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第四部 第一章 第11話

 朝の陽光に照らされたエクスバルドの街は、まるで一枚の絵画のように鮮やかだった。

 谷間を流れる清らかな川が、柔らかな流れのまま市街を抜け、その水面には光の粒がきらめいている。

 湖面の向こうには緑深い山々が連なり、早朝の薄い霧が山腹を淡く覆っていた。


 自然の懐に抱かれるように、石造りの家々や塔が規則正しく並び、古き時代の面影をそのまま留めている。

 街の中心へと続く石畳の道は、朝の冷気をわずかに残しつつも、陽光で徐々に温もりを帯びていた。

 そこを行き交う人々の足音、露店の店主たちの威勢のいい呼び声が、通り全体を心地よく満たしている。


 道端には色鮮やかな花を売る屋台や、焼きたてのパンの香りを漂わせる小さなベーカリーが並び、歩くだけで心が浮き立つようだった。


「ねえ、クラリス、見て。この街並み……どこか懐かしい感じがしない?」

 アリスが足を止め、視線をゆっくりと巡らせる。

 その表情は穏やかで、どこか遠い記憶を手繰るようでもあった。


「ほんとね。歴史を感じる石造りの建物が多いけど……不思議と古臭さがないわ。きっと、日々の手入れが行き届いているのね」

 クラリスはアリスの隣に立ち、軒下の花や、整然と積まれた石垣の美しさに目を輝かせた。


「それに、街の人たちが優しいのもいいね。昔から変わってない」

 アリスがそう言うと、通りすがりの老夫婦が気さくに手を振ってくれた。


「おはよう、アリスちゃん。戻ってきてたのねぇ」

「元気そうで安心したよ」

 アリスは微笑んで手を振り返す。


 その姿を見ていたクラリスが、くすりと笑った。


「……アリス、本当にこの街の“娘”なのね。誰にでも声を掛けられてる」

「や、やめてよ……恥ずかしいから……」

「ふふ、でも素敵だと思うわ。故郷に帰って、こんなふうに迎えてもらえるなんて」

 クラリスがしみじみとした声で言うと、アリスは少しだけ照れたように目を伏せた。


「クラリスも、そのうち“この街のクラリスさん”って呼ばれるかも」

「えっ……そ、それはどうかしら。慣れるまで何年かかるか……いえ、一生かも」

「そんなことないよ。さっきのパン屋の近くでも、みんな普通にクラリスに笑いかけてたし」

「それは……アリスの隣にいたからよ。あなたの人柄が、周りの空気を柔らかくしてるの」

「うーん……褒められてる気がするけど、なんだかむずむずする……」

「もちろん褒めてるわよ。学院でもそうだもの。あなたがいると、場が自然と落ち着くの」

「……ありがと」

 アリスは歩きながら、耳の先までほんのり赤くなる。


 しばらく進むと、広場を囲むように並ぶ露店の香りが、風に乗ってふわりと届いた。

 焼き菓子、炙った肉、香草やスパイス……色とりどりの香りが混じり合い、朝の街を活気づけていた。


「わっ……あっちの屋台、いい匂い……!」

 クラリスの目がきらりと光る。


「クラリス、さっき朝ごはん食べたばかりだよ?」

「食べたけど……これは別腹よ!」

「そんなにきっぱり言わなくても……」

 アリスが呆れつつも笑うと、クラリスは胸を張って言い返す。


「研究者はね、美味しいものを摂取すると思考が冴えるの。これは仕事のための立派なエネルギー補給よ」

「へぇ……今のうちにレティアに言ってあげよ」

「や、やめてぇぇぇ……!」


 二人の笑い声が石畳に軽く響き、朝の光に溶けていった。


 エクスバルドの街は、ただ美しいだけでなく、そこに住む人々の温もりと息遣いが感じられる場所だった。

 そしてその中心に立つアリスは、どこか懐かしい記憶に触れながら、胸の奥がそっと満たされていくのを感じていた。


 二人は市場の方へと足を運び、露店に並ぶ新鮮な果物や香草、職人の手による木工細工や銀細工を一つひとつ眺めて回った。

 店主が差し出す甘いリンゴを試食すれば、口いっぱいに広がる瑞々しい甘みと香りに、思わず顔を見合わせて笑みがこぼれる。


「……んっ……おいしい!」

「でしょ? この市場の果物、私が小さい頃からずっと人気なんだよ」

「なるほど……これは人気になるわね。研究室に置いておきたいくらいだわ」

「クラリス、研究室を果物で埋める気?」

「いえ、甘い匂いのする研究室って……案外、研究効率上がりそうなのよ?」

「そんな実験聞いたことないし……」

 アリスが呆れながらも笑うと、店主が陽気に言葉を挟む。


「お嬢さん方、もっと食べてっていいよ! 特別サービスだ!」

「ありがとうございます!」

「……アリスの地元補正、すごいわね」

「いや、これは市場の人たちが優しいだけだから……!」


 路地を抜けた先の小さなカフェでは、香り高い珈琲を味わいながら、通り向こうで子どもたちが無邪気に駆け回る姿を眺めた。

 窓から入る朝の風は、焙煎豆の香ばしい匂いとほんの微かな花の香りを運んできて、旅の中のひとときをいっそう穏やかなものにしていた。


「アリス、これ……おいしい……。苦みが強いのに、すごく飲みやすい」

「ここね、昔から人気の店なの。大人になったら絶対飲もうって思ってて……学院に入ってからやっとデビューした珈琲なんだ」

「なんだか……その話、かわいいわね」

「か、かわいいって……」

 アリスがむずがゆそうに頬をかくと、クラリスはくすっと笑い、カップを両手で包み込んだ。


「でも……わかる気がする。この街の珈琲って、なんだか“優しい味”がするの」

「うん。落ち着くんだよね。空気も、人も……ぜんぶ、昔から変わらない」


 二人の視線の先では、子どもたちが木剣を振り回し、声を上げて走り回っていた。


「ねえアリス、あの子たち……」

「……昔の私たちみたいだね」

「そう。レティアさんとアリス、子どもの頃からよく剣を振ってたって聞いたわ」

「うん。あの頃は、ただ楽しくて走り回ってただけだけど……」


 アリスは遠くを見るように目を細める。


「でも、今は違う。守りたいものがあるから、戦ってるんだと思う」

「……アリスらしいわね。その強さ」

 クラリスがそっと微笑むと、アリスは少し照れたように視線を伏せた。


「やっぱり、こういう場所をゆっくり歩くのっていいね」

「うん。……レティアさんに怒られない範囲なら、もっと散策したいところだけど」

 クラリスの冗談めいた口ぶりに、アリスは肩をすくめて笑った。


「レティア……絶対言うよね。“時間管理は大事よ”って」

「言うわね、間違いなく」

「でしょ? だから今のうちに回れるだけ回ろう」

「ふふ……了解。じゃあ“アリス隊長”の指示に従います」

「はいはい……隊長扱いはやめてよ……」

「やめないわ。だって、アリスが隊長なのは事実でしょ?」

「うぐっ……」

 クラリスの追撃にアリスは小さく呻き、カフェの店主が思わず吹き出す。


「仲がいいんだな、お前たち」

「あ、すみません……騒がしくして」

「いやいや、若いのは賑やかな方がいい。街が明るくなる」

 店主の言葉に、アリスは照れたように笑い、クラリスも柔らかく頭を下げた。


 再び通りに出れば、人々の活気と香りに満ちたエクスバルドの朝が広がっている。

 二人は歩幅を合わせながら、まだ見ていない街角を目指して歩き出した。


 エクスバルドの街は、中心部から放射状に延びる通りと、それらを繋ぐ環状の道で構成されている。

 段丘状の地形を生かした街づくりは、低層の商業区から中層の住宅街、そして高台の貴族街へと自然な流れを形作っていた。


 その最上層、ひときわ目を引く丘の上には、荘厳な城館――エクスバルド伯爵家の居城が、石造りの塔屋を空に突き立ててそびえている。


 その城館を見上げながら歩みを進める二人の胸に、街の歴史が重なった。

 この地はかつて、人魔大戦の末期、人族連合が魔国への最終反攻のために築き上げた最後の要塞都市だった。


 堅牢な石壁や門構造の多くはその時代の名残であり、戦後は伯爵家の本拠として改修され、街の礎となった。

 だからこそ、この街の端正で力強い佇まいは必然なのだ。


「レティアの家には何度も来ているけど……やっぱり立派ね」

 アリスはゆるやかな坂道を歩きながら、視線の先にそびえる城館を見上げた。

 その胸には、友人の家という身近さと、貴族家としての威厳が同時に去来する。


「確かに。伯爵家の次女にふさわしい、威厳と優雅さがあるわ」

 クラリスは肩越しに城館を見上げ、淡く笑った。


「それにしても……何度見ても圧倒されるわね。あの塔、学院の講堂より高いんじゃない?」

「実際、高いよ。伯爵家の見張り塔は街全体を見渡せるから。……昔は戦のために建てられたはずなのに、今はすっかり街の象徴だよね」

「そういう歴史の重なり方……私は好きよ。その場の“時間”が見える気がして」

 アリスは横目でクラリスを見る。


「クラリスって、こういう場所の見方が研究者っぽいよね」

「え? 褒めてるの?」

「もちろん、褒めてるよ。……なんか、クラリスが説明すると全部“意味”があるように思えてくる」

「ふふ。じゃあ今日の私は、アリス専属の歴史案内人かもしれないわね」

「頼りにしてます、先生」

「それはダメ。今は友人でしょ?」

「あ、そっか……友人案内人でした」

「よろしい」

 二人は笑い合いながら坂を登る。


 ほどなくして、視界の前方に高くそびえる正門が広がった。


 伯爵家の正門は、鉄と魔導鋼を組み合わせた重厚な造りで、表面にはエクスバルド家の家紋を象った精緻な装飾が刻まれている。

 家紋を囲むように魔導灯が配置され、昼間でありながら淡い蒼光をわずかに放っていた。光は魔力障壁の調整具でもあり、この家の格式を静かに物語っている。


「……相変わらず、近づくだけで背筋が伸びる門だよね」

「アリスが言うと不思議ね。あなた、王都の王宮にも普通の顔で入るのに」

「いや、それとこれは別だから……レティアの家は、なんだか“気を抜いちゃいけない”感じがするんだよ」

「わかる気がするわ。とても整ってるし、規律の気配があるもの。……でも大丈夫よ、アリス」

「うん?」

「あなたはレティアさんにとって、何より信頼できる友人でしょう? 胸を張って歩きなさい」

 アリスは一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと笑顔を浮かべた。


「……そう言ってもらえると、ちょっと勇気出るかも」

「でしょ?」

 軽い空気のまま、二人は正門前で足を止めた。


 その瞬間、門上部の魔導灯が反応し、蒼光がわずかに揺らめく。


「反応した……レティア、もう気づいてるかも」

「ふふ。では――堂々と行きましょう、アリス」

「うん。行こう」

 二人は並んで歩みを進めた。


 門の前には、銀縁のマントを肩に掛けた守衛騎士が二名、槍を手に直立していた。

 朝日を受けた鎧の銀面が柔らかく光を返し、二人の姿はまるで門そのものの一部であるかのように、隙のない佇まいを保っていた。


 一人の騎士がアリスの姿に気づき、目を瞬かせて表情を和らげた。


「……これは、もしやアリスお嬢様では?」

 もう一人も目を細め、懐かしさを滲ませた笑みを浮かべる。


「本当に……久しぶりにお見かけしますな。幼い頃、レティア様と庭を駆け回っておられた姿が、今でも目に浮かびます」

 アリスは少し照れくさそうに笑い、軽く会釈した。


「覚えていてくださったんですね。お二人とも、お変わりありませんか?」

「ええ、相変わらずこの門を守っております。……少々お待ちください、ただいま執事のオスカー様をお呼びいたします」


 一人が奥へ駆けて行き、残った騎士は少し懐かしそうに笑った。


「そういえば、あの頃はよく門の前まで駆けてきては、こちらに“見張りの真似”をしてくれましたな」

「あのときの木の棒、覚えてます? まるで立派な槍のように構えて――」

「う……忘れてほしいです、それは」

 アリスが頬を押さえて苦笑すると、クラリスがくすくすと笑って肩を揺らす。


「もしかして、子どもの頃から“訓練”してたの?」

「訓練じゃないから……! ただの、遊びだから!」

「ふふ、なんだか想像できてしまうわ。全力で“門番ごっこ”してるアリスの姿」

「クラリスまで……!」


 アリスは耳まで赤くなり、二人の守衛もつい笑みを深めた。


 ほどなくして、門の内側から落ち着いた足音が近づいてくる。


「お久しぶりです、アリスお嬢様」

 姿を現したのは執事のオスカーだった。


 年配ながら背筋をまっすぐに伸ばし、仕立ての良い燕尾服に身を包み、その口調と眼差しには長年の仕え人としての矜持と温かさが宿っている。


「お久しぶりですね、オスカーさん。お変わりありませんか?」

 アリスが微笑むと、オスカーは深く頷き、目尻を和らげた。


「お嬢様にそう言っていただけるのは、何よりの喜びでございます。エクスバルドの季節は巡れど、我らは変わらず、この地にてお待ち申し上げております」

「……ありがとうございます。本当に、変わらない場所があるのって、嬉しいです」


 そのささやかな言葉に、オスカーは胸に手を当てて小さく礼をした。


「お嬢様がそう感じてくださるなら、この屋敷もまた本望でございましょう」


 しかし次の言葉を告げる前に、彼はわずかに申し訳なさそうに視線を伏せた。


「ただ……誠に残念ながら、レティアお嬢様は本日、隣領境に近い都市への視察に出向いておりまして、夕刻までにはお戻りになられぬ予定でございます。せっかくお越しいただいたのに、お会いできず申し訳ございません」


「そうですか……」

 アリスは小さく息を吐き、肩を落としかけたが、すぐに表情を整えて微笑んだ。


「忙しいのですね、レティアは。視察も大変だと思いますが……きっと素晴らしい成果をあげているのでしょう」

「ええ。領地の発展に尽力しておられます。お嬢様も……どうかお体を大切に。無理をなさらぬように」


 オスカーの声音には、心からの気遣いが滲んでいた。

 アリスは軽く会釈を返し、丁寧に言葉を選んだ。


「オスカーさんも、お元気で。レティアにも……また来るって、伝えてください」

「かしこまりました。レティアお嬢様も、きっとお喜びになりましょう」


 オスカーが深く礼をすると、守衛たちも胸に手を当て、静かに見送ってくる。

 二人が門前から離れるまで、その姿勢は崩れなかった。


 門前から十分ほど歩いた頃、クラリスがふと問いかける。


「……アリス、ここの執事さん、ずいぶんあなたに親しげね。昔から知り合いなの?」

「ええ。子どもの頃、よくこの屋敷でレティアと遊んでいて……オスカーさんはその時からずっと変わらないの」

「そういう“変わらない人”って、すごく心に残るわね」

「うん。レティアの家の人たちはみんな優しくて……なんて言うか、“帰ってきた”って思わせてくれるんだ」


 アリスは小さく笑みをこぼした。

 その笑みには、遠い日の記憶が優しく揺れている。


 クラリスはその横顔を見つめ、ふわりと息をこぼした。


「……いい場所ね、本当に」

「でしょ?」


 二人はそのまま市内の散策へと戻っていった。

 街の空気は昼に向けていっそう活気を増し、鐘楼から響く正午の鐘が、石造りの家々の壁に反響して広がっていった。

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