表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
128/181

第四部 第一章 第8話

 旅行鞄を片手に提げ、アリスとクラリスは、石畳の道沿いで停車した魔導馬車からゆっくりと降り立った。


魔力で動く車輪が止まると同時に、車体の表面に残っていた淡い光の紋がふっと消える。

夕暮れ前の柔らかな陽光が街角を染め、低い屋根の並ぶ家並みと、通りの角に掲げられたパン屋の木製看板を金色に縁取っていた。


 木造の外壁は長年の陽光と風雨に馴染み、深みのある飴色をしている。

二階の窓辺には赤や黄の小花が陶器の鉢に植えられ、風にそよぐたびに花弁がかすかに揺れ、香りが空気に溶けていく。

通りにはまだ帰宅途中の人影がちらほらとあり、誰もが夕餉の支度に向かう穏やかな時間帯だった。


 扉の隙間からは、焼きたての小麦とバターの甘く香ばしい香りがふわりと流れ出し、アリスの胸に幼いころの情景を呼び覚ます。

小さな背丈で必死にパン籠を抱えて運んだあの日々。

忙しい両親の手伝いをしながら、指先に温かい丸パンの感触を覚えていた頃の記憶が、香りとともに鮮やかに蘇る。


「……ここが、私の実家よ」


 アリスは戸口の前で立ち止まり、胸の奥で一度だけ深く息を吸い込む。

懐かしさと少しの緊張が入り混じった息が肺を満たし、鼓動がわずかに速まる。

彼女はその感覚を静かに整え、手のひらで重みのある木製の扉を押し開けた。


「アリス……なんだか落ち着かない顔してるね」

「う……見える? いや、そりゃそうか……帰ってきたの、ずいぶん久しぶりだから」

「緊張してるの?」

「少しだけ……ううん、かなり……かも」


 クラリスはくすりと微笑み、アリスの肩に軽く触れた。


「大丈夫よ。アリスの家族なんだもの。きっと温かく迎えてくれるわ」


「……そうだといいけど。クラリスに会わせるの、ちょっと照れるんだよね」

「え? どうして?」

「なんか……こう……大切な友達を家に連れてきたって思うと、変にそわそわして」

「ふふ、それなら私も同じ気持ち。アリスの大切な場所に連れてきてもらえて、嬉しいわ」


「……ありがとう。よし、行こう」


 アリスは小さく頷き、手を扉の取っ手にかける。


「――ただいま、母さん」


 その囁きは懐かしさと少しの勇気を混ぜたように揺れ、夕暮れの空気に静かに溶けていった。


 店内に一歩足を踏み入れると、ふわっと温かな空気が包み込んできた。

パンの焼き上がる香りに混ざって、煮詰めたベリージャムの甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。

室内を照らすのは数本の魔導ランプで、柔らかな橙の光が木の棚やカウンターをほのかに照らしていた。


 棚には大小さまざまなパンが整然と並び、丸パン、バタークロワ、香草を練り込んだ田舎パン――種類ごとに丁寧に並べられ、それぞれが焼き立て特有の艶を帯びている。

奥の作業台では前掛け姿の女性が、熱気の立ちのぼる鉄板から焼きたての丸パンを持ち上げ、軽やかな手つきで籠へと移していた。

布巾越しでも伝わってくる湯気が、店内にもう一段深い温もりを添える。


「いらっしゃいませ」


 女性が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべる。

柔らかい栗色の髪が肩で揺れ、優しい瞳が店内の光を受けてきらりと輝いた。


 しかし次の瞬間――その瞳がぱっと大きく見開かれ、驚きが一気に表情に満ちていく。


「ちょっと、お父さん! お客さんが来たわよ!」


 奥へと声を張り上げると、女性は前掛けも直さないままアリスへ駆け寄った。

手に持っていた布巾がひらりと揺れ、まるで飛び込むように両腕を広げる。


「お帰りなさい、アリス」


 温もりが肩越しに、胸元に、じんわりと染み込んでくる。

少しだけ小柄なその体は、かつて幼かったアリスを包み込んだときと同じ、変わらない優しい温度を持っていた。


 アリスはわずかに肩をすくめ、頬を赤らめて目をそらす。

学院でも戦場でも滅多に見せない照れの色がありありと浮かぶ。

けれど抱擁を拒むことはせず――むしろほんの短く、控えめに抱き返した。

心の奥でふっと緊張の糸がほどけ、胸の鼓動が静かに落ち着いていくのを感じた。


 その様子を見ていたクラリスは、胸元にそっと手を添え、小さく笑みをこぼす。

学院でも、演習でも、研究室でも見せない表情――

「家庭の中のアリス」。

それはどこか幼さも残し、温かく、守りたくなるような柔らかさを帯びていた。


「あなたがクラリスさん? 初めまして、私はアリスの母のエリナです。遠くからようこそ」


 エリナはアリスをそっと解放し、くるりと自然な動作でクラリスの方へ向き直った。

目元には穏やかな笑い皺があり、その表情は初対面とは思えないほど親しみ深い。

声はまろやかで包容力があり、相手の緊張を溶かしてしまうような温度を帯びていた。

まるで以前から娘の友をよく知っていたかのように、自然な歓迎の気配が漂っている。


 クラリスはその空気に戸惑いながらも、同時に胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


「こちらこそ……アリスにはいつもお世話になっています。お会いできて光栄です」


 穏やかな返事をしながら頭を下げるクラリス――だがその頬にはほんのりと赤みが差していた。

エリナの柔らかい視線が、遠くから見守ってくれていた母親のように感じられたからだ。


 そんな二人を見ながら、アリスは口元を少し緩め、ふっと息を吐いた。


 ――あぁ、本当に帰ってきたんだ。

 胸の中にじんわり広がる安堵と、懐かしい香りが、彼女の心を静かに満たしていった。


 そのとき、奥の階段から、木段を踏みしめる落ち着いた足音がゆったりと近づいてくる。

 姿を現したのは、白髪がところどころ混じり始めた穏やかな顔立ちの男性だった。体つきは無駄なく引き締まり、年齢を重ねてもなお、動きのひとつひとつが洗練されている。


 けれど一番の特徴は――睨むでも威圧するでもないのに、目が合っただけで背筋が伸びるような、鋭く研ぎ澄まされた気配だった。静かに燃える刀身のような、長い鍛錬を積んだ者にだけ宿る、深く静かな強さ。


(……やっぱり血は争えないわね。アリスと同じ“匂い”がする)


 クラリスは心の中でそっと呟いた。


「おお、アリス……!」


 男性――アリスの父、ギルバート・グレイスラーが目を見開き、ぱっと笑みを深める。大きな腕を広げ、そのまま勢いよく抱きしめようと身を乗り出した。


 だが、アリスはすばやく一歩、横へ避ける。頬をわずかに染めながら、眉尻を下げて小声で呟いた。


「も、もう子どもじゃないし……客人の前でそれはちょっと……」


 ギルバートは一瞬ぽかんとし、すぐに「はは……」と照れたように頭をかいた。


「すまん、つい癖でな。久しぶりで嬉しくて……ついな」


 その声音には、揺るがぬ優しさと、娘を愛する気持ちがそのまま乗っていた。


 そして、ギルバートはクラリスの方へ向き直り、先ほどまでの砕けた雰囲気から一転して、礼儀正しい家長としての顔を見せた。背筋を伸ばし、丁寧な仕草で軽く胸へ手を当てる。


「あなたがクラリスさんだね。アリスから話は聞いている。私は父のギルバート・グレイスラーだ。遠いところをよく来てくれた、歓迎するよ」


 クラリスもまた深く礼を返し、その声音には学院講師としての落ち着きと、アリスの家を訪れた静かな緊張感が滲んでいた。


「はじめまして。クラリス・ノーザレインと申します。学院でアリスさんと――」


「ちょっと、それ、先生でしょ?」


 アリスの鋭いツッコミが横から入る。


 クラリスはぴたりと声を止め、むっと頬をほんの少し膨らませた。


「職業はそうでも、友人でしょ。ね?」


 最後の“ね?”にだけ、わずかな圧というか、照れというか、微妙な感情が混ざっていた。


 アリスは観念したように肩をすくめ、しかし頬はどこか嬉しそうに緩んでいた。


「……はいはい。友人です。……大事な、ね」


 その言い方に、クラリスの表情がふわりと緩む。


 ギルバートはそのやり取りを見て目を細め、ほんの少しだけ頬を上げた。


「なるほど……アリスが信頼している理由が、よくわかるよ」


 クラリスは一瞬だけ目を丸くし、すぐに丁寧に笑った。


「ありがとうございます。……アリスさんには、いつも助けられていますから」


「いや、助けられてるのはこっちで――!」


 アリスが慌てて反論しようとしたが、ギルバートに軽く肩を叩かれた。


「まあまあ。言いたいことは山ほどあるが……まずは座ってゆっくりしていってくれ。エリナが夕飯を用意している。うちの料理は、味だけは自慢なんだ」


 アリスはぼそりと呟く。


「……味“だけ”って言うのやめてよ」


 ギルバートは大笑いし、クラリスもつられて口元に手を添えながら笑った。


 その空気は、いつしか家族の輪のように温かく、柔らかなものへと変わっていった。


 そのとき、カウンター横の小さなベルがカラン、と澄んだ音を立てた。木製の扉が少し揺れ、冷えた外気が店の温もりへそっと流れ込む。入ってきたのは、近所に住む中年の女性だった。ぽってりした手には買い物籠、肩には薄いストール。アリスの姿を見つけた瞬間、彼女はぱちりと目を見開き、驚きから喜びへと一気に表情を華やがせた。


「えっ……アリスちゃん!? 帰ってきてたの?」


「え、あ……はい。ただいま戻りました、リーネおばさん」


 アリスがぺこりと頭を下げると、女性――リーネは両手を叩いて「まあまあ!」と声を弾ませた。目尻には歳月と笑顔を刻んだ皺が寄り、その顔には純粋な嬉しさがあふれ出ていた。


「すっかり立派になったわねぇ。学院で頑張ってるって、町のみんなが話してたわよ。あんたのお母さんも鼻が高いんだから」


「……あまり変わったつもりはないんですけど……」


 アリスは視線を泳がせ、助けを求めるように母へ目を向ける。エリナはくすっと微笑んで娘の背を軽く押した。


「アリス、リビングにお客さまを通してあげて。夕飯の準備ができるまでゆっくりしていって」


 クラリスも軽く会釈し、アリスと共に奥のドアへと向かう。


 木製の扉を抜けた先は、温かい灯りに満たされたリビングだった。大きな窓辺からは夕光が柔らかく差し込み、淡い橙のグラデーションとなって床に広がる。テーブルの中央には陶器の花瓶が置かれ、野花が数本、素朴で優しい色合いを添えていた。


 アリスはソファに腰を下ろし、ほぅ……と胸の奥の空気を吐き出す。


「……なんか、すっかり“帰省モード”だね」


「うん。でも、すごく愛されてるのが伝わってくる。……あなた、ここでは本当に“普通の女の子”なんだね」


 クラリスは微笑を湛えながら、温かな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 その時、再びベルがカラン、と鳴った。今度は勢いよく扉が開かれ、元気いっぱいの子どもの声が飛び込んでくる。


「アリスお姉ちゃーん! 帰ってきてるって聞いた!」


「本当に!? 会いに来たのー!」


 わらわらと数人の子どもが店内に駆け込み、まるで光に吸い寄せられるようにカウンターへ寄っていく。


 アリスは額に手を当て、深いため息を落とした。


「……誰よ、言いふらしたの」


「さあ、誰でしょうね。……出番じゃない?」


 クラリスが口元に手を添えながらくすりと笑うと、アリスは渋い顔のまま立ち上がる。


「ほんと……この街、情報伝達が早すぎるんだよ」


 そう言いながら店前に戻ったアリスは、一瞬で表情を切り替えた。まるで年月が巻き戻ったかのように、手際よくパン籠を整え、立ち並ぶ小さな客たちへ優しい声で説明を始める。


「はいはい、順番ね。今日は新作のハチミツバターパンがあるよ。甘いのが好きな子はこっち、しょっぱいのが好きな子はこっち」


「お姉ちゃん、これふわふわー!」


「それ! 今日焼いたばかりなの!」


 子どもたちの笑い声と弾む足取り。その中心で、アリスは自然体で、嬉しそうに、そして誇らしげに笑っていた。


 カウンター脇の小椅子に腰かけたクラリスは、その横顔を静かに見つめていた。学院で見せる鋭い才能も、戦場で見せる強さもない。ここにあるのは、街の一員として愛される、ありのままのアリスだった。


「……本当に、いい顔をするのね」


 クラリスは小さく呟き、そっと微笑んだ。その声は、誰にも聞かれないほどの静けさで、しかし確かな温かさを帯びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ