第一部 第二章 第3話
レティアを励まし、自身も気持ちを切り替えたアリスは、静かな足取りで剣術競技のステージへと歩みを進めた。
足音は柔らかく、周囲の雑音を吸い込むようにして、緊張を帯びた空気の中でひときわ澄んで響いた。
観客席の端々では、十五班の仲間たちや隣接する騎士団員たちが息をひそめ、小さな声援とともに視線を向けていた。
彼らの眼差しは、単なる期待ではなく「頼む」という含みを帯びていた。
「……アリスさん、いける」
リナが小さく声をかける。
別の者も、両手を口の前に添えて叫んだ。
「落ち着いて。焦らずに」
その声に、周囲の緊張がわずかに和らぐ。
アリスは背中越しにその声を受け取り、わずかに唇を引き結んだ。
「……うん、見てて」
その小さな返答は風に溶けるように静かだったが、確かな決意を宿していた。
ステージ中央には、すでに相手の剣士が静かに佇んでいた。
砂を踏む音すら響かせず、まっすぐに立つその姿は、研ぎ澄まされた刃のように隙がない。
両手で軽く握られた剣は、まるで体の一部であるかのように自然で、わずかに傾けられた刃先が、舞台照明の反射を受けて鋭く光る。
端正な立ち姿――背筋は一分の揺らぎもなく、視線は正面に据えられたまま。
硬質な緊張感を纏いながらも、そこにあるのは恐れではなく、純粋な集中だった。
相手は、ミラージュ魔導騎士団の新人剣士――ヴェイル・シフォード。
まだ若さを残しながらも、立ち居振る舞いには訓練を積んだ者の落ち着きがあった。
剣を握る指先の無駄のなさ、肩の力の抜け具合、そのすべてが洗練されている。
額にかかる淡い灰金の髪が光を受け、わずかに揺れた。
その瞳は、氷のように澄んだ灰青――アリスをまっすぐに射抜くように見据えている。
アリスは舞台の中央へ歩を進めた。
靴底が砂を踏むたび、細かな粒が音もなく散る。
胸の鼓動がわずかに早まるのを感じながらも、彼女はそのリズムを制御するように深く呼吸を整えた。
右手で剣の柄を軽く握り、左足を一歩前に出して正対する。
その所作に無駄はなく、洗練された学院の型が見て取れた。
互いの距離は、五歩ほど。
静寂の中、観客席のざわめきが遠くに霞んでいく。
時間が、まるで一拍ごとに伸びていくように感じられた。
アリスは一歩前に出て、背筋を伸ばし、剣を胸の前に立てて礼を取る。
「アリス・グレイスラーです。……よろしくお願いします」
その声は透き通るように澄み、鍛錬場の空気に静かに響いた。
声の奥にはわずかな緊張が滲むが、それは怯えではない。
闘志と敬意――二つの想いが均等に混ざった、凛とした響きだった。
ヴェイルは微かに顎を引き、剣を軽く立て直して応じる。
「ミラージュ第一魔導騎士団所属、ヴェイル・シフォードです。全力でお願いします」
その口調には迷いがなく、礼節を保ちながらも芯の強さがあった。
わずかに口元が緩む――笑っている。だがその笑みは挑発ではない。
「これから互いに最高を尽くす」――そんな意思が、ほんのわずかな表情の揺れに込められていた。
アリスはその表情に気づき、同じようにわずかに目元を和らげる。
「こちらこそ……手加減はなしで」
互いの言葉が途切れると、次に訪れたのは沈黙。
空気が変わる。
音が遠のき、周囲の観客の気配までもが薄れていく。
まるで舞台の上だけが別の世界に切り取られたようだった。
両者は、ほぼ同時に構えを取った。
アリスは左足を前に出し、剣を胸の高さに構える。
刃先がわずかに揺れ、光を反射してきらりと光る。
ヴェイルは右足を引き、体を半身にして低く構えた。
視線は一点、アリスの胸元に固定されたまま。
呼吸を合わせ、互いの初動を待つ。
観客席の空気が一瞬で張り詰める。
剣士同士の間に流れる緊迫した気配は、まるで音をも断つかのようだ。
誰もが息を潜め、主審の動きを見つめている。
――そして、主審が右手をゆっくりと掲げた。
手の甲が太陽の光を受け、白く光る。
誰もがその瞬間を待ち構える。
空気が、濃く――重く――なる。
舞台の上で、ただ二人の呼吸だけが聞こえる。
主審の指が震え、そして――右手が、鋭く振り下ろされた。
「――始めッ」
その声が響いた瞬間、静止していた空気が爆ぜるように動き出した。
開始の合図が舞台に鋭く突き刺さる。
その音と同時に、ヴェイルが地を蹴った。
砂が爆ぜ、低い衝撃音が響く。
初動から無駄のない加速――身体全体を一本の刃に変えたような踏み込みだった。
一直線の突進。風圧がアリスの頬を打つ。
(――速い)
アリスは瞬時に判断し、左足を半歩引き、上体をひねる。
ヴェイルの剣が目の前を掠め、頬をなぞる風が熱い。
金属が空気を裂き、髪先が散った。
そのままアリスは腰を沈め、体重を乗せた切り上げを放つ。
だがヴェイルはその意図を読んでいた。
身体を半回転させ、刃を滑らせて受け流し、反動を利用して鋭い突きを繰り出す。
「速い……っ」
アリスは紙一重で軌道を逸らし、剣を横に弾き返す。
刃と刃がぶつかり、硬質な音が空間を裂いた。
火花が弾け、鍔迫り合い――。
金属の軋みが骨に響く。腕に伝わる重みが、互いの力量を告げていた。
「……っ」
「はあっ」
押し合い、刃を滑らせる。
アリスがわずかに身を引いた瞬間、ヴェイルは剣を回転させて斜め下からの切り上げを狙った。
それをアリスが受け止め、腕を返して上段から斬り下ろす。
剣と剣が交錯し、金属音が重なり合って火花が散る。
目にも留まらぬ速さで、両者の剣筋が舞台の空間を裂いた。
(間合いが近い……攻めきれない)
アリスは体を回転させ、左足を軸に一歩後退。
ヴェイルがその隙を逃さず踏み込み、突きを繰り出す。
その一撃をアリスは刃で逸らし、足首の回転を使って反転、反撃に転じた。
「はッ――」
鋭い風切り音が走る。
刃の軌跡が細い線を描き、砂が弾け飛ぶ。
ヴェイルはすぐに体を沈め、アリスの斬撃をくぐるようにかわす。
その勢いを利用して、低い姿勢から膝裏を狙うように横薙ぎ。
アリスは即座に跳び退き、刃が床を掠めた瞬間、足先で踏み込み――今度は上段からの袈裟斬りを放つ。
ヴェイルは受け流し、左へ回転しながら背面へ切り返す。
剣と剣が再びぶつかる。
「っく……」
「まだまだ」
互いの呼吸が荒くなり始めた。
それでも動きに乱れはない。
アリスはわずかに息を吐き、間合いを取って再び前へ。
彼女の目は、すでに相手の重心の移ろいを捉えていた。
(右足に体重……上段の構え。次は縦――)
ヴェイルの肩がわずかに動く。
瞬間、アリスは半歩踏み込み、相手の攻撃を受け流しながら反転した。
刃が弧を描き、ヴェイルの腕を狙う。
金属音が炸裂し、ヴェイルの剣がわずかに押し戻される。
「くっ……」
ヴェイルはすぐに体勢を立て直し、逆袈裟の反撃。
アリスは刃を交差させて受け止め、二度、三度と連続で防ぐ。
衝撃が腕に食い込み、床を踏む音が低く響いた。
両者の剣撃が絡み合い、まるで舞のような攻防が続く。
次の瞬間――ヴェイルの剣がアリスの胸元を狙い、一直線に突き出された。
アリスは身をひねり、刃の線を紙一重で外す。
その勢いのまま相手の右側へ滑り込み、後ろ手で剣を返して斬り上げた。
「……っ」
背中合わせの一瞬――アリスの一閃が走る。
ヴェイルは体をねじり、ぎりぎりで回避したが、刃の先端が脇腹を浅く掠めた。
金属の音が止まり、砂の舞う音だけが残る。
「――そこまで」
主審の声が響いた瞬間、時間が解けたように周囲の音が戻る。
張り詰めていた空気が一気に緩み、会場全体がどよめきに包まれた。
拍手が波のように広がる。
アリスは深く息を吐き、剣を静かに納める。
汗が頬を伝い、胸の鼓動がまだ速い。
対面のヴェイルも剣を下げ、一歩前へ出て礼を取った。
「強かったです、ヴェイルさん」
アリスの声は穏やかだった。だが、その中には燃えたぎる闘志の名残がある。
「……君もだ、アリス。動きが読めない……まるで鏡合わせだ」
ヴェイルの瞳には、畏敬と理解が宿っていた。
互いに静かに笑みを交わし、刃を交えた者同士だけが知る“認め合い”の気配が通う。
観客の拍手が再び高まり、舞台の上には戦いの余韻が残る。
そこにあったのは、魔力でも魔術でもない。
ただ、肉体と心で研ぎ澄まされた技。
――純粋な剣士たちの誇りが交錯した、一瞬の輝きだった。
二人はそのままステージを下り、競技場の脇へと歩を進める。
出口のところで、待っていたレティアが声を張り上げながら大きく手を振り、駆け寄ってきた。
「アリスーーー。すごかったよ。見えなかったもん、動きが」
興奮が抜けきらない様子で、レティアは勢いよく跳びつき、アリスの首に抱きついた。
抱擁の力は緩く、だが熱を帯びていた。
アリスは一瞬驚きながらも苦笑し、そっとレティアの背中を優しく叩いて落ち着かせる。
「もう、ちょっと落ち着いて。まだ決勝が残ってるんだから」
レティアはぱっと離れ、頬を赤らめながらも満面の笑みを浮かべた。
目に光を宿し、胸の内で燃えるものを抑えきれないようだった。
「本当に……見てて、心臓が追いつかなかった。どうやってあの背後取ったの」
アリスは肩をすくめて、でもどこか優しく笑った。
「ヴェイルが自分の重心を少し大きく動かしたのを見てたの。あとは、動きの続きを少しだけ読んだだけよ」
そのやりとりを、少し離れた場所から眺めながら、レオ班長は隣に立つミラージュ魔導騎士団の団長――エルネスト・ルヴェリエと穏やかに言葉を交わしていた。
「……それにしても、あの動きは只者ではないな。彼女……確か、グレイスラー卿のご息女だと聞いたが」
エルネストが目を細めて問いかけると、レオは誇らしげに胸を張り、うなずいた。
「ええ、あの子はグエン・グレイスラー卿のお孫さんです。剣の才も魔術の才も、血筋は伊達じゃないんで」
エルネストはその言葉を受けて、視線をステージ裏のアリスへ向け、ふっと笑みを漏らした。
「……なるほど、道理で。あの一太刀……祖父譲りか」
若き剣士の背中に漂う余韻をじっと見つめながら、エルネストは静かに続けた。
「さぞかし厳しい修練を積んできたんだろうな。……これほどの若者がいるとは、ファーレンナイト王国、侮れない」
「でしょ」
レオはどや顔で顎をしゃくり、そこに少し茶目っ気を含ませる。
団長も微笑みを含みながら、ふっと息を漏らした。
「この先の決勝、楽しみにしているとしよう」
その言葉の背後には、ただの試合ではないもの――若き実力者同士の出会いと、これからの連携や信頼が芽吹く予感が含まれていた。
観客の拍手はまだ余韻として空気に残り、アリスとレティアの間には、言葉を超えた絆が静かに確かめられていた。




