第四部 第一章 第13話
「彼らが帰ってきたら、必ず伝えておくわ。『閃光のアリスが来た』ってね」
マリエがからかうような笑みを浮かべ、軽くウィンクしてみせた。
その仕草にアリスは小さく頷き、ほんのりと口元を緩める。
「――アレン、ティナ、グロウ、そしてユリエ。みんな、元気にしてるんだよね」
懐かしむように仲間たちの名を順に口にすると、脳裏に鮮やかな情景が蘇ってくる。
剣士のアレンは、いつも落ち着いた眼差しで戦場を見渡し、誰よりも冷静な判断を下してくれる存在だった。
前線で剣を振るいながらも、一歩引いて全体の流れを見極める姿は、若いながらも指揮官の風格があった。
ふとした時に見せる穏やかな笑みと、戦闘中の鋭さの落差が、アリスにはどこか安心をくれた。
ティナは回復と支援魔法を得意とする癒し手で、厳しくも温かい言葉で皆を支えた。
「怪我をしたら叱りますからね!」とよく釘を刺され、アリスは毎回苦笑しつつもその言葉に救われていた。
叱る声の奥に滲む優しさを全員が知っていた。
豪快な斧使いのグロウは、その巨躯に似合わず器用な立ち回りを見せ、どんな緊張した場面でも冗談を飛ばして場を和ませる潤滑油のような存在だった。
任務中にこっそり干し肉を渡してきて、ティナに見つかって怒られる光景は、彼らの定番だった。
弓術と精密射撃の達人ユリエは、後衛から常に仲間を守り抜き、どんな遠距離からでも的を外さない。
矢を番える瞬間の静けさと、放った矢が飛ぶ鋭い軌道――その全てが美しく、アリスにとって戦場で最も信頼できる背中だった。
クラリスは静かに頷き、アリスの横顔を見つめる。
その瞳は、ほんのわずかに柔らかく揺れていた。
「その人たちに、いつか私も会ってみたいわ」
「うん、きっと仲良くなれると思うよ。……あの人たちなら、あなたをすぐに仲間だって受け入れる」
ふと、カウンター越しに身を乗り出したマリエが、軽い調子で尋ねる。
「そうだ、アリスちゃん。今って学院のお休み中? それとも、またこっちにしばらく滞在するの?」
「ん……もうすぐ学院に戻る予定。今回は本当に、ちょっとだけの滞在だったんだ」
アリスは肩をすくめ、少し照れくさそうに笑った。
「でも、また時間ができたら、ちゃんと顔出すよ。みんなが戻ってるときに合わせてね」
「そっかぁ……じゃあ、ほんとにタイミングだけ残念だったのね。……でも、元気な顔が見られて私も嬉しかった! またいつでも来てね、次はみんなもいると思うから!」
マリエは本当に嬉しそうに目を細め、手を振ってくる。
その何気ない仕草すら、アリスには懐かしい温もりとして胸に染み込んだ。
やり取りの間、ギルドの中では相変わらず冒険者たちが談笑し、武具の手入れをする金属音や、依頼書をめくる紙の音が響いている。
若い冒険者が仲間と肩を並べて依頼書を読み上げる声、帰還したばかりの者が「今日は軽傷で済んだぜ」と笑って話す声、酒場区画から漂う香草酒の香り。
アリスはマリエに笑顔を返しながら、その音と匂いに包まれた空間を見回した。
懐かしさが胸の奥にじんわりと広がり、彼女はもう一度だけ、壁に貼られた依頼掲示板や窓辺の陽光に照らされた木の床、そして見知った顔ぶれの気配を確かめるように視線を巡らせた。
(……また、戻ってこよう)
ふと、そんな言葉が胸の内に浮かび、アリスは小さく息を吸い込んだ。
この街で過ごした時間、ここで積み上げた日々が、今でも確かに自分の一部なのだと――そう、静かに思い出していた。
――そのとき、ギルド奥の扉がゆっくりと開く音が響く。
中から現れたのは、どっしりとした体格の男性だった。
厚みのある胸板と逞しい肩、短く刈られた灰色の髪に整えられた髭。
鋭い眼光と厳つい表情がまず目に入るが、その奥にはどこか温かさを感じさせる光が宿っている。
「おやおや、これはこれは……久しぶりの顔がいると思ったら、やっぱりお前さんだったか」
その声を聞いた瞬間、アリスの表情がぱっと明るくなった。
「……ギルドマスター!」
歩み寄ったアリスの前に立つのは、エクスバルド支部を長年取り仕切るギルドマスター、ガルド・バレスト。
その存在感は、まるでこの建物そのものを支えているかのようだった。
「ちょいと見ないうちに、すっかり見違えやがって。お前さん、もう学院の高等部だったか?」
「はい。今日はクラリスを連れて、ちょっと顔を出しに来ました」
「そうかそうか……いやぁ、懐かしいもんだな。お前が最初に来た時なんざ、あの大剣に振り回されてたちびっこだったってのによ。今や“閃光”の名も王都まで届いてるらしいじゃねぇか。立派になったな」
アリスは照れくさそうに目を伏せ、隣のクラリスが小さく「やっぱりすごいのね」とつぶやく。
「でも、“閃光”なんて二つ名、今思えばちょっと大げさだったかも。私、あの頃まだ小さくて……みんなが、余計に速く見えただけかもしれない」
「はっはっは、そう謙遜するな。速さもそうだが――あの時のお前の目は、まるで別人だったぞ」
「いや、あれは間違いなく本物だった。お前がいなきゃ、あの討伐隊は生きて帰れなかった」
ガルドは少し顎を上げ、過去を思い出すように目を細めた。
――アリスの脳裏に、あの日の光景が鮮やかによみがえる。
まだ正式登録から間もない頃。
近郊の鉱山村から届いた緊急依頼――「巨大魔獣が坑道を塞ぎ、村が孤立している」。
現場に駆けつけた討伐隊を待っていたのは、本来この地方には生息しないはずの《カースホーン・ベヒモス》だった。
《カースホーン・ベヒモス》――山岳地帯の奥深く、数十年に一度しか姿を現さない危険種。
全長五メートルを優に超える巨体は漆黒の体毛と鎧のような硬質皮膚に覆われ、圧迫感そのものが周囲の空気を重くする。
額から突き出た二本の黒角の内部には、“呪詛結晶”と呼ばれる鉱質が埋め込まれていた。
その角が放つ波動――呪縛波――に視線を合わせた者は、わずか数秒で四肢の自由を奪われ、呼吸すらままならなくなる。
加えて巨体の突進は岩壁すら粉砕し、まともに受ければ戦士でも即死しかねない。
戦闘開始から間もなく、前衛二人が呪縛に囚われ、後衛は退避を余儀なくされて隊列は瓦解。
ベヒモスは低く唸り、黒角に禍々しい光を集めていた――狙いは、動けぬ仲間三人。
その光景を見た瞬間、アリスは考えるより先に動いていた。
「まずい……避けられない!」
後衛の魔術師が悲鳴を上げ、動けない前衛が歯を食いしばる。
「くっ……足が……!」
「見ないで! 呪縛波、来る!」
仲間の声が重なり、絶望がじわりと空気を染めた。
だが――その絶望を切り裂くように、アリスの足が地を蹴った。
瞬間、世界が細く伸びた。
地面を蹴る衝撃が膝から背骨へ駆け上がり、体が風そのものに変わる。
耳鳴りが遠ざかり、周囲の音が引きちぎられたように消えていく。
視界の中心だけが、鮮烈に研ぎ澄まされる。
黒角から生まれる濃紫の呪縛光。
ベヒモスの巨体越しに震える空気。
仲間たちの恐怖の呼吸。
そのすべてを背に押し流し、アリスはただ一線を駆けた。
「アリスっ、無理よ! 戻れ!」
本来なら届くはずのない距離。
だがアリスの足は迷わない。
大地の反発と魔力の奔流が脚へ集まり、さらに加速する。
疾走。
疾走。
疾走。
巨体の脇をすり抜ける瞬間、ベヒモスの赤目がアリスを捉えた。
低く唸り、黒角の輝きが一段と強まる。
「……させない!」
抜き放った剣がきらりと青白い残光を引いた。
その刃はまるで光の道筋のように一直線。
黒角の根元へ――吸い込まれるように、深く。
甲高い破砕音が坑道に響き渡った。
砕けた呪詛結晶が霧のように散り、呪縛波が一気に霧散する。
「身体が……動く!?」
「助かった……!」
前衛の力が戻り、後衛の魔術師も息を飲んだまま杖を握り直す。
アリスは反動で石床を滑り、荒い息をひとつだけ吐いた。
だが――まだ終わりではなかった。
「全員、今よ!」
アリスの声が響き、仲間たちが一斉に動く。
前衛二人が左右から斬り込み、後衛が同時詠唱の光弾を叩き込む。
ベヒモスは怒号のような咆哮を上げて暴れ狂い、岩壁が崩れ落ちる。
「下がれ、くるぞ!」
しかしアリスは一歩も退かず、次の一撃に備えて剣を構えた。
巨体が突進した瞬間、アリスの視線がわずかに揺れる。
決して恐怖ではない。
ただ――仲間を守るための覚悟。
その覚悟が、足を前へと送る。
「来なさい……!」
彼女の剣が再び閃き、仲間たちの攻撃と重なって巨体を貫いた。
咆哮が震え、長い死闘の末に――ベヒモスは大地へ沈んだ。
坑道の静寂が戻り、誰かが呆然と呟いた。
「……勝った、のか?」
「生きてる……俺たち……」
アリスは剣を下ろし、苦笑いを浮かべた。
「みんな……無事でよかった」
その言葉を聞いて、仲間たちの目が一斉に潤む。
小さな少女の背に灯った光は、誰よりも強く、速く、頼もしかった。
「……あの一瞬を見た全員が、お前を“閃光”と呼び始めたんだ」
ガルドの声には、あの日の衝撃が未だ色濃く残っていた。
「速さだけじゃない。あの時の判断と覚悟が、この二つ名の意味だ」
クラリスは静かに頷き、アリスの横顔を見つめる。
その瞳は、ほんのわずかに柔らかく揺れていた。
言葉には出さないが、その眼差しには誇りと敬意、そして温かい感情が宿っている。
アリスは少し視線を伏せ、長く息を吐く。
「……そう言われると、悪い気はしませんね」
「誇れ。お前はあの時からずっと、“閃光”だ」
そう言った後、ガルドはふっと表情を緩めた。
「……もっとも、俺からすれば、お前の異名の始まりはそれより前かもしれねぇ」
「え?」
アリスが瞬きをする。
「初めて受付に来た時のことだよ。あんな小さい体で“魔獣の巣を単独で片付けたい”なんて言い出してな。あの頃の規定じゃ年齢が足りなくて、普通なら追い返されるところだった」
「結局、許可してくれたのはマスターでしょ?」
アリスが苦笑しながら返すと、ガルドは豪快な笑い声を響かせた。
「まあな。お前の目を見ちまったら、断る方が無粋ってもんだ。あれは“やりたい”目じゃねぇ。“やると決めた”目だ。だから最低限の準備をさせて送り出したんだ」
アリスは思わず視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
「……覚えててくれてたんだ」
「当然だ。あの日から、お前さんはずっとこのギルドの誇りだよ」
その言葉が、アリスの胸の奥にじんと響く。
温かく、しかし確かな重みを伴った感覚だった。クラリスも静かに二人のやり取りを見守っている。
「今も戦ってるのか?」
「うん。……ただ、昔みたいに無茶はしてないつもり。学院生活もあるし、自分の力とちゃんと向き合ってる」
「それでいい。無茶ばかりが力じゃねぇ。守りたいもんがあるなら、なおさらな」
そう言うと、ガルドはごつごつとした手を伸ばし、アリスの頭をそっと撫でた。
荒々しさの欠片もないその動きは、まるで父親が娘を労うかのようだった。
「それと……今でも帰ってきたい時は、いつでも顔を出せ。お前がこのギルドに残したもんは、ちゃんと残ってる」
「……うん、ありがとう。みんなにそう言ってもらえるだけで、本当に嬉しい」
「ふん。泣くなよ? お姉さんになったって言ってたろうが」
ガルドの冗談に、アリスは目尻を指で押さえながら微笑む。
「大丈夫。ちょっと、目に埃が入っただけ」
「ま、そろそろ引き止めるのも野暮ってもんか。……クラリス嬢、これからもアリスのこと、頼んだぞ」
「はい、喜んで。こうしてお話を聞けて、私まで勇気をもらえました」
アリスとクラリスは最後にマリエとガルドへ深く頭を下げ、ギルドの扉を押して外へ出た。
昼下がりの陽射しが二人を包み込み、背後からは木製の扉が閉まる音と、まだ中で続く冒険者たちのざわめきが聞こえる。
アリスは一歩外に出たところで立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
「――やっぱり、来てよかった」
その声は、春風のように柔らかく、静かに街の空気へと溶けていった。




