朝のパン屋は、戦場より忙しい時もあるけどな」

 ギルバートの冗談に皆が笑い、エリナが軽く夫の腕をつつく。


「あなた、そんなことを言って……クラリスさんが本気にしたらどうするの」

「いえ……でも、わかる気がします。さっきの仕込みを見ていても、すごく緊張感があって……でも温かいんです。守られているような……そんな空気でした」


「クラリスさん、良いこと言うじゃない」

 エリナが嬉しそうに微笑む。


 焼きたてのパンの湯気が立ちのぼり、三人の笑顔がその上で揺らめいた。

 窓の外では、朝の光が街路樹の葉をきらりと照らす。

 ゆっくりと時間が流れ、穏やかな朝の食卓が続いていった。


 ――食事が進むにつれ、会話は自然に弾んでいく。


「視察はどうだったの?」

 エリナが尋ねると、レティアは少し背筋を伸ばして答える。

「思ったより順調よ。隣の都市も活気があって、学ぶことが多かったわ。でも……やっぱり、帰ってくるとほっとするの。空気も景色も、全部懐かしくて安心する」


 クラリスが興味深そうに首をかしげる。

「隣の都市と比べて、どんな違いがあるの?」


「経済や技術は向こうが発展してるけど、自然との距離感とか、人の雰囲気は全然違うわね。学院にいると街に籠もりがちだから、こうして山や湖を一望できると……ああ、戻ってきたんだって思うの」


 アリスも頷いた。

「レティアは学院が忙しいのに、地元のことをちゃんと見てるよね」


「アリスもそうだけど、離れて暮らすと余計に大事に思えるものってあるのよ」

 ギルバートが笑みを浮かべ、レティアは少し照れたように視線をそらした。


 その照れを隠すように、レティアは紅茶を口に運び、続ける。

「学院にいるとね、周りはみんな自分の家のことを話すの。立派な城だとか、武勲のある家系だとか。……でも私は、エクスバルドの景色や空気の話ばかりしてるみたい」


「うん。レティアが話すと、なんか全部きれいに聞こえる」


「アリス、それ褒めすぎ」

 レティアが小さく肩を揺らした。


 クラリスが微笑む。

「でも分かるわ。帰省すると、匂いだけで“戻ってきた”って思えることってあるのよね」

「そう。私の場合は……山の風と、朝の湖の匂いかな。学院では絶対に感じられないものだから」


「二人とも、ちゃんと根っこは残してるんだなぁ」

 ギルバートが感慨深げに言う。

 その言葉にレティアはさらに頬を赤らめ、慌てたように言い返した。


「そ、そういうのじゃなくて……! ただ、好きなだけよ、この街が」

「レティア、そういうのを“根っこ”って言うんだよ」

「アリスまで……!」


 クラリスがくすりと笑う。

「ふふ、なんだか可愛いわね、レティアさん。アリスと同じ学院にいるのに、帰省するたびにこんなに嬉しそうにして」

「だって……アリスと一緒にいても、地元は地元よ。ここは私たちの出発点なんだから」


 アリスはその言葉に一瞬まばたきをし、小さく微笑んだ。

「……うん。帰ってくるたびに思うよ。やっぱりここが“帰る場所”なんだって」


「アリス……!」

 その言葉に、レティアの表情は自然とふわりとほころぶ。


 エリナは二人を優しい音色のようなまなざしで見つめ、

 食卓にはゆったりとした温もりが広がっていった。


 しばらくしてレティアがにこやかに話を切り出す。

 「そういえば、視察の間に晩餐会があって、ダンスを踊らされたのよ。嫌いじゃないけど、学院に行ってるせいか、お相手のダンスに切れがなくて、ちょっと物足りなかったかな」

 言葉と同時に、彼女はパンをかじる手を少し止め、わざと肩をすくめて見せた。仕草には、ほんの少し退屈そうな色が混ざっている。


 クラリスが興味深そうに首を傾げる。

 「物足りない……というと、動きが遅かったとか?」


 「そうね、それもあるけど――」

 レティアは紅茶を一口啜り、わざと間を置く。

 「音楽に合わせて滑らかに動くっていうより、型だけ覚えた人の動きだったの。ほら、脚の送りがぎこちなくて、ターンの時にタイミングがずれる感じ」


 アリスはクスッと笑いながら茶化すように言う。

 「私とだったら、すごく楽しいダンスができるんじゃない?」


 レティアは口元を綻ばせ、すぐに返す。

 「どうせ私が女役でしょ?」


 「当然!」

 アリスが自信満々に答えると、レティアはやや大げさにため息をついた。

 「だって学院の女生徒の間では、貴公子だからね~」

 からかうように言うと、アリスは「いや~!」と照れながらも笑って返す。


 そこから、二人の間で自然にダンスの思い出話が広がっていった。


 レティアは、両手を軽く広げて円を描くようにしながら、昔の動きを再現してみせる。

 「ほら、小さい頃、夜会の練習だって言って、屋敷の大広間を空けて、何度もワルツのステップを踏んだじゃない? あの時、アリスは妙に真剣で――でも足の位置が軍隊式に正確すぎて、逆に笑ったわ」


 アリスは肩をすくめて反論する。

 「だって、子供のころ、レティアの練習相手って誰だったっけ?」


 「……あ、アリス?」


 「そうそう。だから女性パートの練習はそんなにしていないのよね~」

 アリスはわざとらしく視線を逸らしながら言い、口元に笑みを浮かべた。


 レティアは少し照れたように、でも嬉しそうに言った。

 「あ、ごめんね。」


 クラリスは二人の掛け合いを聞きながら、紅茶を口に運び、口元を綻ばせる。

 「でも、なんとなく想像できるわ。アリスが真剣な顔で踊ってるところ」


 アリスは苦笑して付け加えた。

 「しかも、レティアのせいで、男性パートばかりだから、女の子パートは全然慣れてないのよ。スカートを翻す動きとか、裾を持つタイミングとか、もう全然」


 「そうそう、女の子パートって、可愛く踊らなきゃいけないし、立ち振る舞いも細かいじゃない?」

 レティアも頷く。

 「手を差し出す角度、足を引くタイミング、ちょっとでも遅れると全部崩れるし。あれは本当に奥が深いの」


 「それとね――」

 アリスは笑いながら言う。

 「ワルツやメヌエットはまだいいけど、速いテンポのカドリールになると、相手を回す勢いが強すぎて、ドレスの裾が危うく誰かに当たりそうになったこともあったんだから」


 レティアは思い出したように笑う。

 「あったあった! しかもその時、アリスの表情が“あ、やっちゃった”じゃなくて“まだいける”って顔してたのよ」


 クラリスはとうとう吹き出し、肩を揺らして笑った。

 「それ、完全に戦場の判断ね……」


 三人はしばらく笑い合い、パンと紅茶の香りの中、ダンスと昔話に花を咲かせた。

 外では街の朝がゆっくりと動き始め、窓越しに差し込む光が、食卓に集う三人の表情を柔らかく照らしていた。

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