第四部 第一章 第8話
旅行鞄を片手に提げ、アリスとクラリスは、石畳の道沿いで停車した魔導馬車からゆっくりと降り立った。
魔力で動く車輪が止まると同時に、車体の表面に残っていた淡い光の紋がふっと消える。
夕暮れ前の柔らかな陽光が街角を染め、低い屋根の並ぶ家並みと、通りの角に掲げられたパン屋の木製看板を金色に縁取っていた。
木造の外壁は長年の陽光と風雨に馴染み、深みのある飴色をしている。
二階の窓辺には赤や黄の小花が陶器の鉢に植えられ、風にそよぐたびに花弁がかすかに揺れ、香りが空気に溶けていく。
通りにはまだ帰宅途中の人影がちらほらとあり、誰もが夕餉の支度に向かう穏やかな時間帯だった。
扉の隙間からは、焼きたての小麦とバターの甘く香ばしい香りがふわりと流れ出し、アリスの胸に幼いころの情景を呼び覚ます。
小さな背丈で必死にパン籠を抱えて運んだあの日々。
忙しい両親の手伝いをしながら、指先に温かい丸パンの感触を覚えていた頃の記憶が、香りとともに鮮やかに蘇る。
「……ここが、私の実家よ」
アリスは戸口の前で立ち止まり、胸の奥で一度だけ深く息を吸い込む。
懐かしさと少しの緊張が入り混じった息が肺を満たし、鼓動がわずかに速まる。
彼女はその感覚を静かに整え、手のひらで重みのある木製の扉を押し開けた。
「アリス……なんだか落ち着かない顔してるね」
「う……見える? いや、そりゃそうか……帰ってきたの、ずいぶん久しぶりだから」
「緊張してるの?」
「少しだけ……ううん、かなり……かも」
クラリスはくすりと微笑み、アリスの肩に軽く触れた。
「大丈夫よ。アリスの家族なんだもの。きっと温かく迎えてくれるわ」
「……そうだといいけど。クラリスに会わせるの、ちょっと照れるんだよね」
「え? どうして?」
「なんか……こう……大切な友達を家に連れてきたって思うと、変にそわそわして」
「ふふ、それなら私も同じ気持ち。アリスの大切な場所に連れてきてもらえて、嬉しいわ」
「……ありがとう。よし、行こう」
アリスは小さく頷き、手を扉の取っ手にかける。
「――ただいま、母さん」
その囁きは懐かしさと少しの勇気を混ぜたように揺れ、夕暮れの空気に静かに溶けていった。
店内に一歩足を踏み入れると、ふわっと温かな空気が包み込んできた。
パンの焼き上がる香りに混ざって、煮詰めたベリージャムの甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。
室内を照らすのは数本の魔導ランプで、柔らかな橙の光が木の棚やカウンターをほのかに照らしていた。
棚には大小さまざまなパンが整然と並び、丸パン、バタークロワ、香草を練り込んだ田舎パン――種類ごとに丁寧に並べられ、それぞれが焼き立て特有の艶を帯びている。
奥の作業台では前掛け姿の女性が、熱気の立ちのぼる鉄板から焼きたての丸パンを持ち上げ、軽やかな手つきで籠へと移していた。
布巾越しでも伝わってくる湯気が、店内にもう一段深い温もりを添える。
「いらっしゃいませ」
女性が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべる。
柔らかい栗色の髪が肩で揺れ、優しい瞳が店内の光を受けてきらりと輝いた。
しかし次の瞬間――その瞳がぱっと大きく見開かれ、驚きが一気に表情に満ちていく。
「ちょっと、お父さん! お客さんが来たわよ!」
奥へと声を張り上げると、女性は前掛けも直さないままアリスへ駆け寄った。
手に持っていた布巾がひらりと揺れ、まるで飛び込むように両腕を広げる。
「お帰りなさい、アリス」
温もりが肩越しに、胸元に、じんわりと染み込んでくる。
少しだけ小柄なその体は、かつて幼かったアリスを包み込んだときと同じ、変わらない優しい温度を持っていた。
アリスはわずかに肩をすくめ、頬を赤らめて目をそらす。
学院でも戦場でも滅多に見せない照れの色がありありと浮かぶ。
けれど抱擁を拒むことはせず――むしろほんの短く、控えめに抱き返した。
心の奥でふっと緊張の糸がほどけ、胸の鼓動が静かに落ち着いていくのを感じた。
その様子を見ていたクラリスは、胸元にそっと手を添え、小さく笑みをこぼす。
学院でも、演習でも、研究室でも見せない表情――
「家庭の中のアリス」。
それはどこか幼さも残し、温かく、守りたくなるような柔らかさを帯びていた。
「あなたがクラリスさん? 初めまして、私はアリスの母のエリナです。遠くからようこそ」
エリナはアリスをそっと解放し、くるりと自然な動作でクラリスの方へ向き直った。
目元には穏やかな笑い皺があり、その表情は初対面とは思えないほど親しみ深い。
声はまろやかで包容力があり、相手の緊張を溶かしてしまうような温度を帯びていた。
まるで以前から娘の友をよく知っていたかのように、自然な歓迎の気配が漂っている。
クラリスはその空気に戸惑いながらも、同時に胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「こちらこそ……アリスにはいつもお世話になっています。お会いできて光栄です」
穏やかな返事をしながら頭を下げるクラリス――だがその頬にはほんのりと赤みが差していた。
エリナの柔らかい視線が、遠くから見守ってくれていた母親のように感じられたからだ。
そんな二人を見ながら、アリスは口元を少し緩め、ふっと息を吐いた。
――あぁ、本当に帰ってきたんだ。
胸の中にじんわり広がる安堵と、懐かしい香りが、彼女の心を静かに満たしていった。
そのとき、奥の階段から、木段を踏みしめる落ち着いた足音がゆったりと近づいてくる。
姿を現したのは、白髪がところどころ混じり始めた穏やかな顔立ちの男性だった。体つきは無駄なく引き締まり、年齢を重ねてもなお、動きのひとつひとつが洗練されている。
けれど一番の特徴は――睨むでも威圧するでもないのに、目が合っただけで背筋が伸びるような、鋭く研ぎ澄まされた気配だった。静かに燃える刀身のような、長い鍛錬を積んだ者にだけ宿る、深く静かな強さ。
(……やっぱり血は争えないわね。アリスと同じ“匂い”がする)
クラリスは心の中でそっと呟いた。
「おお、アリス……!」
男性――アリスの父、ギルバート・グレイスラーが目を見開き、ぱっと笑みを深める。大きな腕を広げ、そのまま勢いよく抱きしめようと身を乗り出した。
だが、アリスはすばやく一歩、横へ避ける。頬をわずかに染めながら、眉尻を下げて小声で呟いた。
「も、もう子どもじゃないし……客人の前でそれはちょっと……」
ギルバートは一瞬ぽかんとし、すぐに「はは……」と照れたように頭をかいた。
「すまん、つい癖でな。久しぶりで嬉しくて……ついな」
その声音には、揺るがぬ優しさと、娘を愛する気持ちがそのまま乗っていた。
そして、ギルバートはクラリスの方へ向き直り、先ほどまでの砕けた雰囲気から一転して、礼儀正しい家長としての顔を見せた。背筋を伸ばし、丁寧な仕草で軽く胸へ手を当てる。
「あなたがクラリスさんだね。アリスから話は聞いている。私は父のギルバート・グレイスラーだ。遠いところをよく来てくれた、歓迎するよ」
クラリスもまた深く礼を返し、その声音には学院講師としての落ち着きと、アリスの家を訪れた静かな緊張感が滲んでいた。
「はじめまして。クラリス・ノーザレインと申します。学院でアリスさんと――」
「ちょっと、それ、先生でしょ?」
アリスの鋭いツッコミが横から入る。
クラリスはぴたりと声を止め、むっと頬をほんの少し膨らませた。
「職業はそうでも、友人でしょ。ね?」
最後の“ね?”にだけ、わずかな圧というか、照れというか、微妙な感情が混ざっていた。
アリスは観念したように肩をすくめ、しかし頬はどこか嬉しそうに緩んでいた。
「……はいはい。友人です。……大事な、ね」
その言い方に、クラリスの表情がふわりと緩む。
ギルバートはそのやり取りを見て目を細め、ほんの少しだけ頬を上げた。
「なるほど……アリスが信頼している理由が、よくわかるよ」
クラリスは一瞬だけ目を丸くし、すぐに丁寧に笑った。
「ありがとうございます。……アリスさんには、いつも助けられていますから」
「いや、助けられてるのはこっちで――!」
アリスが慌てて反論しようとしたが、ギルバートに軽く肩を叩かれた。
「まあまあ。言いたいことは山ほどあるが……まずは座ってゆっくりしていってくれ。エリナが夕飯を用意している。うちの料理は、味だけは自慢なんだ」
アリスはぼそりと呟く。
「……味“だけ”って言うのやめてよ」
ギルバートは大笑いし、クラリスもつられて口元に手を添えながら笑った。
その空気は、いつしか家族の輪のように温かく、柔らかなものへと変わっていった。
そのとき、カウンター横の小さなベルがカラン、と澄んだ音を立てた。木製の扉が少し揺れ、冷えた外気が店の温もりへそっと流れ込む。入ってきたのは、近所に住む中年の女性だった。ぽってりした手には買い物籠、肩には薄いストール。アリスの姿を見つけた瞬間、彼女はぱちりと目を見開き、驚きから喜びへと一気に表情を華やがせた。
「えっ……アリスちゃん!? 帰ってきてたの?」
「え、あ……はい。ただいま戻りました、リーネおばさん」
アリスがぺこりと頭を下げると、女性――リーネは両手を叩いて「まあまあ!」と声を弾ませた。目尻には歳月と笑顔を刻んだ皺が寄り、その顔には純粋な嬉しさがあふれ出ていた。
「すっかり立派になったわねぇ。学院で頑張ってるって、町のみんなが話してたわよ。あんたのお母さんも鼻が高いんだから」
「……あまり変わったつもりはないんですけど……」
アリスは視線を泳がせ、助けを求めるように母へ目を向ける。エリナはくすっと微笑んで娘の背を軽く押した。
「アリス、リビングにお客さまを通してあげて。夕飯の準備ができるまでゆっくりしていって」
クラリスも軽く会釈し、アリスと共に奥のドアへと向かう。
木製の扉を抜けた先は、温かい灯りに満たされたリビングだった。大きな窓辺からは夕光が柔らかく差し込み、淡い橙のグラデーションとなって床に広がる。テーブルの中央には陶器の花瓶が置かれ、野花が数本、素朴で優しい色合いを添えていた。
アリスはソファに腰を下ろし、ほぅ……と胸の奥の空気を吐き出す。
「……なんか、すっかり“帰省モード”だね」
「うん。でも、すごく愛されてるのが伝わってくる。……あなた、ここでは本当に“普通の女の子”なんだね」
クラリスは微笑を湛えながら、温かな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
その時、再びベルがカラン、と鳴った。今度は勢いよく扉が開かれ、元気いっぱいの子どもの声が飛び込んでくる。
「アリスお姉ちゃーん! 帰ってきてるって聞いた!」
「本当に!? 会いに来たのー!」
わらわらと数人の子どもが店内に駆け込み、まるで光に吸い寄せられるようにカウンターへ寄っていく。
アリスは額に手を当て、深いため息を落とした。
「……誰よ、言いふらしたの」
「さあ、誰でしょうね。……出番じゃない?」
クラリスが口元に手を添えながらくすりと笑うと、アリスは渋い顔のまま立ち上がる。
「ほんと……この街、情報伝達が早すぎるんだよ」
そう言いながら店前に戻ったアリスは、一瞬で表情を切り替えた。まるで年月が巻き戻ったかのように、手際よくパン籠を整え、立ち並ぶ小さな客たちへ優しい声で説明を始める。
「はいはい、順番ね。今日は新作のハチミツバターパンがあるよ。甘いのが好きな子はこっち、しょっぱいのが好きな子はこっち」
「お姉ちゃん、これふわふわー!」
「それ! 今日焼いたばかりなの!」
子どもたちの笑い声と弾む足取り。その中心で、アリスは自然体で、嬉しそうに、そして誇らしげに笑っていた。
カウンター脇の小椅子に腰かけたクラリスは、その横顔を静かに見つめていた。学院で見せる鋭い才能も、戦場で見せる強さもない。ここにあるのは、街の一員として愛される、ありのままのアリスだった。
「……本当に、いい顔をするのね」
クラリスは小さく呟き、そっと微笑んだ。その声は、誰にも聞かれないほどの静けさで、しかし確かな温かさを帯びていた。




