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第三部 第二章 第13話

 早朝の学院は、いつになく静けさをまとっていた。

 東の空に淡い朱色が差し、魔導塔の尖端は霧をまとってかすかに滲んでいる。芝生には夜露が鈍い光を帯びて残り、踏みしめれば靴底からひんやりとした感触が伝わってくる。石造りの寮の玄関前には、緊張した面持ちで待ち合わせをする生徒たちの姿がちらほらとあり、誰もが口数少なく、声は自然と小さく抑えられていた。


 魔導塔の鐘が八つを告げると、登校路に一層のざわめきが広がった。制服の襟元を整える仕草が何度も繰り返され、書き込みの多いノートを片手に最後の暗記を呟く声がすれ違うたび耳に入る。魔力触媒の瓶を握りしめ、深呼吸してから歩き出す生徒もいる。どの表情にも、これから訪れる数時間への覚悟と不安が混ざっていた。


 「緊張してる?」

 通りの石畳を並んで歩きながら、アリスが横目でレティアを見て軽く笑った。


 レティアはペンケースをぎゅっと握ったまま、小さく首を横に振る。

 「ううん、むしろ早く解いて楽になりたい……かも」


 「わかる。待ってる時間が一番、胃にくるよね」


 二人の声は控えめだったが、その間に漂う空気は、緊張を解きほぐす柔らかさを持っていた。


 校舎に入ると、廊下にはすでに同級生たちが並び、各自の座席番号や試験教室を再確認している。教室の扉は半ば開かれ、その奥では監督役の教員たちが静かに立ち、生徒の一挙一動を観察していた。


 扉をくぐると、かすかに紙とインク、そして古い木の机の香りが鼻をかすめる。硬い椅子の脚が床を擦る音、ペン先を試す微かな音が、試験前特有の沈黙をより重くした。


 やがて、砂時計がひっくり返され、開始の合図が響く。

 学院全体が、一瞬にして“試される沈黙”に包まれた。


──試験中。


 シャッ、シャッ……と紙にペン先が走る音だけが支配する空間。

 窓から差し込む光は均一に机の上を照らし、影を作らないよう計算された照明と混ざり合って、生徒たちの集中を後押ししていた。


 試験用紙には、複雑に組まれた魔導式や精密な構造図、そして応用理論の記述課題が並んでいる。見慣れたようでいて、条件を少し変えた設問が混ざり、表面的な暗記では突破できない内容だ。


 ──大丈夫、演習で何度もやった。

 ──この形式、クラリスが言ってた通り。


 アリスは迷いなく筆を走らせ、計算欄の端に小さな補助式を書き込んでは、すぐに本解答へ移る。レティアは問題文を一度で正確に読み取り、式の分解と再構築を丁寧に進める。視線は終始ぶれず、指先の動きにも焦りはなかった。


 ページをめくる音が一斉に響き、また沈黙に戻る。時間だけが一定の速度で流れていくが、二人の集中は途切れることなく続いていた。


 「――はい、そこまで! 筆記用具を置いてください!」

 その声は張り詰めた空気を断ち切り、室内の緊張が一気に緩む合図となった。


 あちこちで椅子の背に体を預ける音が重なり、深く息を吐く音が続く。


 「……終わったぁ」

 レティアは机に突っ伏すようにして、ぐったりと腕を伸ばした。頬が少し紅潮し、息はまだ浅い。


 アリスは小さく笑みを浮かべ、固まっていた肩を軽く回す。

 「お疲れさま。どうだった?」


 「うーん、思ったより計算パートが多かった……けど、解けたはず」


 試験用紙が監督の手で一枚ずつ回収され、講師たちが退出していく。教室内のざわめきはまだ控えめだが、張り詰めた緊張は完全に解け、ほのかな達成感が漂っていた。


 アリスとレティアは自然に視線を合わせ、静かに拳を合わせる。

 「やり切ったね」


 その音は小さいが、確かな手応えがそこにあった。


 午後になると、学院の中庭に面したカフェテラスは、試験を終えた生徒たちの声で賑わっていた。

 淡い緑のパラソルが木漏れ日を遮り、テーブルの上に落ちる光と影が揺れる。焼き菓子の甘い香りと冷たい飲み物の涼やかな香気が、風に乗って運ばれてくる。


 アリスとレティアは、グラスの表面に滴る水滴を指でなぞりながら、ゆったりと腰を下ろしていた。


 「これ、甘っ……でも生き返る〜!」

 レティアはストロベリージュースを豪快に飲み干し、背もたれに深く沈み込む。氷がカランと小さく音を立て、彼女の満足げな吐息が重なった。


 「明日も補講ないって、ほんと天国」


 アリスも頬杖をつき、口元を緩める。


 そのとき、小道の向こうから小走りで駆けてくる人影があった。

 「おふたりとも、お待たせしましたわ!」


 四年次の試験を終えたばかりのフィオナが、息を弾ませながら笑顔で現れた。


 「お疲れさま、フィオナ。間に合ってよかった」


 「ふふ……ずっと走ってきましたから、今なら三倍速でジュースが飲めますの」


 アリスが新しいグラスを手渡すと、フィオナは受け取って涼しげな縁に口を付け、一息に飲んだ。


 「わたくしも、これでようやく試験終了ですわ」


 「クラリスさんに、結果報告しなきゃね」


 アリスがスマートデバイスをちらりと見やり、ふと呟く。


 「きっと笑ってくれるわ。みんなが頑張ったからって」


 「じゃあそのとき、“フィオナ様、今回は全問正解でした”って言ってもらえるよう祈っとこう」


 レティアが茶化すと、フィオナは頬をぷくっと膨らませて反論する。


 「まぁ、そこはレティアさんに譲りますわ。きっと、正答率で負けてますもの」


 「それぞれの勝利よ」


 アリスが柔らかく笑みを添えると、三人は透明な音を響かせるようにグラスを合わせた。


 陽が傾き始め、カフェテラスの影が長く伸びる。金色だった光は琥珀色に変わり、風は昼の名残をわずかに残しつつも、夜の涼しさを運び始めていた。


 三人は談笑の余韻を抱えながら学院の門をくぐる。


 「また来週から通常講義……でも、今は少し休もう」


アリスの言葉に、レティアは背を反らせて大きく伸びをする。

「うん。明日は寝坊しても文句言わないでね」


「わたくし、今夜は久しぶりに音楽を聴いて眠りますわ。お気に入りの演奏魔導盤、持ってきてますの」


門前でそれぞれの寮や滞在館への道へと別れ、手を振り合う。


「おやすみ、アリス」

「また明日、レティア」

「フィオナ、風邪引かないようにね」

「はい。お二人もお気をつけて」



 試験という大きな山を越えた少女たちの背中には、確かに新たな自信が差していた。

 それぞれの帰路を歩きながら、学院の夜は静かに、その一日を締めくくっていった。


 週明けの朝、学院の空気には、どこかそわそわとした緊張が混じっていた。


 雲ひとつない澄んだ空の下、石畳の通路を行き交う生徒たちは、いつもより歩調が速い。手に持つノートや端末を何度も開いては、既に終わったはずの試験問題を思い返している者も多い。耳を澄ませば、「今回はきっとあの設問が…」「いや、あの条件の方が…」といった小声の会話があちこちで交わされていた。


 講義開始の鐘が鳴るよりも早く、講義棟前の掲示広場には多くの生徒が集まっていた。


 石造りの広場の中央には、高さ二メートルほどの掲示板が立ち、その前をぐるりと取り囲むように人垣ができている。まだ冷たい朝の空気の中、その場には熱のこもったざわめきが満ちていた。


 「貼り出されてる……!」


 人混みの中、誰かの弾んだ声が響いた瞬間、人波が一斉に前へと押し寄せる。革靴が石畳をこする音、衣擦れの音、息を呑む気配が連鎖のように広がる。


 その中央に、大きく掲げられていたのは──


【前期中間考課試験・総合成績上位者一覧】

▶【探索者育成部5年次・総合順位】

1位:リヒト=クロイツベルク(5年S組)

2位:アリス・グレイスラー(5年A組)

3位:レティア・エクスバルド(5年A組)

4位:ルシアン・エルバード(5年S組)

5位:ミリア・セフェリオン(5年B組)


▶【内政経済部4年次・総合順位】

1位:セリア・マルティネス(4年C組)

2位:カイン・フェルスター(4年B組)

3位:リアナ・ヴォルク(4年A組)

4位:ベルンハルト・キース(4年D組)

5位:フィオナ・ミラージュ(4年A組)


 「……やっぱり、“腹黒メガネ”が一位ね」


 少し離れた位置から掲示を見上げ、レティアが静かに呟く。


 視線の先には、5年S組の首席──リヒト=クロイツベルクの名前が、堂々と一位の位置に刻まれていた。


 「あれで紳士ぶってるけど、きっちり結果出してくるあたり、ほんと抜け目ないんだから……」


 レティアの口元には、苦笑とも皮肉ともつかない歪みが浮かんでいる。


 「でもアリス、次点。すごいわよ、これ」


 「うん。さすがに一問分くらいの差かもね……来学期は抜いてみせる」


 アリスは飄々とした声色を保ちながらも、その瞳の奥には確かな闘志の光が宿っていた。掲示に刻まれた自分の名前を、ほんのわずかに長く見つめる。


 「うわ……あのミラージュの王女様、五位!? 普通にすごくない!?」


 「しかも選択問題で一部、5年次の応用理論に手を出したって聞いたぞ」


 周囲から聞こえてくる驚きと称賛の声。その中で、アリスたちは人混みの端に身を置き、静かに結果を眺めていた。


 「五位……ですのね、わたくし」


 フィオナが小さな声で呟く。手にしていたノートを無意識に握り締めていた指が、ゆっくりと緩む。膝の上でそれを落ち着かせた瞬間、少しだけ肩の力が抜けたようだった。


 「おめでとう、フィオナ。十分すごいよ」


 アリスが柔らかく声をかける。その声音は、結果だけでなく、そこに至るまでの努力を知っている者の温かさを含んでいた。


 「……ありがとう、ございます。これで、少しだけ自信が持てましたわ」


 フィオナの返事は控えめだったが、その目には淡い光が差していた。


 「クラリスさんにも報告しなくちゃね。きっと喜ぶわ」


 レティアが端末を取り出し、指先で素早く操作する。彼女の表情にも、友人の成果を誇らしく思う色が浮かんでいた。


 午後、三人は研究棟の奥にあるクラリスの研究室を訪れた。


 廊下には薬草と金属が混ざったような独特の匂いが漂い、壁際には術式制御盤や未完成の装置が整然と並んでいる。奥の扉をノックすると、すぐに「どうぞ」という落ち着いた声が返ってきた。


 「五位……それは立派よ、フィオナ様」


 魔導端末の向こうに映し出されたクラリスは、柔らかな笑みを浮かべつつも、その瞳には研究者特有の鋭い光が宿っている。


 「特にあの問題の構造式、普通は選ばないわ」


 その言葉に、フィオナはわずかに目を見開く。あのとき自分が迷いながらも手を伸ばした選択問題が、やはり正しい挑戦だったのだと実感する。胸の奥で、何か温かいものが広がる感覚。


「基礎だけでなく応用領域にも踏み込めていた。記述の構成も良かったわ」



 クラリスは、言葉を選びながらも確かな評価を伝える。その口調には、指導者としての誇りと、教え子への愛情が滲んでいた。


 フィオナはその視線をまっすぐ受け止め、小さく、しかしはっきりと頷いた。


 「……指導者冥利に尽きるってものね」


 アリスとレティアも、そのやり取りを静かに見守っていた。アリスは内心で、フィオナがこの短期間でどれほど成長したかを噛みしめている。レティアは、努力が正当に評価される瞬間の尊さを感じ、少しだけ口元を緩めた。


 報告を終えた三人の表情には、それぞれ違った形の安堵と誇らしさが宿っていた。

 自分たちの歩みが間違っていないと確信できる、そんな時間だった。


 講義が終わると同時に、教室に満ちていた熱気がゆるやかに解けていった。


 椅子を引く音、教科書やノートを閉じる音、友人同士で交わされる短い会話――それらが重なり合い、放課後特有のざわめきとなって広がっていく。


 アリスは軽く背筋を伸ばし、机上のノートと筆記具を整えてから、革の鞄に丁寧に収めた。隣の席のレティアも、万年筆のキャップをゆっくり閉め、インクが漏れないよう布で軽く拭ってから片付ける。


 「ちょっと歩かない? 中庭まで」


 アリスが声をかけると、レティアは口元をほころばせた。


「いいわね、私も外の空気を吸いたかったところ」



 二人は並んで教室を後にした。


 廊下には他の学生たちが途切れ途切れに歩いており、開け放たれた窓から午後の光が差し込んでいる。床に映る光の帯が、行き交う人影に合わせてゆらりと揺れた。外からは遠くの噴水の水音と、小鳥の短い囀りが微かに届く。


 校舎を抜けると、春特有のやわらかな空気が二人を包み込んだ。芝生からは青い草の香りが漂い、足元の石畳は陽光を受けてほのかに温もりを持っている。時折、若葉を揺らす風がスカートの裾をそっと撫でていった。


 「今日は本当に穏やかね」


 レティアが空を見上げる。その瞳に、薄く流れる白雲と淡い青が映り込む。


「うん、こういう日って大事だよね」



 アリスは小さく返し、並んで歩く友人の横顔に視線を向けた。


 中庭へ続く石畳の道は、両脇に整えられた花壇が続く。色とりどりの花弁が陽光を透かし、香りがふわりと風に乗って鼻先をかすめる。通り過ぎる下級生たちが軽く会釈をし、二人も自然な笑顔で応じた。


 やがて、大きな楓の木の下に置かれた木製のベンチが見えてくる。周囲に人影はなく、葉の隙間からこぼれる木漏れ日が、まるで模様のように座面を染めていた。


 アリスはそのベンチに腰を下ろし、背もたれに軽くもたれる。木肌の冷たさが背中に伝わり、思わず深く息を吸った。


 レティアも隣に腰掛け、膝の上で指を組む。


「……やっと落ち着けた」


「私も。さっきまで頭の中が数式でいっぱいだった」



 二人は目を合わせ、軽く笑い合った。


 そのとき、向こうの回廊から軽やかな足音が近づいてくる。


「お待たせ!」



 フィオナが息を弾ませながら駆け寄ってきた。手には小ぶりのノートを抱えており、別の講義を終えたばかりなのだろう。


 「お疲れさま、フィオナ。こっちはのんびりしてたところ」


 アリスが迎えると、フィオナはほっとしたように笑い、ベンチの端に腰を下ろす。春風が三人の髪を揺らし、穏やかな午後のひとときが再び流れ始めた。


「……これでひと段落ついたね」



 レティアは伸びをしながら微笑み、頷く。


「次は演習課題だけど、今はこの余韻を味わいたい」


「今夜は、久しぶりにゆっくり眠れそうですわ」



 フィオナの表情は、これまでよりも柔らかく、穏やかな満足感に包まれていた。


 試験という節目を越えて、それぞれの歩みに確かな光が差し込み、学年を超えた仲間との絆が、より強く結び直されたことを三人は感じていた。


 中庭には、柔らかな陽光がまだ残っていた。


 楓の葉を透かして降り注ぐ光は、緑の上に淡い黄金色を落とし、芝生の影を長く伸ばしている。噴水の水面は夕方の気配を孕んだ光を受け、きらきらと揺れていた。


 遠くで、帰寮する生徒たちの足音と笑い声が少しずつ増えていく。時折、小鳥が枝から枝へと飛び移り、羽音がひらりと耳に届く。


 空はゆっくりと色を変え始め、青の中に淡い橙が混じり込む。風は昼間よりもひんやりとし、肌をかすめるたびに心地よい静けさをもたらした。


 アリスはその変化を肌で感じながら、ふと空を見上げる。高い空の端に、早くも夕暮れ雲が薄く滲み始めていた。


「……もうすぐ日が傾くね」



 その呟きに、レティアとフィオナも空を見上げる。三人の視線が、同じ色の変化を追っていた。


 刻々と移ろう空の色と、満ち足りた沈黙。


 その一瞬は、彼女たちにとって何よりも贅沢な休息だった。

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