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第三部 第二章 第9話

 その夜、アリスは学院近くの静かな中庭にある小さな東屋へ、約束の時間より少し早く姿を見せていた。

 石畳の上には、昼間のぬくもりがかすかに残り、東屋の木の柱はひんやりとした夜気を含んで静かに立っている。


 アリスは東屋の入り口に立ち、周囲をぐるりと見回すと、誰もいないことを確かめてからそっと中へ入った。

 ベンチに腰を下ろし、組んだ両手を膝の上に置く。

 さっきまでの講義の余韻と、今日の実演のことを思い返すうちに、胸の鼓動がゆっくりと落ち着いていく。


 それでも、クラリスと二人きりで話す約束をしたことを思い出すたび、胸の奥が少しだけそわそわと騒いだ。

 ふと時計塔の方へ視線を向ける。

 針の位置からすると、約束の時間まではまだ余裕があるはずだったが、それでもアリスには、時間がいつもより長く伸びているように感じられた。


 夜風が頬を撫で、髪の先をかすかに揺らしていく。

 やがて、中庭の奥から小さな足音が近づいてきた。

 規則正しく、しかし少しだけ急いでいる気配を帯びた足取り。


 アリスが東屋の外へ視線を向けると、月明かりの下、白衣の裾を揺らしながら歩いてくるクラリスの姿が見えた。

 彼女は東屋の前で一度立ち止まり、軽く息を整えてから中へ入ってくる。

 顔を上げたその表情には、少しだけ申し訳なさそうな色が浮かんでいた。


「お待たせしました、アリス。片づけが思ったより長引いてしまって」


 アリスは首を横に振り、少し照れたように笑う。


「ううん、私が早く来すぎただけだから

 ちょっとだけ、星を見て待ってただけだよ」


 クラリスはほっとしたように息を吐き、柔らかな微笑みを浮かべる。


「そう言ってもらえると、救われますね。

 でも、寒くなかったですか?」


「平気。

 それに……こういう静かな夜、嫌いじゃないから」


 アリスの言葉に、クラリスは小さく頷き、彼女の隣へと歩み寄った。

 二人が並んで腰を下ろしたところで、東屋の中はようやく“待ち合わせの場”から“対話の場所”へと変わっていく。


 満天の星空が漆黒の天幕のように広がり、月明かりが淡く地面を照らしている。

 東屋の木組みは長い時を経て微かに軋み、風に揺れる葉音が静寂に溶け込む。

 夜風は肌に心地よく、遠くからは街の喧騒がかすかに届くが、この場所はまるで別世界のように静謐だった。


 魔導灯の淡い光が二人の影を優しく揺らし、温かな温もりがひそやかに広がる。

 アリスは東屋のベンチに腰を下ろし、静かな吐息を漏らしながら隣のクラリスを見た。


「……ねえ、クラリス」


 声は震えず、しかし心の内にある複雑な感情をそっと吐露するようだった。


 クラリスは穏やかな目でアリスを見返し、少しだけ身を乗り出した。

 その動きひとつ取っても、彼女の落ち着いた呼吸と確かな余裕が伝わってくる。

 東屋の灯りが揺れ、クラリスの瞳に柔らかな金色の反射を落とした。


「なぜ、私たちに“時空転写の応用案”や“高次系統融合魔術と動的再構築演算”なんて課題を出したの?

 どうして私たちに、《ヘリカル・アーク・コーデックス》や《ナオス=フェラム術式・応用再構築案》なんて課題をやらせるように誘導したの?」


 アリスが放った問いは、声こそ静かだったが、胸の奥に渦巻く不安と期待がそのまま表に滲んでいた。

 この夜の静寂の中で、その感情はいつもよりも鮮明に響く。


 クラリスは軽く微笑み、肩をふわりと揺らした。


「……あの術式群を扱えるのは、いまの学院であなただけよ、アリス。

 いえ、“アリスとしてのあなた”が、それをここで見せることに、ちゃんと意味があったの」


 その声音は穏やかで、しかし言葉の中心には揺るぎない信頼があった。

 アリスはその微笑に安心を覚えながらも、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 クラリスの瞳には、アリスへの期待と確信が、夜の星々の光よりも強く宿っていた。


「あなたは今まで、どこか特別扱いされてきた。

 “規格外”とか“前例がない”とか。

 中には、恐れて距離を置く人もいたでしょう?」


 アリスの呼吸がほんのわずか揺れた。

 図星だった。

 胸の奥に沈んでいた孤独が、そっと浮かび上がる。


 クラリスはそんなアリスの表情を見逃さず、そっと肩に手を置いた。

 その仕草はあまりに自然で、優しく、温かい。


「だから、はっきり“証明”したかったのよ。

 あなたがただの『異常な存在』なんかじゃなくて、ちゃんと現代の理論と実績の中で、明確な理由と実力を持っている、ただの“優秀な魔導士”だってことを」


 その言葉が胸に落ちた瞬間、アリスの肩から力が抜けるように、張り詰めていたものがほどけていった。

 夜風がそっと吹き、二人の髪を揺らす。


「……時空転写。かつては《時空転移》として三百年前には存在していた術式。

 でもそれは、もう“過去の遺物”だったはず」


 アリスの言葉には迷いが混じっていたが、その奥には確かな知識と責任感があった。

 クラリスはその言葉を肯定するように、静かに頷いた。

 東屋の天井に吊るされた魔導灯が、彼女の横顔を淡く縁取り、その表情に柔らかな影を落とした。


「でも、アリスたちはその応用案を成功させた。

 ちゃんと理論の再構築と実践で、現代にその片鱗を取り戻したのよ」


 その声は誇らしげで、しかし決して驕らない。

 彼女が信じているのは結果だけではなく、アリスたち自身の努力だった。


「それに――《ヘリカル・アーク・コーデックス》は、高次系統融合魔術の中でも特に不安定で、今までは構想止まりだった。

 でも、あなたたちなら“使える形”にできると確信していた」


 クラリスの声が少しだけ熱を帯び、アリスは自然と胸を張る。

 信じてもらえるということが、これほど心を強くしてくれるとは思わなかった。


「《ナオス=フェラム術式》もそう。再構築不可能とされていた古代構文の中でも、特に複雑な三層構造術式。

 普通なら、研究者が十年かけても手を出せない分野。

 でも、あなたたちはただ理論をなぞるだけじゃなく、

 “未来に接続できる演算”として応用できる力がある」


 アリスはその評価に少し戸惑い、しかし確かに誇りを感じていた。


「……つまり、実証させたかったのね。“アリス・グレイスラー”という生徒が、それを成立させられると」


 クラリスは満面の笑みを浮かべた。

 その笑顔は夜の静けさの中で、星の光のように輝いて見えた。


「そう。そしてそれを見た人たちが、“なるほど、だから彼女は使えて当然なんだ”と納得するように」


 東屋の内側に、優しい光が満ちていくようだった。

 アリスは胸の奥が温まっていくのを感じて、そっと息を吐く。


「そうなれば……もう、あなたがそれを“使える”としても、誰もおかしいなんて言わない。

 むしろ、『それだけの努力と知識の積み重ねがあった』と理解される」


 クラリスの声はゆっくりと沈むように落ち着き、その真心がそのままアリスに届いた。


「それが、今回の本当の意図だったんだよ。レティシア――じゃなくて、アリス」


 アリスは照れを隠すように小さく笑う。


「……ありがとう。クラリスは、ほんとにずるいくらい、いつも私のことを考えてくれる」


「ふふ、ずるくなんかないわよ。ただ……戦友だからね。

 味方でいさせてほしいって、そう思ってるだけ」


 クラリスは肩を少しすくめ、優しく笑った。

 その視線には、遠い過去と今と、これからへの覚悟が滲んでいた。


「まあ……ある意味、今回の課題で、魔術研究分野の教授陣や技術局の目を、

 三人ともがっつり引きつけちゃったけど……ごめんなさいね?」


 どこか悪戯っぽく笑うクラリス。

 アリスは呆れたように眉をひそめながらも、どこか嬉しそうだった。


「……それ、絶対に“わかってて”やったでしょ」


「ふふ。予想通りだったとはいえ、ちょっとやりすぎたかしら?」


「……もう、笑うしかないよ」


 二人はしばし笑い合い、東屋の梁がその声を静かに受け止めた。


 やがてクラリスの声が少し真面目な響きを帯びた。


「でもね。これで“白銀化”、つまりあの“オーバーロード現象”も……

 特定の資質を持った個人だけが引き起こせる現象ではあるけれど、

 “存在しない”とか“幻”だなんて、もう言われなくなる」


 アリスは星空を見上げ、瞳に淡い光を宿した。


「――事象として、正式に“記録された”ってことね」


「ええ。これで、少なくとも《白銀化現象》は“確認された事象”として扱われる。

 今後、あなたの力を説明するときにも、“例外”ではなく“前例”として話ができるようになる。

 これは、あなたを守る盾にもなる」


 アリスは少しだけ眉をひそめた。


「そうなるように仕向けたってこと?」


「うん。理論と記録が伴えば、人は理解しようとする。

 逆に理屈がなければ、ただの怪物としてしか見てくれないもの」


 夜風が木々の葉を揺らし、虫の羽音が静けさを縫うように響いた。


「大丈夫。あなたはちゃんと、世界に受け入れられる道を歩んでる。

 ……私は、そう信じてる」


 アリスはその言葉に胸が温まり、そっと呟いた。


「……ほんと、戦友っていうより……頼れるお姉さんだよ、クラリス」


 クラリスは苦笑しながらも微笑む。


「それは褒めてる? それとも年上扱い?」


「両方かな?」


 二人の笑い声が、夜の庭にやわらかく響いた。


 ふとアリスがため息をつき、言葉を続ける。


「でも、私だけじゃなくて、レティアやフィオナ様まで巻き込んじゃったのは……ちょっと反省してる」


 クラリスは軽く肩をすくめ、いたずらっぽく笑った。


「まあね。あなたが“特別”なら、自然と周囲も引き込まれるものよ。

 でも、二人も本気で向き合ってくれたからこそ、今回の成果があるんだから感謝しなさい」


 アリスはゆっくりと微笑み、その言葉を素直に受け止めた。


「そうだね。二人には本当に感謝してる。私だけじゃ到底成し得なかったことだから」


 クラリスは東屋の外へ静かに視線を向け、夜風に揺れる枝葉を眺めながら言った。


「それにね、フィオナ様が加わったことで、誰も彼もが異端とは思えなくなるのは、

 ある意味で好都合だったわね。

 あの方の存在が、あなたたちの“特別”をより自然なものに変えてくれたのだから」


 夜風にそっと吹かれながら、アリスは東屋の梁を見上げた。

 木材の細かな節が月明かりで浮かび上がり、その影が静かに揺れる。


 しばらく二人は言葉を交わさず、ただ夜の音に耳を澄ませていた。

 学院の方向からは、遅くまで残っていた生徒たちの気配がようやく消え、

 遠くの街路灯だけが薄い光の帯を作っている。


 やがて、クラリスがふっと息をつき、横目でアリスを覗いた。


「……ねえ、アリス。今日のこと、正直に言うと……少し怖かったでしょう?」


 アリスはわずかに肩を揺らし、視線を伏せた。

 その指先が、膝の上でわずかに震える。


「……うん。

 だって、あんなに大勢の研究者や外部審査員の前で、

 “失敗したら壊れるかもしれない術式”を展開したんだもん。

 怖くないわけ、ないよ」


 小さな声だったが、そこには確かな本音がこもっていた。


 クラリスは無言でアリスの手元に視線を落とすと、そっとその震える指先に触れた。

 温かく、じんわりとした感触が伝わる。


「怖かった。それでも――あなたはやった。

 恐怖の上に立った人だけが、“未知”に手を伸ばせるの。

 私は、その姿を何より誇りに思うわ」


 アリスは少し照れたように笑い、震えがゆっくりと収まっていった。


 しばらくして、クラリスが少し表情を変える。

 今度は、どこか“研究者”らしい真剣な光を宿した眼差しだった。


「――それに、もうひとつだけ。

 どうして今回、あなたたちにあそこまで高度な術式群を扱わせたか……

 その“本当の理由”、まだ言ってなかったわね」


 アリスは目を瞬き、静かに顔を向ける。


「本当の理由……?

 さっき聞いたのとは別に?」


「ええ。あれは“私個人としての理由”。

 でも、研究者としての理由は別にあるの」


 クラリスは月を見上げた。

 その横顔はどこか遠くを見つめているようで、アリスは思わず息をのんだ。


「……三百年前。

 “あの時代”の術式群にはね、未だに解き明かされていない謎が山ほどある。

 再構築したところで、“何か”が足りないの。

理論も、演算も、構文も――全部正しいのに、どこかが空白のまま」


 静かな夜気の中で、その声だけがはっきりと響いた。


「私はずっと思ってたの。

“足りないもの”を補ってくれる存在が、この時代にも現れるんじゃないかって。

その答えが、あなたたち三人だった」


 アリスの心臓が、ドクンと強く打った。


「……私たちが、“欠けた部分”を埋められるってこと?」


「埋めるというより――“継続させる”存在、ね。

古代の術式群は本来単発で終わらない。

時代、術者、環境……全部が連鎖するように設計されていた。

本来なら、継ぐ者が出てくることまで含めての体系だったのよ」


 クラリスの言葉は、まるで誰かの遺言を解き明かすように静かだった。


「アリス。

あなたは、三百年前の“終点”ではなく――

“次の始点”としてここにいる」


 アリスの呼吸が一瞬止まる。

 東屋の中で、夜風がひゅうと低く鳴り、木々がざわめくように揺れた。


「……始点、か。

なんだか、少し重たいね」


 アリスは苦笑しながら呟いたが、瞳には確かな決意が宿っていた。


 クラリスは優しく微笑み、首を振る。


「いいえ、重荷じゃない。

あなたなら背負えるし――

背負わせるつもりで課題を与えたことも、私は後悔してない」


「ほんとに……ずるいくらい、先を見てるね。クラリスは」


「研究者ってそういうものよ?

“未来に答えがある”って信じてる職業なんだから」


 二人の笑顔が重なり、東屋の灯りがやわらかく揺れて、それを優しく照らす。


 そして――クラリスはふと、声を低くした。


「……ただし、アリス。

本当の“始点”には、もうひとつだけ条件がある」


「条件……?」


 クラリスはアリスの瞳をまっすぐ見つめる。


「それは――

“あなたが、ひとりで抱え込まないこと”」


 アリスは目を見開いた。


「……クラリス?」


「あなたには、仲間がいる。

レティアも、フィオナ様も、私も。

そして、これから出会う仲間たちも。

どんな時も、あなたが前に立つ必要なんてない」


 その言葉は静かで、しかし確かな重みを持って胸に降り積もる。


 アリスはゆっくりと息を吐き、微笑を浮かべながら小さく頷いた。


「……うん。

それなら――

きっと、次の始点にも進める気がする」


 クラリスは満足げに目を細め、アリスの頭にそっと手を置いた。


「そう。それでいいの。

“未来”はひとりではなく――複数で作るものだから」


 夜空の星々が一斉に瞬き、まるで二人の頭上で祝福を送るように輝きを増した。

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