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第三部 第二章 第14話

 試験結果が掲示されてしばらくした午後のこと。

 アリスとレティアは、学院長秘書官からの呼び出しを受け、学院本棟の最上階──普段は滅多に足を踏み入れない階層へと向かっていた。


 最上階の廊下は、人影も少なく、厚い絨毯が足音を吸い込み、外の喧騒とは切り離された静けさが支配している。

 磨き上げられた木壁には古い油彩画が等間隔で飾られ、淡い魔光灯が穏やかに灯っていた。


 二人は重厚な両開きの扉の前に立ち、互いに短く視線を交わす。


「失礼いたします。グレイスラー、エクスバルド、両名参りました」


 アリスが告げる声は落ち着いていたが、その胸の奥ではわずかな緊張が脈打っていた。


「どうぞ、お入りなさい」


 内側から響いた学院長の低く静かな声に、二人は息を合わせて扉を押し開けた。


 学院長室の中は、外の廊下以上に静寂に包まれていた。

 高い天井からは柔らかな魔光が降り注ぎ、壁一面を埋める書架にはびっしりと古文書や魔術書が並ぶ。

 窓際には魔導制御盤が整然と並び、奥の執務机の向こうに、初老の男性──学院長ガルナス・ラグレーが座していた。


 深い皺の刻まれた顔に穏やかな微笑を浮かべ、彼は二人を迎える。


「来てくれてありがとう。急な呼び出しで済まなかったね」


 軽く頭を下げたあと、ガルナスは手元の書類を一枚取り上げ、視線を二人へと向けた。

 その視線は温かさと同時に、選抜者を見る厳しい眼差しでもあった。


「さて、本題に入ろう。君たちに関わる件だ。《戦術連携特別枠》への推薦についてだよ」


「戦術連携……?」


 アリスが小さくつぶやく。声には微かな戸惑いが滲む。


 学院長はうなずき、言葉を続けた。


「《戦術連携特別枠》は、学院が外部機関──たとえば王国騎士団や魔術師団に対して“この生徒は特に優秀なので、ぜひ演習や実戦研修に参加させてほしい”と正式に推薦する制度だ。今年度、その候補として、君たち二人の名前が挙がっている」


 アリスとレティアは思わず目を合わせた。


 形式上は淡々と受け止めようとしても、その言葉が意味するところは十分に理解している。

 学院全体の信頼と期待が、自分たち二人の肩に乗せられたのだ。


「今回の推薦は、《戦術魔導演習》を担当している教官──ドラン=バルシェからの強い推挙によるものだ。彼は、君たちが“個人の戦闘能力だけでなく、連携戦術においても群を抜いている”と評価していた」


 ガルナスは手元の書類を指先で軽く叩きながら、確かな口調で告げた。


「学院側もその意見を受け入れ、先日正式に外部機関へ推薦を提出した。そして──本日、外部からの受け入れ承認が届いた。つまり、君たちは《戦術連携特別枠》の学院選抜として正式に認められたということだ」


 わずかな沈黙が落ちる。


 それを破るように、ガルナスはさらに告げた。


「また別件ではあるが、騎士団と魔術師団との合同演習に、アリス・グレイスラー君は王国騎士団から。レティア・エクスバルド君は魔術師団から、それぞれ名指しの推薦要請も来ている」


 学院長は、ここで一呼吸おいてから続けた。


「……ちなみに、外部機関からの推薦要請というのは珍しいが、“名指し”での要請はほとんど前例がない。通常は、学院側が推薦した候補の中から、相手方が選抜するのが通例だ。

 今回は、先方が最初から君たち二人を指名してきた。これは、それだけ君たちの能力や実績が外部にも伝わっているということだ」


「……!」


 アリスがわずかに目を見開く。胸の奥に、驚きとわずかな緊張が同時に広がった。


(名指し……普通は、そんな形で呼ばれることなんてないのに)


 彼女の脳裏には、これまでの学院生活が断片的に浮かび上がっていた。


 ――外部の目にも届いていたのだと、今さらながらに実感する。


 レティアもまた、心の奥で静かにざわめきが広がっていた。


(名指しなんて……お父様の代でもなかったはず)


 伯爵家の令嬢として培った立ち居振る舞いが外面の落ち着きを保たせているが、その瞳の奥にはわずかな昂ぶりが宿っている。


 学院での上位成績だけではなく、これまでの演習や模擬戦で築いた信頼と評価――その積み重ねが、今この瞬間、形となって返ってきた。


 互いに視線を交わす。

 言葉にしなくても、相手の胸中にある高揚と責任感が伝わってくる。


 この推薦は、単なる偶然や幸運ではない。

 積み重ねた努力と結果が、外の世界からも認められた証だった。


「参加は任意だが、次期演習は予定では来年二月十日からの十日間。かなり先の話ではあるが、準備や手続きが必要になるため、近日中に参加可否を正式に届けてほしい」


「承知しました」


「検討のうえ、早急に返答いたします」


 二人は深く一礼し、学院長室をあとにした。


 重い扉が静かに閉まり、廊下の空気が二人を包み込む。

 厚い絨毯に沈む足音だけが、やけに鮮明に耳に残った。


 しばらく言葉もなく歩く。最上階の廊下は人の気配がなく、窓の外から差し込む光が長く伸びた影を二人の足元に落としている。


 アリスは歩きながら、先ほど聞かされた言葉を何度も頭の中で反芻していた。


 ――名指しの推薦。

 その響きは、誇らしさと同時に、心の奥に重みを残していた。


(外から直接……あんな形で呼ばれるなんて、本当に……)


 誇りが胸を温める一方で、その裏には「失敗できない」という静かな圧力が滲む。


 レティアもまた、視線を前に向けたまま、胸の内で思考を巡らせていた。


(学院の成績や家柄だけじゃない……あれは、今までの私たちの戦いを全部見ていた人がいるということ)


 その事実が、不思議な安堵と緊張を同時に呼び起こしていた。

 伯爵家の令嬢として受けた数々の訓練と、学院で築いた実績。

 それらが無駄ではなかった証だと思うと、背筋が自然と伸びる。


 二人はやがて階段を下り、本棟の中庭に出た。


 そこは、夕暮れの色が少しずつ夜の気配へと変わっていく静かな時間帯だった。

 西の空は茜から橙へ、そして淡い紫へとゆるやかに溶け合い、学院の尖塔の影が長く石畳を横切っている。


 中庭の噴水は水音を絶え間なく奏で、その音がかえって周囲の静けさを際立たせていた。


 アリスは噴水の縁に腰掛け、深く息を吐く。


「……なんか、まだ現実じゃないみたい」


 夕光が彼女の金髪を柔らかく染め、その横顔を赤く縁取る。


 レティアは隣に立ち、腕を軽く組んだまま空を見上げる。


「現実よ。だって、私たち……本当にここまで来たじゃない」


 その声は静かだが、芯のある響きを持っていた。


 アリスは小さく笑い、膝の上で指を組む。


(この推薦は偶然じゃない。これまで全部の戦い、全部の判断……あれが積み重なって、この瞬間に繋がったんだ)


 胸の奥に、じわりと熱が広がる。

 期待も、不安も、全部ひとつに混ざり合って。


 しばらくの沈黙のあと、レティアが言った。


「……私、やっぱり出るわ。これは逃したくない」


 アリスは視線を上げ、その瞳に映る茜空を見つめた。


「うん、私も。外の舞台、見てみたい」


 そう答える声は、さっきよりもずっと確かだった。


 中庭を包む夕暮れの色は、やがて夜の蒼へと変わりはじめていた。


 二人の心にも、これから訪れる十日間の濃密な時間の予感が、静かに形を成していく――。


 


 数日後の夕暮れどき。


 西の空を覆い始めた朱と紫の混じる雲が、講義棟の大窓から斜めに差し込む。

 磨かれた床には、長い窓枠の影がゆるやかに延び、淡い橙色が廊下の壁面をなぞっていた。


 アリスは、生徒会棟の前で一瞬立ち止まり、小さく息を吐く。

 胸元のリボンが風にそっと揺れ、その目には微かな不満が滲んでいる。


 ──まったく、仕事が長引くからって、わたしが迎えに行くなんて。


 小さなため息と共にドアを見上げ、意を決して指先で二度、規則正しいノックを響かせる。


「失礼します」


 重厚な扉を押し開けた瞬間、外気と室内の空気が入れ替わり、微かな紙の匂いとインクの香りが鼻先をかすめる。


 生徒会室は静かな熱気に包まれていた。

 広い机が几帳面に並び、その上には分厚い書類の束、未整理の図面、赤い印をつけた予算案が整然と積まれている。

 ペンの走る音や紙をめくるささやかな音が、空間の奥深くで幾重にも重なっていた。


 その中央、指揮を執るかのように立つのは、銀縁眼鏡と整えられた黒髪の青年――五年S組首席、リヒト=クロイツベルク。

 隙のない立ち居振る舞いと、わずかな間も許さぬ目線の動きが、場の緊張を心地よく保っている。


「その予算案、今月中に予備支出扱いに変更して。資料は三課の確認を取ってから提出──」


 途切れなく飛ぶ指示の合間、彼の視線がふと扉の方を向き、アリスの姿を捉える。


「……グレイスラー嬢。珍しいですね、生徒会に用事とは」


「レティアを迎えに来ただけ。今日は約束があるの」


 アリスの短い返事に、リヒトは一度だけ小さく頷き、作業へ戻る。


「なるほど。彼女は奥の端末で確認作業中ですよ。少しだけお待ちを」


 その言葉にかぶせるように、室内の奥から澄んだ声が届く。


「もうすぐ終わるわ、アリス。悪いけど、もうちょっとだけ待ってて」


 顔を上げたレティアが、端末の画面に視線を固定したまま片手を軽く振る。

 その動きに漂う余裕は、長時間の作業で固まった空気をやんわりとほぐすようだった。


 アリスは思わず苦笑を浮かべかけたが、その刹那、音もなく扉が開いた。


「遅れてすまない。会議が長引いて──おや、グレイスラーさん?」


 低く澄んだ声と共に現れたのは、生徒会長・ユリウス=ノイエラント。

 白金の短髪は夕陽を受けて柔らかく輝き、深い藍色の瞳が室内の色温度を一段引き締める。

 長身の影が廊下から差し込み、磨かれた床にすっと伸びた。


 六年次にして学院生徒会の長を務める彼は、理知と温和を併せ持つ佇まいで、在校生はもちろん、教員の間でも一目置かれる存在だ。


「会長、こんばんは。レティアの迎えに来ただけです。すぐ帰りますから」


 アリスが控えめに会釈すると、ユリウスは肩の力を抜いた笑みで返す。


「構いません。むしろ、ちょうどよかった。君にも伝えておきたい話があった」


 革の鞄から一枚の書類を取り出しながら、ユリウスは穏やかに続ける。


「先日の模擬戦──私も記録映像を拝見しました。見事な連携でしたね。特に君とエクスバルド嬢の展開判断と攻勢の切り替えは、生徒会でも高く評価されています」


「ありがとうございます。でも、まだ調整が甘いところも多いです。実戦を想定するなら、もう少し詰める必要があると思ってます」


「それを自覚しているのなら申し分ない」


 満足げに目を細めたユリウスは、手元の資料をアリスに差し出した。


「近く、生徒会戦術部局と《戦術連携特別枠》の選抜生徒による合同演習を予定しています。君とレティア嬢には、その中核メンバーとしての参加を前向きに検討してもらいたい」


「……わたしたちに?」


「ええ。今回の合同演習は少し特殊でね――学院卒業生のうち、卒業から三年以内のOB・OGが参加する編成だ。現役生との混成部隊で、戦術・指揮・現場対応を同時に磨くのが狙いだよ。

 参加するOBは、現在騎士団や魔術師団、あるいは王国各機関で実務に就いている者ばかりだ。彼らは既に現場の空気を知っているから、実戦的な訓練になるだろう」


 アリスは目を細め、手にした資料を丁寧にめくる。


「それって……先日、学院長から話があった王国主催の合同演習と同じ話ですか?」


 ユリウスは静かに首を横に振った。


「いいえ。それとは別件です。学院長の言っていたのは、王国騎士団と魔術師団が共同で行う対外演習のことかと。こちらは学院内での戦術部局演習であり、OBとの混成という形をとる。現役生徒と卒業生、双方の強みを引き出す実験的な取り組みでもある」


「別、なんですね。似たような話に聞こえたので、てっきり同じかと……」


「無理もありません。どちらも君たちへの評価を受けての打診です。焦る必要はありません。どちらか片方を選ぶ形でも構いませんし、両方への参加も選択肢に含まれます」


 アリスは短く息を整え、軽く頷いた。


「……わかりました。レティアとも話して、改めて返事します」


「それで十分です。私たちも、君たちの判断を尊重しますから」


 その言葉の余韻が室内に漂うなか、奥で端末作業を終えたレティアが、軽やかに立ち上がった。


「アリス、お待たせ。行きましょ」


「あ、はい。会長、話の途中ですみません。また、必要なら」


「ええ。また近いうちに、続きを話しましょう」


 互いに軽く一礼し、アリスとレティアは並んで生徒会室を後にした。

 扉が静かに閉まると、ユリウスは手元の資料を整え、室内の空気も再び規律正しい作業の熱気へと戻っていく。


 廊下に出たふたりは、夕陽を背にして歩き出す。

 長く伸びた影が寄り添い、足音が一定のリズムで石床に響く。


「……思ったより、真面目な話だったわね」


 レティアが小さく吐息をもらす。

 その横顔は先ほどよりも柔らかく、張り詰めた緊張がほどけている。


「まさか会長に呼び止められるとは思ってなかったけど……なんだか、期待されてるみたいだったね」


 アリスは小さく肩をすくめて笑い返す。


「でも、学院長の件と別ってことは、二つ返事で決めない方がいいかも。連携演習は負担も多いし」


「うん。どっちにせよ、ちゃんと話し合ってからにしましょう。……あなたとなら、どっちを選んでも後悔はしないと思うけど」


「レティア……ふふ、ありがとう。わたしも同じ気持ち」


 視線がふと重なり、二人は短く微笑み合う。


 その背に沈みかけた陽光がやわらかく降り注ぎ、薄く朱色に染まった廊下を、静かに包み込んでいった。

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