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第四部 第一章 第12話

 午前中、ひととおりの見学や散策を終えたあと、アリスはふと何かを思い出したように足を止め、顔を上げた。


「ねえ、クラリス。ちょっと寄りたい場所があるんだけど……付き合ってくれる?」

 クラリスは歩みを止め、柔らかく笑う。


「もちろんよ。どこへ行くの?」

 アリスは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を宙に漂わせ、それから少し照れた笑みを浮かべた。


「冒険者ギルド……実は、学院に入る前に、しばらくお世話になってたんだ」

 クラリスは驚きのあまり目を瞬かせる。


「えっ、アリスが? まさかとは思うけど、依頼を受けてたってこと……?」

「うん。最初に来たのは――十歳のときかな。危ない依頼は受けなかったけど、護衛とか薬草採取とか、ちょっとした運搬なんかをね。実戦訓練のつもりで」

 さらりと言いながらも、アリスは少し照れくさそうに頬をかいた。

 クラリスの表情は驚きと感心が入り混じった複雑な色を帯びる。


「……十歳で“実戦訓練”って……あなた、本当に規格外ね。私はその頃、実験室でガラス器具を割ってばかりいたのに」

「え、クラリスが? あのクラリスが?」

「ちょっと、失礼よ。私だって割るときくらいあるの。ビーカーって意外と滑りやすいのよ?」

「言われてみれば……わかるような……わからないような……」

「ほら、そんな顔しない!」

 二人は視線を交わし、ふっと笑い合う。

 朝の光が石造りの街路に反射し、二人の影が並んで伸びる。その影はどこか軽やかで、心の距離がまた少し縮まったように感じられた。


 歩みを進めると、やがて領都エストバルド中央区の一角に、冒険者ギルド支部の看板が見えてきた。

 石造りの建物は重厚さを感じさせつつも、この町の規模に合わせた落ち着いた佇まいをしている。

 午前の陽光に照らされた看板には、剣と盾を象ったギルドの紋章が彫られ、風に揺れて柔らかく軋んだ。


「ここが……アリスが通ってた場所なのね」

「うん。懐かしいな……あの頃は、依頼掲示板が自分より大きく見えてた」

「今は逆に、アリスのほうが掲示板を圧倒しそうだけど」

「そんなことないよ……多分……いや、どうだろ」

「どっちなのよ!」

 クラリスは呆れたように笑い、アリスもつられて肩を揺らした。


 ギルドの扉へと近づくと、中から賑やかな声が漏れ出してくる。

 冒険者たちが依頼を交わすざわめき、受付嬢の明るい呼び声、そして時折響く笑い声――そのすべてが、この街の活力そのもののように感じられた。


「じゃあ……入ろうか。きっと、まだ覚えてる人がいるはずだから」

「ふふ、なんだか楽しみね。アリスの“十歳の頃の武勇伝”、たっぷり聞けそうだわ」

「だから、それはやめて……!」

 扉の前でアリスが顔を覆い、クラリスがいたずらっぽく笑う。

 そんな二人の軽やかなやり取りを包み込むように、ギルドの古い木扉は、軋む音を立てて彼女たちを迎え入れようとしていた。


 外壁には長年の風雨に耐えた跡があり、扉の金具は磨かれて鈍く光っていた。

 クラリスは、扉の上に掲げられた金属製のギルド紋章を見上げながら問いかける。


「そう。初めて来たときはね――十歳の私が、この扉を押すだけでも重く感じたの」

 アリスは懐かしそうに木製の扉を見つめ、少し笑った。


「それで、十二歳頃だったかな? 学院に入る直前にCランクに昇格したんだ」

「……十二歳で、Cランク? 本当に? それ、すごすぎるわね」

 クラリスが目を丸くすると、アリスは肩をすくめて答える。


「ふふ、あの頃は、勢いと無鉄砲さだけは人一倍あったから……気がついたら昇格してた、って感じ。ギルドの人たちも最初は驚いてたけど、実力を見てくれたの」

 その口調には誇らしさよりも、むしろくすぐったいような照れが混ざっていた。

 クラリスは「そういうところ、昔から変わらないのね」と微笑み、アリスの横顔をそっと見つめる。


 ギルドの重い扉を押して中に入ると、昼下がりの空気がふわりと広がった。

 中は木の香りと革の匂い、そしてかすかな香草酒の香りが混じり合っている。

 天井から吊るされたランプの灯りが温かな橙色を落とし、奥の掲示板には大小さまざまな依頼書が何十枚も貼られていた。


 カウンターでは報酬の受け取りや申請が行われ、部屋の隅では年配の冒険者が若い者に地図を指しながら助言している。

 数人の冒険者が丸テーブルを囲んで談笑し、木の器と金属製のカップが触れ合う音が心地よく響く。


「……懐かしいな」

 アリスは小さく呟き、ゆっくりと室内を見渡した。

(あの頃の私は、背も小さくて、剣を持つ手もまだ不安定だった。それでも、目に映るすべてが新鮮で、眩しかった)


 思い出すのは、短い間ながらも共に依頼をこなした仲間たちの顔――無骨な剣士、笑顔の絶えない弓使い、無口だが頼りになる魔術師。

 その一つひとつが、幼い自分を少しずつ強くしてくれた。


「知ってる人、いるかもしれない?」

 クラリスが耳元で囁く。

「うん……でも、もう何年も経ってるし、どうかな」

 クラリスは足を止め、周囲をゆっくりと観察した。


「……学院の掲示板とはまた違う雰囲気ね。依頼の文字も手書きが多いし……何より、ここには“日常”と“戦場”が同じ空気で混ざっている感じがする」

 アリスは微笑み、「そうかも」と短く答える。

 この場所に漂う匂いと音は、彼女の記憶に深く刻まれている――緊張感と、仲間同士の信頼が入り交じった独特の空気。


 そのとき、受付カウンターで帳簿をめくっていた若い女性職員が、ふと顔を上げてこちらに視線を向けた。

 最初は、遠目に見慣れぬ来訪者を確認する程度の、事務的な視線だった。


 だが、彼女の目がアリスの顔に留まった瞬間、わずかに眉が寄せられ、首を傾げる。

(……どこかで……)

 小さく呟くように口元が動き、視線が何度かアリスと手元の帳簿の間を行き来した。


 そして――


「……あ……」

 小さな驚きが表情に走り、次の瞬間には両目が大きく見開かれる。


「あっ……アリスちゃん!? 本当にアリスちゃん!? きゃーっ、久しぶり!」

「あはは、やっぱり覚えてくれてたんだね、マリエさん」

「もちろんよ! もう、急に学院に行っちゃって……音沙汰なしだったから心配してたんだから。背も伸びたし、すっかりお姉さんになっちゃって!」

 その声に反応して、隣のカウンターで書類を整理していた年配の女性が顔を上げた。


「あら、本当にアリスじゃないの。久しぶりだねぇ……前はいつも剣よりも大きな荷物を抱えて来てたのに」

 アリスは思わず笑みをこぼす。


「そうでしたね……あの頃は装備もまだ体に合ってなくて」

 マリエも頷き、「そうそう、剣を振る前に荷物で転びそうになってたこともあったわよね」と茶化す。

 クラリスがくすりと笑い、アリスは頬を赤らめながらも、「あれは……初日だけ」と小声で抗議した。


 マリエは懐かしそうに目を細め、カウンター越しに身を乗り出してくる。


「でも本当に久しぶり。今日来たのって……観光? それとも、また依頼でも受けに来たの?」

 アリスは苦笑しつつ首を横に振る。


「ううん。今日は、ただ少し……昔の自分を思い出したくて」

「そっか……あの頃のアリスちゃん、ほんとに頑張り屋だったからねぇ」

 横で聞いていたクラリスがそっと囁く。


「……ねえアリス。あなた、ここでどれだけ愛されてたの?」

「え、そんな大げさな……」

「大げさじゃないわよ。見ればわかるもの」

 アリスは照れたように視線をそらした。


 奥の丸テーブルに座っていた初老の男性冒険者が、ちらりとこちらを見て仲間に耳打ちした。

「おい……あれ、“閃光”じゃないか?」


 その声に、隣でエールをあおっていた髭面の男が眉をひそめる。

「は? まさか。学院の制服なんざ着てる嬢ちゃんが、あの“閃光”なもんか」


 しかし、初老の男は目を細めてゆっくりと首を振った。

「間違いねぇ……あの立ち姿、あの眼の色……昔、ギルド南区画の合同討伐で見た。まだ背も低くて、剣が体より大きかったが――あの時から妙に目立つ速さを持ってた」


 別の席の、痩せた弓使いの女が会話に割り込む。

「……ああ、覚えてる。あの子、一度見たら忘れられない動きするもんね。初動から加速するまでが、まるで瞬間移動みたいでさ」


「そうそう、あれで魔術も同時に使うんだから、当時から異端だったわ」


 髭面の男も渋々グラスを置き、ちらりとアリスの方を見る。

「……あー……確かに、面影あるな。ってか、顔つきが全然違うじゃねぇか。あの時はまだ、子犬みたいにきょとんとした顔してたのに」


 初老の男は懐かしそうに笑い、声を潜めて続けた。

「数年見ねぇ間に、立派に育ったもんだ。……だがよ、あの目は変わってねぇ。戦いに出る者の目だ」


 弓使いの女も頷く。

「うん。あの子、きっとまた“前線”に戻ってくるよ」


 髭面の男はエールをもう一口飲んで呟く。

「そりゃそうだ。あれだけの動きができるなら、どこの国も喉から手が出るほど欲しがるだろ」


「……でも、願わくば無茶だけはしないでほしいけどね」

 弓使いの女の声には、ほんの少し、昔を知る者としての温かさが滲んでいた。


 その小さなやり取りは、アリスにも断片的に耳へ届いていた。

 彼女は表情を変えずにマリエとの会話を続けていたが、心の奥でほんのわずかに、温かいものが広がっていくのを感じていた。

(……覚えてくれていたんだ)


 ふと視線を向けると、初老の男性と弓使いの女がこちらを見て、少しばつの悪そうな笑みを浮かべていた。

 アリスは小さく片手を上げ、軽く会釈をすると――


「……お久しぶりです。あの時の“子犬”ですよ」

 と、いたずらっぽく微笑んだ。


 髭面の男が思わず吹き出す。

「ははっ、やっぱり本人か! 随分と牙の立派な“狼”になったじゃねぇか」


「狼は言いすぎですって。せいぜい、ちょっと大きくなった子犬ですよ」

 アリスが肩をすくめて返すと、弓使いの女も笑いをこらえきれず頷く。


「でも、目つきはあの頃と同じ。……やっぱり前線向きね」


 初老の男は懐かしそうに目を細める。

「そういや覚えてるか? あの時、倒れた仲間を庇って、無茶して前に出たろ。あれ見て“ああ、この子はいつか本物になる”って思ったんだ」


「てめぇ、あの時何も言わねぇで後ろから見てただけだろ」

 髭面の男が茶々を入れる。


「黙れ。あれでも見守ってやってたんだよ」

「それを見守りとは言わねぇんだよなぁ」


 そんな軽口が飛び交い、ギルドの空気が少し賑やかになる。


 そのやり取りを少し離れた場所で見ていたクラリスが、ふっと目を細めた。


「……こういう空気、好きですよ。戦場でも研究所でもない、けれど確かに積み重ねられた時間がある場所」

 アリスは小さく笑い、


「ええ……私も、嫌いじゃないです」

 と、静かに答える。


 ふとクラリスの視線が掲示板脇の古びた賞状に止まった。

 そこには「銀閃のアリス」の名と、数年前の日付が刻まれている。


「……“閃光”?」

 クラリスが小声で尋ねる。

 アリスはわずかに視線を逸らし、苦笑を浮かべた。


「ギルドでの二つ名。スピードと魔力制御の精度が高かったみたいで、そう呼ばれてたの」

「今のあなたにぴったりね」

 クラリスの言葉に、アリスは肩をすくめ、照れたように笑った。


「……まあ、当時は恥ずかしすぎてろくに受け入れられなかったんですけどね」

「ええ、想像できます。絶対照れてたでしょう?」

「……否定できないです」

 クラリスがくすっと笑い、アリスもつられるように息を漏らした。


 ギルドの喧騒の中で、その小さな笑い声はどこか柔らかく響いた。


「でも今日は運が悪かったわねぇ」

 マリエが肩をすくめる。


「アリスちゃんの仲間たち、みんな健在よ。でもね、今は西の辺境に遠征中。昨日の夜明けに出発したばかりなの」

「そう……残念」

 アリスは少し寂しそうに微笑んだ。


 だがその胸の奥には、仲間たちが今も冒険を続けているという誇らしさが静かに満ちていた。


 クラリスはそんなアリスを横目で見ながら、改めてこの場所の空気を感じ取っていた。

 依頼を受ける者、報告を終えて笑顔を見せる者、酒を酌み交わす者――その全てに、危険と隣り合わせの世界を生きる者だけが持つ充実感が漂っている。


「……なるほど。ここは戦場に出る前の、もうひとつの“前線基地”みたいな場所なのね」

 クラリスの呟きに、アリスは静かに頷いた。


「うん。ここに来るとね……なんていうか、気持ちが切り替わるの。緊張もするし、怖いこともあるけど……背中を押される感じがして」

「背中を押される?」

「ええ。ここにいる人たちって、強い人ばかりじゃないんだよ。むしろ、怖いって思いながらも――それでも前に進む人たち」


 アリスは視線を掲示板へ向けた。

 そこには高難度の魔獣討伐から、小さな集落への薬草配達まで、さまざまな依頼が貼られている。


「だから、十歳の頃の私には……すごく眩しく見えたの。みんな本気で生きてるって感じがして」

「アリスが、この場所に惹かれた理由が少しわかった気がします」


 クラリスは木製の床に視線を落とし、ふっと笑みを含んだ。


「ここには……研究棟では見たことのない“種類”の緊張があるのね。人が死ぬかもしれない危険があって、でもそれでも立つ場所」

「そう。だからこそ――“帰ってくる場所”でもあるんだよ」

 アリスの声は、どこか懐かしさの混じった響きを帯びていた。


 マリエが頬を緩める。


「ふふ。アリスちゃんはね、昔からそうだったのよ。依頼に出る前はちょっと緊張してるのに、帰ってくるときはすごく誇らしそうで」

「ま、マリエさん、それ言わなくていいです……!」

「いいじゃない。かわいかったわよ? ほら、“今日も無事でした!”って胸張って」

「うぅ……忘れてください」


 クラリスは思わず口元を手で押さえ、肩を震わせて笑いをこらえた。


「アリス……その頃から変わってないのね。かわいいところが」

「クラリスまで……!」

 アリスの耳までほんのり赤く染まる。


 だがその照れの奥には、確かな嬉しさがあった。

 過去の自分を覚えていてくれる人がいる。

 ここで積み上げた時間が、決して無駄ではなかったと感じられる温かさ。


 クラリスはしばらく室内を見渡し、冒険者たちのざわめきや足音を耳に刻むように息を吸った。


「……アリスが自分の足で歩いてきた場所、ちゃんと感じられました。ありがとう。連れてきてくれて」

「こちらこそ……一緒に来てくれて、嬉しいよ」

 アリスの微笑みは、学院で見せるものよりわずかに柔らかく、少しだけ昔の記憶をまとっていた。

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