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第四部 第一章 第5話

水路を後にして、三人は遺跡内部の奥深くへと足を進めていった。

通路は進むほどに次第に狭まり、空気はひやりと冷たく、肌を包む湿り気が強まっていく。


岩壁の表面には、長い年月を経てもなお判別できる古代文字や象形が幾重にも刻まれており、天井近くの魔導灯から零れるわずかな光と、壁に埋め込まれた結晶石の淡い輝きが、その曲線や彫り跡を幻想的に浮かび上がらせていた。


歩くたびに、硬い靴底が岩床を叩く乾いた音と、水滴が滴り落ちる澄んだ音が交互に響く。

遠くからは、かすかに風が抜ける低い唸り声のような音も混じっていた。


「ここが最後の調査ポイント、《神殿跡》だ」


先頭を行くエリオットが立ち止まり、低く、しかし確かな声で告げる。

その声は石壁に反響し、まるで神殿自体が答えているかのように、重く長く広間の奥へと流れていった。


彼の視線は正面、わずかに開けた先にある祭壇へと注がれている。


広間に足を踏み入れると、まず視界に飛び込んでくるのは天井を支える巨大な石柱群だった。

それぞれが人の背丈の数倍はある直径を持ち、外縁には精緻な装飾と、今は失われた神話を描いた浮彫りが絡み合うように刻まれている。


壁一面にも彩色こそ褪せてはいたが、繊細な壁画が連なり、古の時代の営みや儀式の様子を鮮やかに物語っていた。

その光景は、時の流れにも耐え、失われた歴史の証を静かに語りかけているようだった。


中央には、深い静寂を纏った石造りの祭壇が厳かに佇み、その周囲には目に見えるほど濃い魔力の残滓が漂っている。

淡い青白い光が揺らめき、広間全体にまるで時の流れが止まったかのような錯覚を与えていた。


石壁に刻まれた古代紋章のひとつひとつが、脈動する光に照らされ、浮かび上がる陰影は生きた記憶のように揺れている。


アリスは祭壇へと歩み寄り、その周囲の構造を慎重に目で追いながら口を開いた。


「この神殿は、かつてこの地を守護した神に捧げられた場所だ。

多くの魔導陣や封印がこの一点に集中していて、今もなお強力な魔力の痕跡が残っているわ」


声に混じるのは、学者としての冷静な分析と、目の前の光景に対する抑えきれない畏敬の色だった。


アリスの蒼い瞳は、渦を巻く古代術式の流れを読み取りながら細かく瞬きをする。

ときおり白銀の光がその奥で微かに揺れ、過去の記憶と感覚が呼び起こされていることを示していた。


「封印……今回の調査では解くことはできないんだよね」


クラリスが、祭壇を包む青白い光に視線を奪われながら静かに尋ねた。

その声は、興味と緊張が入り混じる、研究者特有の硬さを帯びていた。


「そう。

今回は観光が目的だから、封印を解除することは許されていない。

でも……」


アリスは祭壇に手を触れぬよう、空中でそっと指先を滑らせる。


「その魔力の残響を間近で感じられるだけでも、ここに訪れた意味は大きい」


淡い光が指先に反応するように揺れ、影の輪郭が一瞬だけ震えた。


アリスはゆっくり頷き、その表情にひとつ息を落とす。

瞳に宿る光は静かだが、その奥では膨大な情報が組み上がっていくような集中があった。


祭壇のさらに奥には、封印を守るための多重の魔導陣が幾重にも重ねられていた。

幾何学的に交差する魔力線は、時おり星のような粒子を弾き、その度ごとにかすかな震声のような音が空気をかき混ぜる。


調査記録によれば、この神殿は古代文明が崇拝した「時空の女神セリューナ」に捧げられたものだという。

セリューナの名が刻まれた古代碑文は、半分以上が欠損しているにもかかわらず、紋章の一部だけは傷一つなく残っていた。

まるで時間そのものがその部分だけを保護しているような不自然さがあった。


「時空の女神……セリューナ」


クラリスは碑文の前に立ち、そっと手を伸ばして光の縁をなぞる。


「教本で読んだときより、ずっと……存在感が強いわ。

これ、本当に“神域”だったのね」


「うん。

セリューナは時空の流れを司る存在とされ、その力は世界の秩序を保つ鍵と語られてきたわ」


アリスは静かに続ける。


「だけど、その力は制御を誤れば一瞬で文明を崩壊させるほどの危険を孕んでいた。

だからこそ、ここには“時空の歪みを引き起こす禁忌の魔力”が封じられているの」


クラリスの肩がわずかに震えた。


「禁忌……本当に触れちゃいけないものなんだ」


「ええ。

古代の魔導士たちは、その力を封じるため、複雑で多層的な魔導陣を築き上げているわ。

しかも、その精度は現代でも再現が難しい。

だから封印は健在のままよ」


アリスの声には、かつてレティシアとして数百の封印を見てきた者だけが持つ確信があった。


クラリスは思わずアリスに目を向ける。


「……あなたの言い方、前に見ていたみたいね」


アリスは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく笑ってごまかした。


「まぁ、知識として……ね」


今回の調査は、封印の解除ではなく、あくまで魔導陣の構造解析や残留魔力の測定を目的としていた。

研究者としてのクラリスの瞳も、純粋な探究心に揺れている。


「ここには封印の目的と解除条件についての一部記録があるわ」


アリスは祭壇脇に置かれた古文書の断片を指差した。


「解除には“選ばれし者”による神の許可と、特定の魔力が必要とされている。

でも――その条件を満たす者は現代にはいない。

だから安全は保たれるはずよ」


「つまり、ここは封印の保管庫みたいなものね……」


クラリスは息を呑みながら言葉を続ける。


「神秘的だけど、触れてはいけない力が眠っている場所」


「その通り。

私たちは今、その間近に立っているんだ」


エリオットの声は、抑制された感情の奥に畏怖が滲んでいた。


アリスとクラリスは互いに視線を交わし、祭壇を見つめたまま小さく息を吸う。

光は静かに脈打ち、まるで呼吸するかのように広間に満ちていく。

その神聖さと危うさ、そして封印の底に潜む“なにか”の気配が、三人の心にゆっくりと影を落としていった。


エリオットの言葉が広間に溶けた後、三人は祭壇の周囲に慎重な足取りで散開した。

空気はひややかだが、漂う魔力の濃さはまるで肌を押し返すようで、胸の奥にじんわりと圧を感じる。


アリスは腰のポーチから計測器具を取り出した。

掌に収まる円盤状の魔力測定器――銀色の外殻に複雑な術式刻印が走り、縁には淡く青い魔晶が埋め込まれている。

彼女はそれを片手に、もう一方の手で祭壇脇の石面に軽く触れる。

指先が滑るたびに、細やかな粉塵がふわりと舞い上がり、魔力の反応と共に測定器の水晶が柔らかく脈打った。


「……やっぱり、かなり濃いわね。

ここまで純度の高い魔力残滓は、そうそうお目にかかれない」


アリスは低く呟き、測定器を持つ指先を僅かに震わせた。

その震えは寒さではなく、目の前の古代の力への高揚と緊張の入り混じったものだった。


クラリスは、別の位置から細長い感応棒を取り出し、祭壇を囲む魔導陣の縁に沿ってそっと滑らせていく。

棒の先端に埋め込まれた結晶片が、わずかな反応に応じて淡く光を帯び、クラリスの瞳にその数値が反射する。


「魔力の脈動が規則的……まるで心臓の鼓動みたい」


彼女はそう口にすると、計測値を小型の記録板に記し、微かに眉を寄せた。


アリスが近寄り、その記録板を覗き込む。

二人の肩がかすかに触れ、呼吸の音まで互いに聞こえる距離。

アリスはクラリスの持つ感応棒の先端を指先で軽く示しながら、


「この周期、現代の術式じゃ再現できないわ。

古代独自の干渉波……意図的にずらしてる」


と囁くように言った。


クラリスは瞳を細め、頷く。

その指先は、反応を確かめるたびに極めて慎重に棒を滑らせ、決して封印陣の内側に触れない。

淡い光が棒の先で瞬き、祭壇の青白い輝きと溶け合って、まるで水面に映る月光のような幻想的な色を生み出していた。


足元の石床には、計測のための魔力線が薄く描き出されていく。

それはアリスの携えた測定器から投影されるもので、微細な光の粒が空中で揺らぎながら、古代の紋様と現代の術式が重なり合う様を映し出す。


「……こういう調査は、本当に心が躍りますわ」


クラリスはわずかに唇の端を上げ、記録板を抱え直す。

普段は穏やかな笑みを浮かべる彼女だが、未知を前にしたその瞳は、好奇心と探究心の光で鋭く研ぎ澄まされていた。


アリスも同じ光景を見つめていたが、胸の奥に奇妙な引っかかりを覚えていた。

岩壁に刻まれた紋様、薄く燐光を帯びる魔力の走路、その配置――どれも古代の術式の典型だ。

けれど、その奥に潜む“何か”が、普段なら感じない圧のように、皮膚の内側を静かに撫でていく。


――何かが違う。


目に映る術式の構造は確かに古代のものだが、その配列の一部は、前世レティシアとして扱った“あの術式”と微妙に似ている。

似てはいるが、意図的に改変されている……まるで誰かが、レティシアの設計思想を模倣しつつ、別の目的へとすり替えたかのように。


アリスは指先をそっと紋様の縁に近づけ、触れはしないまま微弱な魔力を流して反応を探った。

青白い光が脈打つ。

その脈動は、忘れていた旋律を突然思い出したかのような既視感を伴って、アリスの胸をざわつかせた。


「……クラリス、この紋様、記録を細かく分けて残して。

もしかすると、この部分……普通の封印じゃない」


アリスの声は低く、慎重だった。

震えてはいないが、ほんのわずかに緊張を含んでいる。

研究者としての冷静さと、レティシアとしての警戒が重なり合った声音だった。


クラリスは一瞬、彼女の横顔を見つめ、軽く息を呑んでから頷く。


「了解。

――やはり、あなたも何か感じていたのですね」


クラリスは手元の水晶端末を操作し、魔力計測と立体記録を同時に起動する。

淡い光が祭壇上に網の目のように走り、術式の構造が次々と三次元で記録されていく。


「この“癖”……昔、どこかで似たものを見た覚えがあるのよ」


「うん。

私も……完全には思い出せないけど、これは偶然じゃない気がする」


二人は互いに短く視線を交わし、再び祭壇へと向き直った。


その時、アリスの心の奥底で、別の記憶が揺れた。

意識の底へ沈んでいた古い記憶が、静かな波紋として蘇る。


――あの日の夜、夢と現実の境界で交わされた言葉。


『最後に――一つだけ頼みがある』

『……頼み……?』

『私が生前……いや、前の大戦で“完全に始末しきれなかったもの”が、まだどこかに残っている』

『……それって……?』

『詳細は――その時が来たらアリス自身が知るだろう。

今は言えん』

『……ずるい……』


あの時はただの寓話めいた忠告に聞こえた。

だが今、こうして神殿の深部を前にして胸に広がるのは、曖昧な不安ではなく“確かなざわめき”だった。


レティシアの記憶にも、その“何か”の正体は欠け落ちている。

かつての英雄が封じ、なお語らなかった理由――その真実は記憶の霧の奥、意図的に閉ざされた場所にある。


(……もしかして、ここに――?)


アリスは神殿の扉を見つめ、青白い光を瞳に映したまま立ち尽くす。

胸の奥が、警告のように小さく脈を打つ。


「アリス?」


クラリスが小さく呼びかける。

レティシア時代からの直感で、アリスの異変にすぐ気づいた表情だった。


はっと我に返ったアリスは微笑みを作った。

その笑みは静かだが、どこか張り詰めている。


「……ううん、大丈夫。

行こうか」


「うん。

そろそろ、戻らなきゃね。

……でも、帰ったらもう一度ここに来ましょう。

きっと何かある」


クラリスの声には、以前のセリーネとしての研ぎ澄まされた勘が潜んでいた。


その言葉にアリスは一瞬だけ目を細め、頷く。


「……うん。

一緒に確かめよう」


二人は回廊を引き返し、遺構の静けさを背にして出口へと向かう。

高くそびえる岩柱の間から差し込む外光は歩を進めるたびに強さを増し、石壁の冷気は徐々に和らいでいく。


アリスは何度も振り返りそうになる自分の心を押しとどめながら歩いた。

神殿の奥で眠る“何か”が、まだ二人を見つめ返しているような気配があった。


やがて、外の空気が肌に触れた瞬間、胸の奥にくすぶる予感だけが鮮明に残った。


出口ではエリオットが待ち受けていた。


「お疲れさまでした、アリスさん、クラリスさん。

ご無事で何よりです」


帽子を取り、丁寧に一礼するその姿に、二人も自然と笑みを返した。


「案内してくれてありがとう。

あなたがいなかったら、途中で迷ってたかも」


クラリスの冗談に、エリオットは肩をすくめる。


「これでも一応、ラグナ・グロース遺構管理局の正式なガイドですから。

……迷われると、私の査定に響きますので」


少し照れた声音に、アリスもふっと笑った。


「じゃあ、査定のためにも戻り道までしっかり頼まないと」


エリオットは姿勢を正し、半歩引いて道を示した。


「お任せください。

ここからは安全なルートです」


別れの言葉を交わし、二人は階段を上り地上へと戻る。


その瞬間――澄み渡る空と涼やかな風が頬を撫で、地下の閉ざされた空間から解き放たれた感覚が全身を包んだ。


だがアリスの胸の奥には、神殿に残された“何か”の存在が、静かに、しかし確かに燃え続けていた。

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