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第三部 第二章 第12話

 夕暮れの鐘が、やわらかく澄んだ音を空に溶かしながら鳴り終える頃、ファーレンナイト王立魔導学院の自習室は、ひそやかな熱気に包まれていた。


 厚く強化された魔導ガラス越しに見える外の世界では、沈みゆく夕陽が中庭の尖塔や古木の枝葉を茜色に染め、その色合いが空気ごとゆっくりと室内へと流れ込んでくる。


 斜めに差し込む光はやわらかく、天井の魔導照明から放たれる白い光と溶け合い、温もりと清澄さを同時に感じさせる静謐な空気を形作っていた。


 室内は広く、整然と並んだ木製の机と椅子が、まるで音のない波のように奥まで続いている。

 磨かれた机の表面は夕陽と照明を受けて艶やかに光り、天井から吊るされた魔導照明は影を作らないよう絶妙に配置されていた。

 光は均一に落ち、生徒たちの集中した横顔や手元を優しく照らしている。


 机の上には魔導式解析用の水晶パネルや分厚い教本、色とりどりの付箋や小さな魔術補助具が置かれ、それぞれの持ち主の性格や学習方法を物語っていた。

 空気にはわずかに紙とインク、そして魔力触媒の微かな匂いが漂い、静けさの中にも学びの熱が確かに息づいていた。


 その中でも、奥の窓際に並んで座る三人の姿は際立って見えた。

 アリス、レティア、そしてフィオナ――普段は異なるクラスに属し、日常では顔を合わせる機会も限られている三人だが、試験直前のこの時期だけは、あらかじめ決められていたかのように同じ場所に集まっている。

 互いの得意分野と不得意分野を補い合い、静かな呼吸の中で学びを重ねるその様子は、他の生徒の目にも自然と「まとまり」を感じさせるものだった。


 「うーん……この補助術式、変位式の計算係数がどうにも腑に落ちない……」


 レティアは眉間に皺を寄せ、細い指先でペンを軽く回しながら低くつぶやいた。

 机の上には、丁寧にまとめられたノートが開かれている。

 均整の取れた文字列と魔導式が整然と並び、補助図がいくつも描き込まれていたが、一角には赤ペンでの書き直しが幾重にも重なっており、計算の迷いと試行錯誤の跡がはっきりと残っていた。


 「それ、範囲外の応用だからね」


 隣に座るアリスは静かに応じ、手元のノートから一枚をめくる。

 白くすべらかな指先が数式の列をなぞり、その動きに合わせてページがかすかに光を反射した。


 「この式には、前提条件として【魔力総量の比例調整】が組み込まれている。

 そこを見落とすと、計算係数が合わなくなるんだよ」


 レティアの瞳がぱちりと瞬き、わずかな間を置いて理解の色がにじむ。


 「講義のときはあっさり流された部分だから、完全に見逃してた。

 ありがとう」


 「そう、講義はそうだったけど、テストには確実に出るからね」


 アリスはページの端に貼られた色鮮やかな付箋を指差す。


 「講師の出題傾向は去年の考課記録で全部チェック済み。

 あの先生、応用例からの設問が好きなんだよ」


 「ほんとにアリスは細かいとこまで抜かりないよね」


 レティアは呆れ半分、感心半分の笑みを浮かべた。


 そのやり取りを斜め向かいで聞いていたフィオナは、小さくため息をつき、背もたれに体を預けた。


 「お二人、本当にすごいです……」


 彼女の机の上は開きっぱなしの教本と、色とりどりの付箋が貼られたノートで埋まっており、ページの端には急いで書き込まれた式やメモが走り書きのまま残っていた。


 「私はようやく基本法則の復習が終わったばかりで、特に《応用術式の判別条件》はまだ苦手ですわ」


 「ふむ、そこは確かに詰め込みには向かないね」


 レティアは頷きつつ、視線を教本の該当ページに落とす。


 「構造的な理解が不可欠で、記述問題では応用例も問われる。

 理解していないと答えられない部分だ」


 「なら、今夜はそこを重点的に演習しましょう」


 アリスが自然に提案し、ノートの要点ページを開く。

 紙のめくれる音が静かな室内に軽やかに響いた。


 「論述問題対策なら、模擬設問を三題解けば大まかな傾向が掴める。

 効率よくやれば三時間で二日分の勉強は終わるよ」


 「……ほんとうにその時間で終わるの?」


 フィオナが半ば諦めたように笑みを浮かべると、アリスは軽く肩をすくめた。


 「やってみればわかるよ」


 「……まあいいわ。

 王族といえど成績は容赦されませんもの」


 三人の間に自然と静かな決意と連帯感が生まれた。


 そのとき、静かなノック音が自習室の入口から響いた。

 三人が同時に顔を上げると、ドアの隙間から覗いたのはフィオナの侍女、エリーゼだった。


 「お嬢様、そろそろお休みの時間です……ご体調のこともございますので、今夜はこれくらいに」


 ――エリーゼ視点。


 窓辺の三人は、夕暮れの残光を背にして並んでいる。

 その光景は、彼女の目にはどこか眩しく映った。

 主であるフィオナがこんなにも真剣に学んでいる姿を見るのは久しぶりであり、また、それを自然に支える同年代の仲間がいることに安堵も覚える。

 疲労の色がわずかに差した主の横顔を見て、エリーゼは胸の奥で「今夜はここまで」と決めていた。


 フィオナは小さく瞬きをし、肩の力を抜いた。


 「……そうね。

 ありがとう、エリーゼ。

 まだ先は長いけれど、無理はしない方がいいわね」


 そのやり取りに、アリスとレティアも頷く。


 ――アリスの心中。


 (やっぱり、無理をさせるわけにはいかない。

 今夜はこのくらいで十分だ)


 ページを閉じる指先に、彼女は「続きはまた明日」という確信を宿していた。

 以前の自分なら、時間の限り詰め込みを選んでいたかもしれない。

 けれど、今は違う――学ぶのは一人ではない。

 共に学び、共に歩む者がいるからこそ、次に繋げる余裕を持てるのだ。


 「じゃあ、今日はここまでにしよう」


 「うん。

 明日の夜に続きからやればいい」


 三人は筆記具やノートを静かに片付け、机上を整えた。

 魔導照明の灯りは時刻に合わせてゆるやかに落ち、周囲の机の上も次第に片付けられていく。

 残っていた数人の生徒たちも席を立ち、足音を忍ばせるように室外へと消えていった。


 「おやすみなさい、アリス、レティア。

 また明日ね」


 「うん、おやすみ、フィオナ」


 「ちゃんと寝るんだよ」


 学院の廊下は既に夜の静けさに包まれており、三人の足音はそれぞれの方向へと淡く遠ざかっていく。

 試験は確実に迫っている――だが、こうして仲間と机を並べ、同じ時間を過ごすことこそが、なによりも揺るぎない心の支えであることを、三人は自然と感じ取っていた。


 

 翌日。


 その日の講義が終わる頃、学院の廊下には、傾きかけた陽光が西の窓から流れ込み、長く伸びた影と共に金色の縁取りを壁や床に描き出していた。

 古い石造りの壁面は夕焼け色に染まり、磨き込まれた木製の窓枠が暖かな輝きを帯びる。

 窓の外では、遠くの鐘楼がゆっくりと時刻を告げ、空は薄紫と朱の境界を溶かし合っていた。


 第五学年向けの応用講義《魔力干渉理論と式安定化技術》は、ひたすら複雑な数式と実践演算が続き、生徒たちの集中力を削り取るような内容だった。

 終盤は黒板に刻まれた式が何重にも絡み合い、ただ追うだけでも息が詰まるほど。

 講義室を出た多くの生徒が肩を落とし、半ば放心した様子で廊下を歩いていた。


 アリス、レティア、フィオナの三人も例外ではなかったが、昨日と同じ自習室へ向かう足取りには、それぞれの中にわずかな目的意識があった。

 静かな廊下を抜け、馴染みとなった自習室の扉を開ける。

 室内には、まだ誰の気配もなく、窓際に並ぶ机と椅子が整然と並んでいる。


 三人は使い慣れた一角――壁を背にした落ち着いた席に腰を下ろし、各々の教本とノートを机の上に広げた。


 「はぁ……今日の講義、解析式が頭から離れませんわ……」


 フィオナが背もたれに深くもたれ、椅子の軋む小さな音と共に目を閉じる。

 指先には、未だにペンを握りしめていた力の余韻が残っている。


 「わかる。

 論述対策どころか、構造の把握すら追いつかない感じ」


 レティアは机上でシャープペンを指先で軽く転がし、その金属部分がコトリと小さな音を立てた。

 眉間にはわずかな疲労の影があるが、その瞳には諦めの色はない。


 「でも今日は大丈夫。

 助っ人、呼んであるから」


 アリスが静かに告げ、軽く目配せをした瞬間、室内に控えめなノック音が響いた。


 ドアがゆっくりと開き、姿を現したのは白衣をまとった女性。

 整った栗色の髪を後ろでまとめ、落ち着いた碧眼が真っ直ぐにこちらを見ている。

 手には、磨かれた銀色の枠を持つ魔導演算デバイス。

 動作一つひとつに無駄がなく、凛とした知的な雰囲気を漂わせていた。


 「こんばんは。

 約束通り来たわよ、アリス」


 クラリス・ノーザレイン――ミラージュ王国魔導技術開発局・第二研究室の若手研究者であり、現在は学院で臨時講師を兼任する人物。

 その立ち姿だけで、場の空気がわずかに引き締まる。


 「ありがとう、クラリス。

 急だったのに、ごめんね」


 アリスが軽く頭を下げると、クラリスは柔らかく唇を緩めた。


 「いいのよ。

 ちょうど研究室でも、演算式処理の新規事例を集めてるところだったし。

 いいデータになるわ」


 白衣の裾がわずかに揺れる中、クラリスは演算投影機を机上に置き、魔力を流し込む。

 淡い光の輪が広がり、空中に複数の魔導式と過去の試験記録が立体的に展開された。


 「今日は“術式安定化処理”が中心だったんでしょ?

 その範囲、過去出題例の中でも特に落差が激しいの。

 単純に暗記じゃ対応できないわ」


 彼女の指先が空を滑るたびに、光の式は三層に分かれ、内側の構造が露わになっていく。


 レティアは目を見開き、息を呑んだ。


 「……すごい。

 演算補助式、こうやって展開できるのか」


 「フィオナ、ここの定数を見て。

 干渉前後の振れ幅を視覚化すれば、流れが掴みやすくなる」


 促されて覗き込んだフィオナは、ぱっと表情を明るくした。


 「……本当ですわ。

 魔力場の相転位が図解になるだけで、ずっとわかりやすい……!」


 クラリスの指導は穏やかだが的確で、例え話と構造図解を巧みに交えて理解を深めさせる。

 その説明に合わせて三人のノートは次々と書き込まれ、ページをめくる音が小気味よく続いた。


 アリスはそんな光景を静かに見守りながら、心の中で小さく頷く。


 ──試験勉強だって、独りでやるより、信頼できる誰かとやる方が、ずっといい。


 時刻はすでに晩刻を回り、自習室の照明はやや落ち着いた明度に切り替わっていた。

 壁際のランプが温かな光を放ち、魔導演算機の投影光だけが宙に淡く揺れる。

 その光は机上の紙面をやわらかく照らし、文字や図面の輪郭を際立たせていた。


 フィオナが一度ペンを置き、手首を軽く回してから、ふぅと深く息を吐く。


 「頭が熱くなってきましたわ……少し、休憩を入れません?」


 「それがいいね」


 レティアもノートを閉じ、肩を回すと、首筋を押さえてほぐす。

 アリスはその様子を見て、鞄の中から小さな包みを取り出した。


 「簡単だけど、持ってきたの。

 焼き果実パンとハーブティー。

 よかったらどうぞ」


 布包みを解くと、学院購買部で人気の焼き果実パンが香ばしい香りを漂わせながら現れる。

 表面には薄く砂糖がまぶされ、切れ目からは甘く煮た果実が覗いていた。

 魔力保温フラスコの蓋を開けると、ふわりと立ち上るハーブの香気が室内の空気をやさしく染める。


 「相変わらず気が利くのね、アリス」


 クラリスが口元に微笑を浮かべる。

 アリスは少しだけ視線を逸らし、肩をすくめた。


 「勉強だけだと詰まりやすくて。

 気分を切り替えるのも大事でしょ?」


 四人は自然と机を囲むように座り直し、湯気の立つカップを手に取った。

 温かな飲み物が指先を通して体へと沁み込み、硬かった表情や姿勢が少しずつほぐれていく。

 甘い香ばしさとハーブの清涼感が混じり合い、先ほどまでの緊張を薄く溶かしていった。


 「今日だけでも、だいぶ整理が進みましたわ」


 フィオナがパンを一口かじり、柔らかく頬をほころばせる。


 「クラリスさんの解説、とても分かりやすいですの。

 他の講義もこうならいいのに」


 「それは……開発局で鍛えられてるから、かもね」


 クラリスは控えめに笑い、カップを揺らして中身の表面を見やった。


 「新人に理論を伝えるには、抽象じゃなく構造を見せるのが一番って、先輩たちに散々言われたもの」


「……だからあんなに図示がうまいんだ」


 レティアが小さく納得の息を漏らす。


 しばらく和やかな空気が流れ、紙の擦れる音も止まっていたが、やがてフィオナとレティアが席を立ち、廊下の水場へ湯の補充に向かった。

 扉が閉まると、室内にはアリスとクラリスだけが残る。


 アリスはそっとクラリスの方へ視線を向け、穏やかだが真剣な声音で言葉を落とす。


 「クラリス、今日は本当にありがとう」


 机の上で指先を軽く重ねながら、アリスは続けた。


「皆、すごく助かってる。

私も……もっと早くお願いしておけばよかった」


クラリスはカップを傾け、温かな湯気の向こうからアリスを見つめた。


「いいのよ。

学院には特別講師をさせてもらってる恩があるから」


そして、瞳をわずかに細める。


「それに、アリスが声をかけてくれたのは、正直ちょっと嬉しかった。

――前より、頼ってくれるようになった気がして」


 その言葉に、アリスは一瞬だけ口を閉ざす。

胸の奥に小さな痛みと温もりが同時に広がる感覚。


「……自分だけで抱えようとして、空回りするのは前世からの癖で。

今は……それじゃいけないって思ってる」


クラリスは静かに頷く。


「誰かと一緒に考えることで、見えるものもある。

それは、研究でも、戦いでも、勉強でも同じよ」


「うん……そうだね」


アリスはカップを両手で包み込み、瞳を落とした。


「みんなの力を借りて、私は“私”でいられてる。

それが、今はすごく嬉しい」


クラリスは何も言わず、ただ優しい微笑みを返す。

その静かな表情が、言葉以上の温かさを伝えてくる。


ふと、彼女が思い出したように口を開く。


「……アリス。

君が昔よりも穏やかになったって、学院でも噂になってるのよ?」


「……だれだろう、言いふらしてるの」


アリスは苦笑しながら、わざと肩をすくめて返す。

そのやり取りに、二人の間の距離がさらに近づいた気がした。


「おまたせ〜、湯は補充してきたよ」


「レティアがうっかりやけどしそうになってましたわ」


 廊下から戻ってきた二人が笑い混じりに報告する。

アリスとクラリスも微笑んで席を戻し、再び勉強を再開した。


その後の作業は驚くほど滑らかに進み、論述問題の解答例も一通り仕上がった。

式安定化の演算練習も規定数を終え、机上には完成したページと整列した道具が並んでいる。


「そろそろ時間ですね」


クラリスが腕時計型の魔導端末をちらりと確認し、時間の数字を目で追う。


「うん、今日はこれくらいで切り上げようか」


「また明日……いえ、明晩も続けられますか?」


フィオナの問いかけに、アリスは頷く。


「もちろん。

明日は暗記範囲の総まとめと、解釈問題の整理。

予定、組んでおくね」


「では、今夜はこれで失礼します」


クラリスは椅子を静かに引き、立ち上がると、深く丁寧に頭を下げた。


「ありがとう、クラリス。

またお願いね」


「ええ、また。

――頑張って、アリス」


 白衣の裾が扉の向こうに消えるまで、アリスはその背を見送った。

胸の奥に灯った温かな自覚は、夜の静けさの中でも消えることなく、やわらかな光を放ち続けていた。

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