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第四部 第一章 第10話

 パン屋の朝は、夜が明けるよりも早く始まる。


 まだ町全体が静寂に包まれている時間、外の空は深い群青色を帯び、東の稜線だけが淡く銀色に縁取られていた。

 谷間を渡る風は冷たく澄み、石畳を静かに撫でながら通り過ぎていく。


 家々の窓はほとんどがまだ暗く、鳥たちのさえずりもわずかに聞こえる程度。

 そんな静けさの中、パン屋の厨房だけが例外のように温かく明るい灯りを灯し、低く一定のリズムを刻む音を響かせていた。


 ――ドンッ、ドンッ。

 生地を台に打ち付ける、力強くも小気味よい音。

 計量カップやスケールが金属音を立て、粉と水が混ざり合っていく湿った音が耳に心地よく響く。


 厨房の灯りは、まだ夜の影を残す室内をやわらかく包み、壁際の棚には大小さまざまな焼き型、木べら、スケッパーが整然と並んでいる。


 天井からは束ねられた乾燥ハーブが吊るされ、そのほのかな香りが室内に混じる小麦と酵母の匂いを一層引き立てていた。空気中には細かな粉が舞い、陽の光が差せば淡くきらめくだろう。


 アリスは袖を肘までまくり上げ、木製の作業台に両手を置き、生地を押し込んでは折り畳み、また押し込む。

 掌に返るむっちりとした感触、指先に伝わる温かさ、押すたびに生地がきしむような小さな音――それらは幼い頃から慣れ親しんできた感覚だった。


 額にはうっすらと汗がにじみ、長い髪の先が肩で揺れる。その動きには無駄がなく、作業というよりは一種の儀式のような滑らかさがあった。


「……本当に、手慣れてるのね」

 入り口からそっと覗き込んでいたクラリスが、感心を隠せない声で言った。


「クラリスちゃん、あなたは客人なんだから、無理しなくていいのよ」

 カウンター越しにエリナが微笑みかけると、クラリスは肩をすくめて小さく笑った。


「はい……では今日は見学で勉強させていただきます」


 クラリスは厨房の隅の丸椅子に腰を下ろし、アリスとギルバートの動きを目で追う。

 アリスの隣では、ギルバートが黙々と生地を分割し、均等な形に成形していく。その手際は洗練された職人そのもので、無駄な動作は一つもなかった。


「父さん、その成形……昔より速くなってない?」

「そりゃあ毎日やってるからな。お前が手伝ってた頃より店も忙しくなったし、腕も上がったさ」

「ふふ、負けてられないなぁ」


 アリスが競うように生地を捏ねる速度を上げると、ギルバートはくくっと笑って顎をしゃくった。


「よし、その調子だ。……まだまだ甘いけどな?」

「えっ、そこは褒めて伸ばすところでしょう!?」

「褒めるのは、仕上がったパンが最高だった時だけだ」

「相変わらず職人思考なんだから……」


 アリスが呆れたようにぼやくと、クラリスがくすっと笑いを漏らした。


「アリスって、家だとこんなに表情豊かなんだ……学院の時とは全然違う」

「ちょ、クラリス!? それを言わないの!」

「だって事実でしょ。ここだと……自然で、楽しそう」


 クラリスの静かな声に、アリスは手を止めた。少しだけ視線を伏せ、照れ隠しのように唇を尖らせる。


「……まぁ、否定はしないけど」


「はいはい、おしゃべりはほどほどにね」


 エリナが笑いながら大きなボウルを持ち上げ、アリスの方へ差し出す。


「アリス、この生地もお願い。昔みたいにね」

「うん。任せて」


 アリスは袖をもう一度まくり直し、両手で生地を抱き寄せる。その表情には子どもの頃と変わらない、わずかに誇らしげな笑みが浮かんでいた。


「……ねぇ、アリス」

「なに?」

「こういう姿を見ると、本当に“ここがあなたの原点なんだな”って思う」

「そうだね……帰ってくると、色んなものが整う感じがするよ」


 アリスは一瞬だけクラリスを見て、柔らかく微笑んだ。


「クラリスがいてくれると、なおさらね」

「えっ……」


 クラリスの頬にほんのり赤みが差す。

 しかし照れ隠しをする間もなく、ギルバートの声が響いた。


「おーい、若いの。甘い空気はあとにして、手を動かせ。今日は焼く量が多いんだ」

「も、もう! 父さん空気読んでよ!」


 アリスが慌てる姿に、クラリスは思わず笑い、エリナもにっこりと目を細めた。


 こうしてパン屋の一日は静かに、温かく、確かな賑わいの中で始まっていく。


 生地の捏ね上がる小気味よい音が厨房に満ちる中、壁の時計が静かに六時を指した。


「そろそろ一次発酵に入るわよ。アリス、頼んだわね」

「はーい」


 アリスは大きなボウルに布をかけ、温度調整の魔導石のそばにそっと置いた。その仕草は慣れたもので、幼い頃からこの作業を手伝っていたことがよくわかる。


 ふとクラリスが姿勢を伸ばし、何かに気づいたように目を細めた。


「アリス。……その手付き、昔からずっとやってたのね」

「うん。小さい頃は、父さんに無理やり起こされて……泣きながら捏ねてたよ」

「おいおい、誤解されるようなこと言うな。あれは修行だ」

「修行って言うなら、もっとやさしく起こしてくれても良かったんだけどね?」


 アリスが睨むと、ギルバートは大げさに肩をすくめた。


「甘やかして強くなれるなら苦労しないさ。……それに、お前は昔から素質があった」

「素質?」

 クラリスが首を傾げる。

 ギルバートは少し照れくさそうに鼻を鳴らし、改まった声で続けた。


「生地は“触ればわかる”っていう世界だ。温度、湿度、力加減……雑に扱えば必ず反撃してくる。だけどアリスは、幼い頃から生地の“機嫌”を感じ取ってた」

「……“機嫌”って……」

「ほんとだぞ。生地を怒らせない子だった。だから、パンにも好かれるんだ」

「ちょっと父さん……クラリスの前で恥ずかしいこと言わないでよ……!」


 アリスが慌てて顔を覆うと、クラリスは口元を押さえながらそっと笑った。


「……素敵なことだと思う。魔力の扱いも似てるものね。アリスって、エネルギーの“流れ”を読むのが本当に上手だから」

「クラリスまで……!」


 アリスの耳がほんのり赤くなる。

 その照れた横顔が可笑しくて、クラリスは目を細めた。


「……いい家族ね。見ていてすごく温かい」


 そのひと言に、エリナが作業の手を止めて振り返った。


「クラリスちゃん。……来てくれて本当に嬉しいわ。アリスが学院でどんなふうに過ごしてるか、少しだけ想像できたもの」

「私も……こうしてご家族に会えて、アリスという人をもっと知れた気がします」

「クラリス……!」


 アリスが照れたように眉を寄せ、しかしどこか誇らしい表情を浮かべる。


 その時、ギルバートが咳払いをひとつ。


「さて。そろそろ焼きの準備に入るぞ。アリス、クラリスさんが見てる前で失敗するなよ?」

「プレッシャーかけないで!」

「ふふ、仲が良くて羨ましいわ」


 クラリスが楽しげに言うと、アリスはもう一度深呼吸し、捏ね台へ戻った。


 やがて厨房全体が、焼き上がり前の独特の緊張感に包まれていく。

 生地の発酵を確かめる指先、焼き窯の温度を見極める眼差し、時間を正確に刻む音――。


 クラリスはその一連の動作を静かに眺めながら、そっとつぶやいた。


「……アリスって、本当に器用で、一途で……そして、誰よりも優しいのね」

「え? 何か言った?」

「なんでもない」


 クラリスは微笑むだけに留めた。その目は、朝の光よりも柔らかくアリスを見つめていた。


 窯の前で香りと焼き色を確かめながら、クラリスがふいに問いかける。


「こういうの、小さいころからやってたの?」

 アリスは生地の重みを確かめ、ほんの少し笑みを浮かべてうなずいた。


「うん。物心つく前から。台に届くように木箱を踏み台にして、生地をこねてた。最初は遊び感覚だったけど、母さんが“形になってる”って褒めてくれてね」


 その声には、懐かしさの温度が宿っていた。


「でも加減がわからなくて、こねすぎてガチガチのパンにしちゃったこともあった。父さんはそれを全部食べてくれたけど……あれは胃に重かったはず」


 クラリスは口元を押さえて笑った。


「優しいお父様ね。でも……想像できる。アリスなら本気で頑張って、逆に力を入れすぎるのが目に浮かぶもの」

「ちょっと……否定できないけど」


 アリスが頬をかきながら照れたように視線をそらす。


「あとね、焼き上がる前にこっそり窯を覗いて母さんに怒られたこともあるよ。香りに耐えられなくて」

「それは……わかるわね。あの香りは誘惑が強すぎる」


 二人は、窯から立ちのぼる甘い香りに包まれながら、くすりと笑い合った。


 アリスはさらに思い出したように口を開く。


「冬の朝、外は雪が降っててね。窯の前で丸まって生地を見張ってたら、そのまま眠っちゃったこともある。気づいたら父さんに毛布で包まれてた」

「……それは、想像しただけで温かい気持ちになるわ。小さいアリスが丸くなって寝てる姿なんて……絶対かわいかったでしょうね」

「や、やめてよ……子どもの頃の話は恥ずかしいから……!」


 アリスが耳まで真っ赤になっているのを見て、クラリスは肩を揺らして笑った。


 その時だった。


――ふわっ。


 窯の隙間から、焼き上がりを告げる濃い香りがゆっくりと厨房に広がる。

 香ばしさにほのかに混ざる甘い香り。

 焦げ目とバターの匂いが空気に溶け、湯気のようにふわりと漂った。


「……っ!」


 クラリスは息を止め、瞳を大きく見開いた。


「な、なにこれ……すごい……! 魔術じゃないのに、香りだけで幸福度が跳ね上がる……!」

「おおげさだよ……」

「本気よ! こんなの研究室に漂わせたら、全員の作業効率が三割は上がると思うわ! いや五割かも!」

「パンの香りで研究効率が上がる学院ってどうなの……」


 アリスは苦笑しながら窯の扉を開けた。


 黄金色に焼けたパンの表面が、ぱちり、と小さく音を立てる。

 湯気が立ちのぼり、香りは一段と甘く深みを増した。


「……きれい……」


 クラリスは聖遺物を見たかのように息を呑んだ。


「アリス。あなた……本当に、こういう世界で育ってきたんだね」


 アリスは照れたように笑い、焼きたてのパンをそっと持ち上げる。


「うん。ここが、私の原点だよ」


 クラリスはその横顔を静かに見つめた。


 熱気に揺れる睫毛。

 頬に反射する金色の光。

 その姿は学院で戦う彼女とも、白銀の魔力をまとう彼女とも違う――ただ温かく優しい少女の横顔だった。


「……ねぇ、アリス」

「なに?」

「この匂いと、この光景……。きっと一生忘れないわ」


 その言葉に、アリスは一瞬だけ固まり、すぐに柔らかく微笑んだ。


「……そう言ってもらえると、嬉しいよ」


 焼き立ての香りが満ちる厨房で、二人の距離はまた静かに近づいていった。


「さて、開店準備も終わったし、朝ご飯にしましょう」


 エリナの声に、アリスとクラリスは自然と顔を見合わせ、同じような笑みを浮かべた。


 店奥のダイニングに移動すると、テーブルには焼きたてのパンが山のように並び、湯気の立つスープ、彩り豊かなサラダ、瓶詰めのジャムやはちみつが所狭しと並べられていた。朝の光が窓から差し込み、木のテーブルの表面に淡く反射している。その光が、食卓全体をまるで小さな祝祭のように温かく照らしていた。


「うわぁ……どれから食べるか迷う」


 クラリスは瞳をきらきらと輝かせ、思わず声を上げた。

 シナモンロールを取るか、香草パンを取るかでしばらく真剣に悩み、結局両方を皿に乗せる。


「朝から元気ね、クラリスちゃん」

 エリナが頬を緩める。


「だ、だって……アリスさんの家のパン、さっきからずっと香りの誘惑が……」


 クラリスは言い訳のように言いながら、頬をほんのり赤くした。


「クラリスちゃん、よく食べる子はいい子よ。うちのパンは、食べたいと思ったら遠慮しなくていいわ」


 エリナが明るく笑い、クラリスはますます頬を染めた。


 アリスはというと、白パンをひとつとスクランブルエッグ、少しのサラダを控えめに盛りつける。

 クラリスはそれを横目で見ながら、少し呆れたように言った。


「アリス……それだけ?」

「朝は軽めが好きなんだよ」

「絶対このあとお腹すくでしょ……」

「そのときは店の商品をつまむから」

「それを軽めとは言わないわよ!」


 そんな他愛のないやり取りに、エリナは肩を揺らして笑った。


 スープを啜る音、パンを噛みしめるやわらかな音、カトラリーが当たる小さな音が重なり、温かい食卓はゆったりとした空気に包まれた。


 クラリスはパンを頬張りながら、食事の合間に問いかける。


「ねぇ、他にも何か思い出ある? アリスさんの子ども時代のエピソード、もっと聞きたい」

「そうだな……たくさんあるよ」


 アリスはスプーンを置き、少し考えるように天井を見上げた。


「初めて店の手伝いで一人で接客したときね。緊張しすぎて、お釣りを間違えてお客さんに多く渡しちゃったんだ。父さんに後で優しく注意されて、その場で頭を撫でられて……すっごく恥ずかしかった」

「でも、きっと嬉しかったんでしょ」


 クラリスが目を細める。


「うん。あのときは恥ずかしさが勝ってたけど……今思い出すと、嬉しかったんだと思う」


 アリスは照れたように笑う。


「誕生日に自分で作ったケーキが崩れて泣いたこともあったよ。母さんがすぐ直してくれてね。“アリスのケーキはちゃんと美味しいわよ”って言ってくれた」

「それは……反則なくらい優しいわね、お母様」

「でしょ?」

「ええ。アリスがこんなに優しく育った理由が、少しわかった気がするわ」


 その表情を見ながら、クラリスも自然と微笑み返した。


 朝の光がアリスの髪に反射し、金色の粒子のようにきらきらと揺れる。


 食後、片付けを終えたアリスが腕時計に視線を落とす。

 クラリスはさりげなくアリスの横顔を眺め、どこか名残惜しそうに息をついた。


「そろそろ出かけようか。レティアに怒られない範囲で、市内を少し観光しよう」


 アリスが軽く笑いながら言う。


「ふふ、了解。時間厳守で行きましょう、隊長」


 クラリスは胸の前で軽く敬礼の真似をする。


「はいはい、あなたまでそう呼ばないの」

「だって似合うのよ、アリス隊長」

「やめて……恥ずかしいから……」


 軽口を叩くクラリスに、アリスは苦笑しながらも頷いた。


 温かい食卓の余韻を背に、二人は朝の光に満ちた町へゆっくりと歩き出した。

 まだパンの香りがほんのり衣服に残り、それがまた二人の足取りを軽くするようだった。

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