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第四部 第一章 第2話

 旅のはじまりを告げる振動が、心地よく車体を伝ってくる。

 座席に伝わるのは、馬車特有の不規則な揺れではなく、淡く波打つような規則正しい振動で、それが逆に安心感をもたらしていた。


「……全然揺れないね、これ」


 クラリスが目を見開いて、驚いたように呟いた。

 シートに触れる手をそっと押し返すように上下に動かして、どれほど安定しているのか確かめる仕草を見せる。


「うん、空間拡張だけじゃなくて、車体そのものに魔導安定陣が刻まれてるから。

 長距離でも疲れないようになってるんだよ」


 アリスが解説するように微笑んだ。

 彼女の声は窓の外の静かな景色と調和するように、落ち着いて柔らかい。

 アリスは窓にもたれ、流れていく風景を静かに見つめる。

 街並みが途切れ、雪解け水の小川がきらめき、やがて広い丘陵地帯が姿を見せた。

 遠くには白く霞む山脈が連なり、その背後へ沈んでいく冬の日差しが淡い金色を落としている。

 魔導馬車の中に満ちる柔らかい光は、まるで旅全体を温かく包み込んでいるようだった。


 クラリスは荷物棚に頭を預けながら、ひと息ついた。


「……こうしてのんびり旅するのって、久しぶりかも」


 その声は肩の力が抜けていて、研究室では見せない緩やかな響きを含んでいる。

 アリスは横目でクラリスを見て、小さく笑んだ。


「研究室にいると、時間の流れが違うもんね」


「本当に。

 気がついたら日が落ちてて、誰かに呼ばれるまで気づかないくらいよ」


 クラリスは頬をゆるめ、小さく肩をすくめた。

 少し眠たげに目を細め、馬車の柔らかな揺れに体を預け直す。


「でも、こうして旅に出るのは好き。

 街を離れると、頭の中がすっきりしていく感じがするのよね」


「わかる。

 私は……なんだろう。

 外を歩くと、少し落ち着く」


 アリスは窓に映る自分の蒼い瞳を見つめ、そっと呟いた。

 白銀の力の記憶や、レティシアとしての重さ――

 それらを少しだけ置いていけるような静かな時間が、今は心地よかった。


 クラリスはそんなアリスをちらりと見て、微笑を深める。


「……そういう時間、ちゃんと持つの大事よ。

 あなた、いつも背負い込みすぎなんだから」


 その言葉には、かつて共に戦った“セリーネ”としての静かな思いやりが、無意識に滲んでいた。

 アリスもそれに気づいたように目を伏せ、微笑んだ。


「……ありがと」


 やがて馬車は大通りへ合流し、街道沿いに広がる林の中へ進んでいく。

 窓から差し込む冬の陽光は柔らかく、馬車の内部に暖かい影を落とした。

 木々の間から差す光が車内に揺らぎを作り、旅の始まりにふさわしい静かなリズムが続いていく。


「そういえば、エストバルドってどんな場所なの?」


 クラリスが尋ねると、アリスは少し考えるように視線を遠くへ向けた。


「谷と湖と山脈に囲まれた、静かな土地だよ。

 外との行き来は限られた街道しかなくて、そのひとつが“山脈を貫く大空洞”を通るルートなの。

 これがまた、魔導馬車でも一日かかってやっと抜けられるくらいの長さなのよ」


「そんなに……!

 じゃあ普通の馬車だったら数日かかるわけね」


 クラリスが驚きの声を上げる。


「でも、冬は雪が積もって綺麗だし、夏は湖畔の風がすごく気持ちいい」


「へぇ……なんか、いいところみたい」


「うん。領主家――つまりエクスバルド伯爵家が代々守ってきた場所で、レティアはその次女なの」


「なるほど、そういう関係だったんだ」


 クラリスが納得したように頷いた。

 そして、その直後ふと目を細める。

 胸の奥に沈んでいた記憶が、静かに呼び起こされたように。


「……思い出したわ。

 エクスバルド伯爵家の始祖――セリオナ・エクスバルド。

 あの子は……三百年前、私達と一緒に戦った“ナンバース”の一人だったわよね」


 アリスは静かに息をのんだ。


「……覚えてるんだね」


 クラリスは遠くを見るように、懐かしさをにじませて微笑む。


「忘れるわけないじゃない。

 真面目で、頑固で……でも、誰より仲間思いだった。

 戦場でよく言ってたの。“自分は盾でいい”って」


 アリスの胸にも、古い温もりが灯る。


「……《ワルキューレ》を託したのも、あの子だったね」


「ええ。

 あの子が戦後に家名を継いで……

 後に“魔導戦の五家”の一つになるなんて、あの頃は思ってもみなかったけど」


 クラリスはそっと微笑みを深めた。


「……誇らしいわね、あの子らしい」


 アリスも穏やかに微笑み返した。


「レティアには……いつか話そうかな」


「ええ。それでいいと思うわ。

 きっと誇りに思ってくれる」


 ふわりと静かな温度の会話が馬車内に広がり、二人の時間はより深い静けさを帯びていった。


「だから……今回の帰郷は、レティアの付き添いとしてだけじゃなくて、家の人たちへの正式な挨拶も兼ねてるの。

 最後に二人で一緒に行くって決めたのは、そのためでもあるんだ」


 アリスの声には、どこか凛とした覚悟のようなものが滲んでいた。


「そっか。それって、ちょっと特別な意味があるんだね」


「うん。ちょっとだけね」


 二人は微笑み合い、しばし静かに流れる風景を見つめた。


 やがてクラリスが顔を上げ、目を輝かせる。


「ねえ、今回途中で寄る《ラグナ・グロース》って知ってる?

 洞窟都市って呼ばれてる場所で、もともとは地下鉱脈の採掘地だったらしいんだけど、今では幻想的な遺跡群と岩の中に築かれた街並みが有名なの。

 魔導遺構もいくつか残ってて、観光にも研究にも人気があるのよ」


「うん、名前だけは。

 さっき説明した大空洞の中間地点にあるのが、その《ラグナ・グロース》。

 私は都市の名前だけ知ってて、立ち寄ったことは一度もないの」


 アリスは少し苦笑しながら肩をすくめた。


「いつもは、レティアの魔導車で一気に往復しちゃうから……

 地元民なのに、実は行ったことなかったんだよね」


「ふふ、そういうものよね。

 かえって近いと通り過ぎちゃう」


「だからこそ、今回は観光がてらって感じで楽しみたいな。

 歴史のある街並みに幻想的な洞窟、遺跡もあって……

 絶対いいところだと思う」


 クラリスが期待に目を輝かせて言うと、アリスも頷いた。


「うん。クラリスと一緒に、ゆっくり旅するのって、なんだか新鮮だし」


「私も。ちょっとした冒険みたいで、ワクワクしてる」


 午後の陽光に照らされた魔導馬車の窓から、ゆるやかに広がる平原の風景が流れていく。

 心地よい揺れのない走行とともに、二人の小さな旅は静かに、確かに進んでいった。


 魔導馬車はやがて、緩やかな上り坂を越えた先で巨大な石門の前に差し掛かった。

 門の奥には、黒々とした岩肌が口を開けるように続いており、その先は昼間であるにもかかわらず淡く青い光に包まれている。


「……ここからが“大空洞”だよ」


 アリスが小声で告げると、馬車はゆっくりと門をくぐり、岩壁に囲まれた長大なトンネルの中へと進み込んだ。

 外の陽光はあっという間に遠ざかり、代わりに岩壁のあちこちに埋め込まれた発光鉱石と魔導灯が、柔らかな光を放って空間を照らしていた。

 光は岩肌の水晶片や鉱脈に反射し、ところどころ虹色の筋を走らせる。

 天井は驚くほど高く、馬車の車輪が石畳を滑らかに進む音が、静かな反響を生んでいる。


 クラリスは窓際に身を寄せ、目を丸くした。


「……想像してたより、ずっと広い……まるで地下に街があるみたい」


「実際、ところどころに休憩所や集落があって、交易路としても使われてるんだ。

 外は天候に左右されるけど、ここは一年中こうして安定してる」


 アリスの説明に、クラリスは感嘆の息を漏らした。


「岩肌の模様、すごくきれい……

 鉱脈がそのまま見えるなんて、天然の美術館みたいね」


「場所によっては、採掘した鉱脈跡をそのまま魔導壁で補強してるんだ。

 あの光ってる鉱石は《ルミナイト》っていって、照明用にも魔力供給にも使える便利な鉱石」


「へぇ……そういう説明聞きながら見られるの、ちょっと得した気分」


 クラリスは微笑みながら、ゆっくりと流れていく景色を目に焼き付けていた。


 やがて馬車は巨大な洞窟空間へと差し掛かる。

 天井からは鍾乳石が垂れ下がり、下からは透明な水面が鏡のように光を反射している。

 岩肌に散らばる発光鉱石が水面にも映り込み、幻想的な揺らめきを描いていた。


「……ここを通るときは、いつも少しだけ時間がゆっくり流れてる気がするんだ」


 アリスの声には、懐かしさと安らぎが滲んでいた。


「わかる……ずっと見ていたくなる景色」


 石壁に柔らかく反響する二人の声が、静かな大空洞を進んでいく。


 ふいに、クラリスが小さく首を傾げた。


「でも……大空洞って、私たちが生きていた頃――三百年前には存在しなかったよね?」


 その問いには、〈クラリス=セリーネ〉としての確かな記憶の響きがあった。

 アリスは一瞬だけ息を止め、窓の向こうの青い光に視線を移す。


「……うん。これは“後の時代に作られたもの”だよ」


「やっぱり……どうして造られたの?」


 アリスの瞳に、ほんの一瞬だけ、レティシアとしての深い記憶の影が揺れた。


「セリーネ――あなたが“没した後”にね。

 魔国との大規模戦闘が続いて……

 ファーレン平原にあった魔国側の城塞域をたたくために、三年かけて掘削と術式構築が行われて、この“大空洞”が造られたの。

 あれは人族連合軍を巻き込んだ総力戦だった」


 クラリスは瞳を見開き、深く息を吸った。


「三年……そんな大工事を……」


「うん。戦いは後に“ファーレンナイト奪還戦”って呼ばれるようになったよ」


 静かな車内に、遠い歴史の重みが落ちる。

 クラリスは窓の外を見つめたまま、かすかに微笑んだ。


「……私たちが命を懸けて守った時代の人たちが……

 その先をこうして築いたんだね」


 アリスはそっと頷いた。


「ええ。あなたが守った人たちが、その後の未来を作り続けた。

 セリーネの願いも、あの戦いも――ちゃんと残ってるよ」


 クラリスの胸の奥に、ふっと温かなものが灯る。


「……そっか。なんだか、少し救われた気がする」


 馬車の窓を流れる光が、クラリスの頬に淡く反射した。

 その瞳には、かつて“セリーネ”として戦場に立っていた頃と同じ、静かで強い光が宿っていた。


 洞窟の幻想的な景色を抜け、馬車は緩やかな右カーブを曲がる。

 前方の闇の奥に、淡い光の粒がちらちらと揺らめき始めた。

 それは最初、発光鉱石の反射かと思われたが、近づくにつれて無数の灯りであることがわかる。


「……あれが、中継の休憩集落ね」


 アリスが静かに告げると、クラリスは窓に身を寄せた。


 やがて視界いっぱいに広がったのは、岩壁の広い窪地に作られた小さな集落だった。

 石と木材を組み合わせた平屋や二階建ての建物が寄り添うように並び、中央の広場には井戸と数脚の木製ベンチが置かれている。

 通路沿いには簡易宿や食事処が点在し、旅人や鉱夫たちが腰を下ろして湯気の立つ飲み物を手にしていた。

 広場の片隅では、荷車を引いた商人が保存食や簡易修理用の道具を売り、子供たちがその周りを走り回っている。

 どこか素朴で、通り過ぎるだけではもったいない温かみがあった。


 アリスは窓越しに広場を眺めながら、ぽつりと呟いた。


「この集落、昔から“旅人の灯”って呼ばれてるんだ。

 大空洞の真ん中で、唯一こうして人の暮らしの匂いがするから」


 クラリスは静かに目を瞬かせる。


「……いい呼び名ね。

 確かに、灯りが星みたいに見えたわ。

 あんな深い洞窟の中なのに、ちゃんと生活があるんだね」


「うん。

 洞窟で採れる鉱石を売ったり、通貨を扱う商隊を迎えたり……

 ここはずっと、人の行き交う拠点になってる。

 外の世界と洞窟都市ラグナ・グロースを結ぶ、小さな橋みたいな場所」


 馬車が広場脇を通ると、焚き火の香りがほのかに漂い、岩壁に反射した暖色の光が窓をかすめていった。

 子供たちのはしゃぐ声や、旅人が談笑する柔らかなざわめきも聞こえてくる。


 クラリスは思わず微笑んだ。


「……思ったよりも人が多いのね。

 洞窟の中って、もっと静かで荒涼としてるのかと思ってた」


「大空洞を抜けるには一日がかりだから、こういう休憩ポイントは欠かせないんだよ。

 ここから先に進めば、《ラグナ・グロース》までは半日ほどかな」


「なるほど……。

 旅の途中でこんな景色に出会えるなんて、予想外で嬉しいわ」


 アリスは肩越しにクラリスを見て、ふっと優しい笑みを浮かべた。


「クラリスが喜んでくれるなら、寄った甲斐があるよ。

 昔はレティアの魔導車で最短ルートしか通らなかったから……

 こんな風にじっくり見たこと、実はなかったんだ」


 クラリスは少し驚いたように目を丸くした。


「え、アリスでも?

 ……なんだか意外。

 あなたって、どこでも誰より先に全部見てるようなイメージがあったから」


「そう見えるだけだよ。

 こうして静かに景色を眺める時間なんて、思ったより少ないもの」


 クラリスは小さく笑い、馬車の窓に映る灯りの帯を見つめた。


「……こういう雰囲気、嫌いじゃないわ」


「うん。

 旅の途中の、この一瞬だけの景色って、なんだか特別だよね」


 馬車は再び揺らぎの少ない滑らかな走行音を響かせながら、ゆっくりと集落を抜けていく。

 灯りの帯は徐々に後方へ遠ざかり、温かなざわめきも岩壁に吸い込まれるように小さくなっていった。

 そして次第に、再び暗く静かな大空洞の通路へと戻っていく。

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