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第四部 第一章 第9話

 ようやく最後の客が笑顔で店を後にし、木製のガラス戸が小さく音を立てて閉じられた。


 外の通りでは並ぶ街灯が一つ、また一つと灯り始め、柔らかな橙色の光が夜の濃さをじわじわと押し広げていく。

 入口脇の金具に吊るされた木製の看板が、カランと軽い音を響かせながら「OPEN」から「CLOSE」へと裏返る。

 その瞬間、長い一日の終わりを告げる空気が、店内にふわりと広がった。


 カウンターの内側に立っていたアリスは、胸の奥に溜め込んでいた息をふぅ、と吐きながら背をカウンターに預けた。

 両手を胸元でそっと合わせ、肩を落とす。その仕草は、まるで任務を終えた兵士が鎧を外したような、安堵と心地よい疲労を同時に帯びていた。


「……つ、疲れたぁ……」


 少し間延びした声は、パン屋の温もりに静かに溶けていく。

 店内にはまだ、焼きたての生地の柔らかい香りが残っていた。香ばしい麦の匂い、昼間に煮込んでいたスープの香草の匂いが混ざり合い、外気の冷たさと対照的なぬくもりを醸していた。


 奥の厨房からは、カトラリーを片付ける金属音がカチリ、カチリと微かに響く。

 店全体に「一日の締め」の静かなリズムが刻まれ、自然と心が落ち着く。


 その声に反応するように、厨房の奥からエリナとギルバートが現れた。

 二人とも袖をまくったままで、額にはうっすら汗がにじみ、指先には薄く小麦粉が残っている。


「ごめんねアリス、急に。帰ってきたばかりなのに、店番まで手伝わせちゃって」


「本当に助かったよ。夕方から急にお客さんが増えてね。二人じゃ回らなくてさ」


 申し訳なさそうに頭を下げる両親に、アリスは苦笑しながら肩をすくめた。


「しかたないよ。……わたしの顔見に来た人も、多かったみたいだし」


 わざと軽口を添えた声に、エリナはどこかくすぐったそうに頬を緩める。


「今日は泊まっていくんでしょ?」


「うん。二泊くらいは、ちゃんと家にいようと思ってる」


 その返事に、エリナの表情がぱっと明るくなる。

 両手を軽く叩き、嬉しさを隠しきれない様子で言った。


「じゃあ晩ご飯は少し豪勢にしなきゃね。お肉も煮込みも用意してあるし、あとは温めるだけ」


「でも、パンはうちのを食べてもらわないとな」


 ギルバートがにやりと笑い、クラリスへ視線を向けた。


 クラリスはその視線を受け取り、柔らかい微笑みで応じる。


「もちろんです。グレイスラー家特製のパン……本当に楽しみです」


 夕暮れの橙光が窓から差し込み、厨房の木の棚や真鍮の取っ手を静かに照らす。

 ギルバートは木べらで焼き上がったパンを木台から籠へ移し、ふっくらした表面を布でそっと拭って余分な湯気を落とす。


 横ではエリナが大鍋の蓋を開け、立ち上る香草と煮込み肉の甘い香りに満足そうに目を細めた。


 クラリスは厨房を興味深そうに眺める。

 使い込まれた調理台、規則的に並ぶ鍋やフライパン、きちんと研磨された包丁の列。

 そのどれもが、この家族が長く積み重ねてきた時間の跡だった。


 ふと、アリスがエプロンを取り、当たり前のようにエリナの隣に立つ姿に、小さな笑みがこぼれる。


「アリス、ちゃんとできるの? 厨房って、けっこう厳しそうだけど」


「昔は手伝ってたから……少しくらいはできるよ」


 そう言いながらアリスは、洗い立ての木皿に野菜を手際よく盛り付けていく。

 赤いトマト、緑のハーブ、白いチーズがリズムよく指先で並べられ、ひとつの皿に小さな彩りが咲いた。


「へぇ……器用なのね。戦えて、勉強もできて、料理まで上手って……ずるいわ」


「ちょっと、それは褒めすぎだから……」


 照れくさそうに笑うアリス。その横でギルバートが、湯気の立つ白パンを持ってくる。


「クラリスさん、これ。焼き立てなんだ。“湖畔の白パン”。軽い塩気があって、シチューにすごく合うんだよ」


「ありがとうございます……あ、すごい……おいしい!」


 ひと口食べると同時に、クラリスの目がぱっと輝き、頬がふんわり緩む。

 その姿にギルバートとエリナが目を合わせ、誇らしげに笑った。


 アリスの胸にも温かい誇りがふんわりと灯る。


「昔はね、パンの焼き加減で毎日ギルバートと喧嘩してたのよ」


「そうそう。でも今じゃ息ぴったり。な、エリナ?」


「ふふ……まぁ、今はね」


 三人の軽やかな笑い声に、クラリスは温かい気持ちで頬を緩めた。


 やがて広いダイニングテーブルに料理がずらりと並べられる。

 香草風味のローストチキン、野菜と豆の煮込み、心まで温まるスープ、焼きたてのパン数種――どれも手間と愛情がしっかり込められた家庭の味。


「クラリスちゃん、これが“ミルクハーブローフ”よ。バターを塗ると格別なの」


「わぁ……いい香り。では、いただきます」


 クラリスはたっぷりバターを塗り、一口かじると目を細めた。

 アリスはその様子を見て、胸の奥がふわりと温かくなる。


「ほんと、変わらないね、この味」


「こうして家族と囲む食卓って……やっぱりいいものね」


「……うん。学院暮らしだと、こういうのって恋しくなる」


 ギルバートが少し照れながらグラスを掲げる。


「じゃあ――アリスの帰郷と、クラリスさんの来訪を祝って……乾杯!」


「乾杯!」


 軽い音でグラスが触れ合い、その音が部屋に柔らかく響いた。


 食後、エリナが香り高いハーブティーを淹れ、湯気の向こうから穏やかに訊ねる。


「ねえアリス。明日はレティアちゃんのお屋敷に行くの?」


「うん。昼前には。……ちょっと緊張するけど」


「大丈夫よ。あなたなら絶対上手くいくわ。レティアちゃんも……あなたをすごく信頼してたもの」


 アリスはわずかに照れながら、そっと目を伏せる。


「ありがとう、母さん」


 それだけの短いやり取りなのに、胸の奥がふっと温かくなる。

 テーブルの上ではティーカップから白い湯気が立ちのぼり、窓の外では夜風が静かに通り過ぎていく。


 久しぶりに戻ったアリスの家には、柔らかな笑い声と、深く穏やかな家族の温もりが、静かに、そして確かに満ちていた。


 夕食の余韻がゆっくりと薄れていく頃、アリスとクラリスは二階の客間へと移動した。

 階段を上がる途中、店の奥からはまだギルバートとエリナが片付けをする音が微かに聞こえてくる。

 その心地よい生活音を背に受けながら、アリスは客間の扉を開けた。


 部屋は質素だが暖かい雰囲気に満ちていた。

 木剤の香りがほのかに漂い、窓辺のランプが柔らかな光を落としている。

 ベッドは二つ、小さな机と、母が選んだらしい花柄のカーテン。


「……なんか、懐かしいな。この部屋も」


「アリスの……子どものころの部屋?」


「ううん。ここは来客用。でも、よく友達とか泊まりに来てたなって」


 アリスはベッドの縁に腰を下ろし、軽く足を揺らす。

 クラリスは向かいのベッドに座り、アリスの表情をそっと覗いた。


「アリスは、子どものころ……どんな子だったの?」


「え? 私……?」


 少し照れたように眉尻を下げ、アリスは膝に指を絡める。


「うーん……小さい頃から魔力量は多かったらしくて、よく家のパン籠を魔力で温めて……焦がしちゃったり」


「ふふっ、想像できるわ」


「あとね……市場の猫を追いかけて迷子になったり、図書館で魔術書を読むのが楽しくて、一日中帰ってこなかったり」


「あなた、昔から変わらないのね……」


 クラリスのほんのり呆れた声に、アリスは肩をすくめた。


「そうかもしれない。……でも、家に帰ってくると、父さんが“剣の素振り見せてやるぞ”って外に連れ出してね」


「ギルバートさんが?」


「うん。すっごく嬉しそうに……」


 その瞬間、アリスの瞳がふっと柔らかく揺れた。


「父さん、たぶんずっと……私が前のように剣を振ってくれるの、期待してたんだと思う」


「アリス……」


「剣術の才能はあったみたいだから。でも……私、魔術のほうが好きで」


 自嘲気味に笑うアリスの横顔を見て、クラリスはそっと声を重ねる。


「でも、今日のギルバートさん……すごく嬉しそうだったわよ。アリスが帰ってきて」


「……そう見えた?」


「見えた。すごく、ね」


 アリスの胸元がわずかに上下する。

 照れと安堵が混ざった、小さな吐息。


 そこへ――階段を上がる足音が静かに響いた。


「アリス、クラリスさん。お茶を持ってきたよ」


 ノックと同時に扉が少し開き、ギルバートが湯気の立つマグを二つ手にして入ってきた。


「父さん……ありがとう」


「いや、今日の礼を言わないとね。アリス……お前が帰ってきてくれて、本当に嬉しい」


 ギルバートは照れくさそうに頭を掻き、しかしその声には揺るぎない温かさがあった。


「学院で、大変な思いをしてるって聞いた。強い子だって分かってるけど……親はどうしても、心配するもんだ」


「父さん……」


「だから……無理するなよ。お前が笑って帰ってきてくれるのが、一番嬉しいんだ」


 アリスの肩がわずかに震えた。

 彼女は言葉を返そうとしたが、喉がつまったように声が出ない。


 クラリスはそんな二人の空気を壊さないよう、小さく微笑んだ。


「ギルバートさん。アリスさんは……私がちゃんと見てます。無茶しそうになったら止めますから」


「……頼もしいな。ありがとう、クラリスさん」


 ギルバートは静かに頷くと、二人にマグを渡し、そっと部屋を後にした。


 扉が閉まる音が、部屋に穏やかな余韻を残す。


「……なんか、泣きそう」


 アリスがぽつりと言うと、クラリスはふふっと笑いながら肩を寄せた。


「泣いていいのよ。家なんだから」


「……そうだね」


 アリスはマグを胸に抱え、しばらく目を閉じた。


 夜が深まるにつれ、客間は静けさに包まれていった。

 窓辺からは街灯の光が淡く差し込み、二つのベッドを静かに照らし出す。


 先に眠りについたのはアリスだった。

 疲れが一気に出たのだろう。髪が枕にふわりと広がり、呼吸は穏やかで、眉間の皺もすっかりほどけている。


 クラリスはベッドの上に腰を下ろしたまま、彼女を静かに眺めていた。


「……ほんとに、よく頑張ってるんだから」


 囁きは風よりもそっと落ちる。

 アリスの寝顔は驚くほど幼く見えた。

 学院での厳しい表情、指揮官としての鋭い瞳とも違う。

 それは、家に帰ってきた少女そのものの顔だった。


 クラリスは布団をそっと引き上げ、アリスの肩が冷えないように整える。


「……おやすみ。アリス」


 そう言ってランプの灯りを落とすと、部屋はさらに静寂を深めた。

 遠くで風が通り、木の壁がやさしく鳴る。

 その音の中、クラリスは胸の奥に湧き上がる温かさと、少しだけ切ない気持ちを抱えながら瞼を閉じた。


 こうして、アリスの帰郷の夜は静かに、穏やかに更けていった。

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