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閑話 アリスの一日 -四年次- ep,100記念

ついに『白銀の継承者 - Gate of Sealed Eternity -』も、累計100話となりました。

ここまで読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。


そして世間ではバレンタインデーということで、

ささやかながら記念SSを書いてみました。


今回は、本編 第一部 第一章 第一話よりも前――

まだ物語が大きく動き出す前の、アリスのとある一日を描いています。


ミラージュ古代遺跡への演習参加のきっかけとなる

学院内武術競技会を、彼女が意識し始めた頃。

そして、“無双”の頭角を少しずつ現し始めた時期でもあります。


本編とは少し時間軸の異なるお話になりますが、

アリスの原点や片鱗を感じていただければ嬉しいです。

 ――朝。


 王立魔導学院の鐘が、澄み切った音色を幾重にも重ねながら、静かな朝の空気を揺らした。

 石造りの校舎の尖塔から広がる音は、眠りの名残を残す寮と回廊を包み込み、新しい一日の訪れを告げている。

 淡い陽光が窓硝子を通して差し込み、磨かれた床石の上に細長い影を落とした。

 朝露に濡れた中庭の草木がきらめき、遠くでは小鳥のさえずりが重なっている。


 学生寮の一室。

 白いカーテン越しの光は柔らかく、室内の輪郭を淡く浮かび上がらせている。

 机の上に整然と並べられた教科書とノート。

 壁際に立てかけられた訓練用の木剣。

 無駄のない配置は、主の性格をそのまま映していた。


 アリス・グレイスラーは、ゆっくりと瞼を開いた。

 蒼い瞳が天井を映し、まだ夢の余韻を残したまま瞬く。

 しばらく、そのまま動かずにいる。

 深く息を吸い込み。

 ゆっくりと吐き出す。


 ――今日も、始まる。


「……あと五分……」


 小さく呟き、布団に顔を埋める。

 身体はまだ眠りを求めていた。


 その瞬間。

 扉の向こうから、軽い音が響いた。


「アリスー。起きてる?」

「……レティア……?」

「疑問形にしないの。もう鐘鳴ってる」

「五分……お願い……」

「却下」

「即答すぎない……?」

「すでに十分待った」


 がちゃり、と扉が開く。

 朝の光を背に、レティアが腕を組んで立っていた。

 射し込む逆光に縁取られたその姿は、どこか凛としている。


「ちょ、ちょっと」

「鍵開いてた方が悪いの」

「ノックの意味……」

「形式美」

「意味違う……」


 アリスは枕を抱え込み、頬を膨らませた。


「ひどい……」

「ひどくない。起きないアリスが悪い」

「起きてるもん……」

「今のは寝言」

「寝言じゃない……意識あった……」

「半分夢の中」


 レティアはくすりと笑い、タオルを差し出す。


「顔洗ってきなさい。そのままだと完全に寝ぼけ顔」

「そんなにひどい?」

「うん。珍しく可愛い」

「褒めてる?」

「半分」

「半分かあ……」


 ぶつぶつと文句を言いながらも、アリスは渋々ベッドを降りる。

 冷たい床の感触に、思わず肩をすくめた。


 洗面所。

 冷たい水を両手ですくい、顔を洗う。

 一気に意識が引き戻される。

 頬に残る冷感とともに、眠気が霧散していった。


 戻ってきた頃には、瞳の焦点もすっかり定まっている。


「よし、復活」

「最初からそうしてればいいのに」

「無理。朝は弱い」

「知ってる。昔から」

「そこ強調しなくていい……」


 即答だった。


 アリスは苦笑しながら身支度を整える。

 制服に袖を通し、皺を伸ばし、胸元の徽章を指先で正す。

 髪を軽く整え、鏡の前に立つ。


 そこに映るのは、まだわずかに眠たげながらも、確かな意思を宿した少女だった。

 迷いのない蒼い瞳が、静かに前を見据えている。


「……よし」


 小さく頷き、鞄を手に取る。


「準備できた?」

「うん。行こう」

「今日は実技あるからね」

「ふふ。でも大丈夫」

「なんでそんな自信満々なの」

「長年の親友の勘」

「雑……」

「正確」


 二人は並んで寮を出た。

 扉が閉まる音が静かな廊下に溶ける。

 外から流れ込む朝の光が、回廊を淡く照らしていた。


 朝の回廊は静かで、澄んだ空気が心地よい。

 磨かれた石床に反射する光が、足元をやさしく照らしている。

 遠くからは、すでに活動を始めた学生たちの気配が微かに伝わってきた。


「正直さ」


 歩きながら、アリスが小さく呟く。


「今日の実技、ちょっと緊張してる」

「珍しいわね」

「相手、あの班だし」

「でもアリスなら大丈夫」

「雑な信頼」

「雑じゃない。長年の観察結果」

「暴走しかけた回数も含めて?」

「もちろん」

「それは忘れて……!」


 二人の笑い声が回廊に溶ける。

 すれ違う学生たちが、楽しげに視線を向けながら通り過ぎていった。


 食堂はすでに賑わっていた。

 大きな窓から射し込む朝日が、広い空間を黄金色に染めている。

 湯気と香りと喧騒が混ざり合い、朝の学院を形作っていた。


 焼きたてのパンの香り。

 温かいスープの湯気。

 賑やかな談笑の声。


 二人は向かい合って席に着く。

 木製のトレイに並べられた朝食が、ほのかに湯気を立てている。


「さっきから、ずっと考えてるでしょ」

「……顔に出てた?」

「出てた。三秒に一回ため息ついてた」

「そんなに……?」

「うん。かなり」

「……緊張してるのは事実」

「でも、逃げないで向き合うのがアリスでしょ」

「……そうだけど」

「だから大丈夫なの」


 そう言って微笑むレティアに、アリスは苦笑する。


「……信頼されてるのは、嬉しいけど」

「でしょ?」

「期待に応えられるように、頑張る」


 その言葉に、レティアは満足そうに頷いた。


「無茶しないでよ?」

「しないって」

「する」

「しない。

  ……しない、たぶん」

「ほら」


 レティアは呆れつつも、どこか優しい目を向ける。


「私が後ろで支えるから」

「……うん」


 その一言で、胸の奥がふっと軽くなる。

 アリスは、無意識のうちに肩の力を抜いていた。


 午前の講義。

 大講義室では、魔力理論の授業が行われていた。

 高い天井から吊るされた魔導灯が、柔らかな光を落とし、室内を均一に照らしている。

 石造りの壁には防音と魔力遮断の術式が刻まれ、外界の音を完全に遮断していた。


 段状に並ぶ座席には、すでに多くの学生が着席している。


 羽ペンを整える者。

 魔導端末を起動する者。


 直前まで談笑していた声も、教師の姿が見えると次第に静まっていった。


 講壇に立った教師は、黒板に魔力で淡く光る線を描きながら語り始める。


 魔力循環理論。

 詠唱と魔力制御の関係。

 暴走を防ぐための精神集中法。


 複雑な魔法陣が、次々と黒板に浮かび上がっていく。


 アリスは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで板書を追っていた。

 ペン先は迷いなく走り、要点を正確に書き留めていく。

 重要な箇所には小さく印を付け、後で見返せるよう整理している。


(……ここの流れ、実技でも使える)


 頭の中で、午後の演習を想定しながら理論を組み立てる。

 ただ覚えるのではなく、実戦に結びつけて理解する。

 それが、今のアリスの学び方だった。


 かつては、力に振り回されることも多かった。

 思うままに魔力を放ち、結果として制御を失うこともあった。


 だが今は違う。


 一つひとつを、自分のものにするために。

 地道な積み重ねを、決して怠らない。


 教師の問いかけにも、迷いなく答える。

 周囲の視線を集めても、もう動じることはなかった。

 それは、努力の積み重ねが生んだ自信だった。


 昼休み。

 二人は中庭のベンチに並んで腰掛けていた。

 芝生の向こうでは、学生たちが思い思いに昼食を広げている。

 冬の名残を残した風が、頬を撫でる。


「はぁ……」

「ため息つきすぎ」

「午後かあ……」

「嫌いじゃないでしょ?」


 少し考えてから、アリスは小さく笑う。


「……強くなれる感じは、好き」

「ふふ、アリスらしい」

「私は、そんなアリスが好きよ」

「急に何」

「本音」

「……ずるい」


 頬を染めながらも、アリスは静かに微笑んだ。


――午後。

 演習場。

 広大な砂地を囲む防護結界が、淡く脈動している。

 外周の魔導石が周期的に光り、内部の魔力濃度を一定に保っていた。

 結界の表層には細かな光の粒が浮かび、風に煽られた砂塵が触れるたび、薄い水面のように波紋が走る。

 観覧席には教官と学生が列を作り、ざわめきはあるのに、中央の砂地だけが別世界みたいに静かだった。

 乾いた砂を踏むたび、微かな音が響く。

 靴底が砂を噛む感触が足裏に伝わり、踏み込みの角度一つで滑るか止まるかが決まる。

 空気には魔力特有の金属臭が混じっている。

 詠唱の前兆が漂うたび、舌の奥にわずかな苦味が触れた気がした。

 整列する両班。

 互いの距離。

 呼吸の速さ。

 握りしめる指先の白さ。

 ほんの小さな違いが、これからの数十秒を決める。


「――開始!」


 号令が落ちた瞬間、空気が乾いた音を立てて弾けた。

 張り詰めていた結界内の魔力が一斉に動き出し、視界の奥で光が走る。

 光弾が交差するたびに、砂地の表面が薄く削られ、粉塵がふわりと舞い上がった。

 詠唱音と結界音が重なり、演習場は一瞬で戦場へと変貌する。

 視界の端で光が裂け、衝撃の余波が砂を巻き上げる。

 肌を撫でる風が熱を帯び、喉の奥が乾いた。


 敵班は即座に陣形を組む。

 前衛二名。

 中衛詠唱役。

 後衛射撃役。

 完成度の高い布陣だった。

 前衛が半歩ずつ角度を変えて盾と剣の影を広げ、後衛は射線を確保しながら距離を保つ。

 中衛はすでに詠唱の型に入っていた。

 魔力の集束が、はっきり見える。


「前衛が厚い。盾は内寄り、剣は誘い。中衛はもう立ち上がってる。後衛、射線が通ってるよ。あれ、正面突破を狙ってくる」

「了解。最初は受ける。正面の圧を受けて、隙を作る。アリス、私が合図したら一気に詰めて」

「うん。レティア、いつも通りに」

「いつも通り、ね。なら遠慮なく支える。アリスは前だけ見て。左右と後ろは私が全部拾う」


 レティアの声は落ち着いているのに、鋭かった。

 アリスの視界が狭くならないよう、言葉が情報だけを運ぶ。

 そして、その情報の速度が、すでに武器だった。


「右!」

「見えてる!」

「後ろ詠唱!」

「任せて!」


 三発の高出力弾が一直線に迫る。

 一直線、というより、同じ一点へ収束する三重の矢だ。

 逃げ場を潰し、結界を砕くための組み立て。

 光は眩いのに輪郭が鋭く、熱を帯びた風圧が先に頬を叩いた。


「レティア!」

「了解!」


 淡い結界が展開され、衝撃を吸収する。

 レティアの指先が小さく動き、結界の厚みが瞬時に調整された。

 内側の膜が先に受け、外側の膜が遅れて追随し、衝撃を分散していく。

 膜と膜の間で衝撃がほどけ、爆ぜる音だけが遅れて響いてくる。


 ――ドンッ!


 結界が大きく揺れる。

 砂が跳ね、光がにじむ。

 だが破れない。

 レティアの肩がわずかに沈み、踏ん張った足元の砂が抉れた。


「……っ、重い。でも持つ!」

「二発目、来る!」

「わかってる。重ねる!」


 二重、三重。

 淡い光が幾層にも重なり、衝撃を呑み込む器になる。

 レティアは息を乱さない。

 乱せば結界が揺らぐ。

 揺らげば、アリスの踏み込みの道が消える。

 結界の縁で光が波打つたび、彼女は指先だけで位相を滑らせ、揺れを噛み潰すように整えていく。


「今なら行ける。アリス、今!」

「……今!」


 アリスは一気に踏み込んだ。

 重心を低く落とし、足裏で砂を掴む。

 無駄な跳躍はしない。

 最短距離で、敵前衛へ迫る。

 砂の抵抗を計算し、膝の角度を保ったまま速度だけを上げる。

 視界の端で、レティアが結界を維持しながら、次の干渉術式を編み上げているのが見えた。


 敵も迎撃態勢を取る。

 訓練用剣が構えられ、刃が交差する距離へ。

 盾の角度が変わる。

 剣先がわずかに沈む。

 踏み込みを誘う罠だ。

 相手の肩が沈み、踏み込みの軸が前に乗ったのが見える。


「来るぞ!」


 縦薙ぎ。

 全力の一撃。

 刃が振り下ろされる瞬間、空気が裂け、砂が弾ける。

 切っ先が作る風圧が頬を打ち、音より先に危険が来た。


 アリスは正面から受けない。

 半歩、外へ。

 身体を捻り、刃を滑らせる。

 受けるのではなく、流す。

 衝撃を腕に溜めず、刃の角度で逃がし、相手の力をそのまま地面へ落とす。


 ――キィンッ!


 金属音が弾ける。

 硬い響きが胸の奥にまで届き、砂地に細かな振動が走った。


 同時に、返す。

 横薙ぎ。

 敵は慌てて盾で防ぐ。

 だが、その盾の縁を正確に叩く。

 衝撃は一点へ集中し、相手の腕に鈍い痺れを走らせる。


 二撃目。

 三撃目。

 刃の軌道は円を描き、盾と剣の接合部を狙う。

 踏み込みながら連続で剣線を重ね、間合いを殺し、呼吸を奪う。

 足の運びは小刻みで無駄がない。

 相手の足場を奪うように、砂を蹴る位置をずらす。

 砂が滑った瞬間、相手の膝がわずかに割れ、重心が遅れる。


「くっ……!」


 敵が後退する。

 そこに、もう一人が斬り込む。


「左、挟む!」

「見えてる!」


 左右からの挟撃。

 だが、アリスは冷静だった。

 後方へ跳ばず、前へ出る。

 敵の懐へ潜り込む。

 振り下ろされた刃の内側へ身体を滑らせ、刃が通るはずだった空間を空にする。


 柄頭で打ち、体勢を崩す。

 狙うのは肘。

 刃を振るための関節を叩く。

 骨が軋む音が鈍く響いた。


 同時に斬り上げ。


 ――ガンッ!


 防護障壁が軋む。

 透明な膜が歪み、光が乱反射する。

 硬い抵抗が刃に返り、しかし刃筋は乱れない。


「なっ――!」


 アリスは剣を反転させる。

 魔力を刃の芯へ集中。

 剣と魔術を同調させる。

 流れ込ませるのではなく、押し固める。

 芯を作り、揺らがせない。


 ――圧縮。

 ――固定。


 突き。


 ――ズンッ!!


 衝撃が内部で爆ぜる。

 外側の膜は破れない。

 だが内側の判定術式が反応し、赤い光が走る。

 前衛一名、戦闘不能。


「前衛、崩れた!」


 もう一人が目を見開く。

 視線が一瞬、仲間へ向く。


「動揺した、右に逃げる!」

「合わせる!」


 アリスは体幹を軸に回転する。

 腰を切り、刃を横一文字に走らせる。

 遠心力に任せず、最後の一瞬で手首を締める。


 ――バキィッ!


 障壁粉砕。

 光が弾け、砂が跳ねる。

 二人目も膝をつく。


「前衛、無力化!」


 敵陣が大きく乱れる。

 前衛が消えたことで、後衛の射線がむき出しになる。

 中衛の詠唱が途切れる。


「距離を取れ!」

「後退しろ!」


 叫び声が重なる。


「レティア、干渉お願い!」

「了解!」


 レティアが杖を振る。

 結界を維持したまま、位相を滑らせる。

 二系統同時制御。

 汗が一筋、頬を伝う。


「詠唱回路、崩す!」


 干渉波が走る。

 中衛の足元に展開しかけた魔法陣が歪み、線が途切れる。


「詠唱が……!」


 魔力が散る。

 砂の上に光の破片が落ちる。


 アリスは走る。

 剣を低く構え、重心を前へ。

 敵後衛へ一直線。


 迎撃弾が放たれる。

 軌道は三本。

 一つは正面。

 一つは右。

 一つは足元を狙う。


「右二発、足元一!」

「わかってる!」


 アリスは身体を沈める。

 足元の弾を跳び越えず、踏み潰すように蹴って軌道を逸らす。

 正面弾を剣で弾き、刃に乗せた角度で外へ逃がす。

 右弾を肩を沈めてやり過ごす。

 熱風が頬を掠め、砂が舞い上がり、視界が一瞬白く霞む。


 ――キンッ、ガンッ!


 距離が、完全に詰まった。

 あと三歩。

 いや、二歩。

 後衛の目が、はっきりと見開かれる。

 逃げ場を探すように視線が泳ぎ、半歩だけ後退する。

 だが、その足はすでに砂に取られていた。

 詠唱を組み直す余裕もない。

 迎撃の構えも間に合わない。

 ――詰み。

 アリスは、その動揺を一瞬で読み取る。


「……終わりです」


 静かな声。

 だが、そこに迷いはなかった。


 踏み込み。

 砂を蹴り、地面を滑るように距離を潰す。

 身体が前へ投げ出される感覚すら利用して、速度を乗せる。


 連撃。


 一閃。

 右肩口を狙い、防護膜の薄い部分を裂く。


 二閃。

 返す刃で脇腹を薙ぎ、魔力供給の流れを断つ。


 三閃。

 体勢を崩した瞬間を逃さず、膝裏へ鋭く走らせる。


 剣の軌道には、一切の無駄がない。

 見せるための動きはない。

 すべてが「倒すため」だけに最適化されていた。


 後衛の身体が大きく揺らぐ。

 防護膜が悲鳴を上げ、光が乱れる。


 ――まだ終わらない。


 アリスは息を吸い、止める。

 意識を一点へ集中させる。


 最後に、渾身の突き。


 足裏に込めた力を、逃がさず上へ通す。

 膝から腰。

 腰から背。

 背から肩。

 肩から肘。

 肘から手首。

 すべてを一本の線に揃え、刃へと集約する。


 世界が、わずかに静止したように感じられた。


 ――ドォンッ!!


 低く重い衝撃音が響く。

 突き込まれた瞬間、防護膜の内側で魔力が爆ぜた。

 衝撃が内部を駆け巡り、身体の芯を貫く。


 砂煙が爆ぜる。

 視界が白く染まり、風が巻き起こる。


 やがて。


 煙が晴れた先に、後衛は崩れ落ちていた。

 剣を取り落とし、力なく砂に伏す。

 防護膜は完全に沈黙し、判定光が赤く灯る。


 敵後衛、戦闘不能。


 演習場が、嘘のように静まり返る。

 先ほどまでの轟音が、遠い記憶のように消えていた。


 倒れ伏す敵班。

 前衛も、中衛も、後衛も。

 誰一人として立ち上がれない。


 全員、戦闘不能判定。


 数拍の沈黙のあと。

「勝者、アリス班!」


 審判の声が、高らかに響き渡った。


 演習終了の合図が響いてから、しばらくのあいだ。

 演習場には、妙な沈黙が残っていた。

 ざわめきはある。

 囁き声も聞こえる。

 だが、それらはすべて、どこか抑えられている。

 まるで。

 今しがた目の前で起きた出来事を、まだ現実として処理しきれていないかのように。


 結界の内側を満たしていた熱と光はゆっくりと冷め、砂の上に落ちた魔力の残滓が薄い陽炎のように揺らいでいた。

 遠くでは救護係の号令が短く飛び、担架の木枠が砂を擦る音が乾いた空気に混じる。


 倒れ伏した敵班の学生たちは、救護係により次々と搬送されていく。

 訓練用とはいえ、内部衝撃は決して軽くない。

 防護障壁が守るのは致命傷だけで、打ち込まれた衝撃や痺れ、呼吸を奪う圧はそのまま身体に残る。


 運ばれていく学生の表情は悔しさと放心が入り混じり、唇を噛みしめて目だけを閉じる者もいれば、まだ状況が飲み込めずに虚空を見つめ続ける者もいた。


「……すご……」

「いや、あれは……」

「四年次生の動きじゃない……」


 観覧席のあちこちから、抑えきれない声が漏れ出す。

 誰もが大声で騒ぐことを躊躇している。

 騒いだ瞬間に、さっきまでの緊張と衝撃が崩れてしまうのが怖いかのように。


 それでも、視線だけは一斉に同じ場所へ集まり続けていた。


 砂地の中央。

 勝者側の立ち位置。


 アリスは、剣を鞘へ戻しながら、ゆっくりと息を整えていた。

 鞘へ収める金属音は小さく、だが妙に澄んで響いた。


 胸はまだ高鳴っている。

 指先には、わずかな痺れが残っている。

 手のひらの感覚がほんの少し遅れて戻ってくる。

 汗がうなじを伝い、制服の襟元がわずかに湿っていた。


 だが。

 不安はない。

 やるべきことは、すべてやった。

 そう言い切れるだけの戦いだった。


「……はあ……」


 小さく息を吐いた瞬間。


「アリス」


 横から、穏やかな声がかかる。

 振り向かなくてもわかる距離。

 間合いに入ってくる足音の癖。

 いつもの、親友の気配。


「大丈夫?」

「うん。ちょっと疲れたけど……問題ない」

「ほんとに?」

「ほんと」


 レティアは、じっとその顔を覗き込む。

 蒼い瞳の焦点。

 呼吸の速さ。

 肩の上下。

 指先の震え。

 見逃すまいとする視線は、優しいのに鋭い。


「……無理してない?」

「してないって」

「今の『してない』は、いつもの『してない』?」

「やめて。そんな分類しないで」

「する。長年のデータがある」

「雑……」

「正確」

「ひどい……」


 アリスは苦笑しながら、肩をすくめた。

 その動きに合わせて、まだ熱の残る筋肉がわずかに張る。

 だが痛みはない。

 制御の範囲内。


「でも、さ」


 レティアは視線を演習場全体へ向ける。

 結界の外周で光っていた魔導石が、ようやく脈動を弱めていく。

 係員が砂をならし始め、さっきまでの戦場の痕が少しずつ消えていく。


「今の、すごすぎた」

「そうかな……」

「そうかな、じゃない。完全制圧だった。前衛を崩して、詠唱を止めて、後衛の射線まで潰して……一つも無駄がなかった」

「……夢中だっただけ」

「それが一番すごいの。夢中で、あそこまで冷静にやれるのは、普通じゃない」


 その言葉に、アリスはわずかに目を伏せる。

 褒められることに慣れていないわけではない。

 だが、レティアの声で言われると、胸の奥の柔らかいところをそっと押される。


「……ありがとう」

「うん。言っとく。今日のあなた、最高に格好よかった」

「やめて、恥ずかしい」

「やめない。私は言う」

「……強引」

「親友だから」


 アリスは思わず口元を緩め、そして誤魔化すように視線を逸らした。

 砂の上に残った自分の足跡が、短い列になっている。

 そこに、勝った実感がようやく追いついてきた。


 その時だった。


「アリス・グレイスラー」


 低く落ち着いた声が、背後から響く。

 空気がわずかに引き締まる。


 二人が振り返ると、そこには演習担当の教官が立っていた。

 年若くもなく、老練すぎることもない、壮年の魔術師。

 鋭い眼光が印象的な人物だった。


 視線の重みが、ただ見ているだけで評価していることを示している。


「はい」


 アリスは背筋を伸ばす。

 呼吸を整え、姿勢を正し、剣の位置を確認する。


「今の戦闘について、少し話がある。来なさい」

「……はい」


 レティアは、そっと囁く。


「行ってらっしゃい。変なこと言われたら、後で私が噛みつく」

「噛みつかないで」

「噛みつく。必要なら」

「必要ない方向でお願いします」

「善処する」

「そこは確約して」


 アリスは小さく息を吐き、教官の後に続く。

 演習場の外周を抜け、石造りの回廊へ向かう。

 砂から石畳へ変わる足音が、場の空気を切り替えていく。


 控室。

 石造りの小部屋。

 窓から差し込む光が、机の上を斜めに照らしている。

 室内には紙とインクと魔導具の匂いが混じり、演習場とは違う静けさがあった。


 扉が閉まる音が短く響き、外のざわめきが遠のく。


「……まず」


 教官は椅子に腰掛けながら言った。

 視線は外さない。

 だが敵意はない。

 ただ、事実だけを測る眼。


「見事だった」


 一拍。


「文句のつけようがない」


 アリスは、わずかに目を見開く。

 心臓が小さく跳ねる。

 それでも、顔には出さないようにする。

 評価される場で、浮つくわけにはいかない。


「ありがとうございます」


「特に評価したいのは三点だ」


 教官は指を立てる。


「第一に、魔力制御。無駄がない」

「第二に、戦況把握。視野が広い」

「第三に、連携。味方を完全に活かしている」


 静かな口調。

 だが、その一つひとつに重みがあった。


 それは褒め言葉であると同時に、次の段階へ進む者へ与える責任の宣告でもある。


「正直に言おう」


 教官は、アリスをまっすぐに見据えた。


「君は、すでにこの学年では頭一つ抜けている」


 胸が、小さく跳ねる。


「……っ」


「だが」


 一拍。


「特別演習は、誰でも推薦されるわけではない」

「はい……」

「原則として、四年次から参加できる学年末武術競技会」

「そこで、上位入賞を果たした者だけが、正式な推薦対象になる」


 静かな声で、はっきりと告げられる。

 条件は明確で、逃げ場がない。

 同時に、道筋が見えた。


「君なら、十分に狙える位置にいる」

「だからこそ、気を抜くな」

「結果を出せば、道は開ける」


 アリスは、思わず息を呑んだ。


「……学年末、武術競技会……」


「そうだ」


 教官は、わずかに口元を緩める。

 それは励ましというより、試験官が受験者に課題を渡す時の表情に近い。


「簡単な舞台ではない」

「だが、今日の戦いを見る限り――期待している」

「慢心するな」

「だが、目標にはしていい」


「……はい」


 力のこもった返事だった。


「必ず、頑張ります」


 教官は、満足そうに一度だけ頷いた。


「それでいい」


 そう言って、教官は立ち上がった。


「以上だ。戻っていい」


「ありがとうございました」


 深く一礼し、部屋を出る。

 廊下へ出た瞬間、外の空気が少し冷たく感じた。

 演習場の熱と緊張が、扉の向こうに置いてきたもののように遠い。


 「どうだった!?」

 待ち構えていたレティアが詰め寄る。

 一歩が近い。

 顔も近い。

 さっきまでの凛とした支援役の顔ではなく、完全に親友の顔だった。


「ちょ、近い……」

「いいから。褒められた? 怒られた? 変なこと言われた?」

「……褒められた」

「だけ?」

「学年末武術競技会で上位になれば推薦されるかもって」


「……え?」


 一瞬の沈黙。

 レティアの瞳が細くなり、次に、納得したように息を吐く。


「……やっぱり」

「え?」

「そうなると思ってた」

「そんな簡単に言わないで……」

「簡単じゃないよ。でも、必然。今日の戦いは偶然じゃない」


 レティアは微笑む。

 その笑みは、勝手な楽観ではなく、隣で積み重ねを見続けてきた者の確信だった。


「アリスが積み重ねてきた結果」


 その言葉が、胸に沁みる。

 褒められたことよりも、信じられていることの方が、心を軽くする。


 更衣室へ向かう途中。

 すれ違う学生たちの視線が、いつもと違うことに気づく。


 驚き。

 尊敬。

 畏怖。

 そして、距離を測るような慎重さ。


 さっきまで同じ場で訓練していたはずなのに、今は違う生き物を見ているみたいな目。


「……見られてる」

「有名人だね」

「やだ……」

「今さら」


 レティアはそう言って、肩をすくめる。

 冗談めかした仕草の奥に、どこか誇らしげな色が滲んでいた。


「……やだなあ」


 アリスは小さく呟きながら、視線を落とす。

 頬が、わずかに熱を帯びているのが自分でもわかる。


「でも」


 レティアは歩調を合わせ、隣に並んだまま続けた。


「私は、ちょっと自慢してる」

「……なにを」

「親友が、すごい人になりつつあること」

「やめてってば……」

「やめない」


 即答だった。


 アリスは困ったように笑い、そして、ほんの少しだけ胸を張る。

 誰かに誇られることが、こんなにも温かいものだとは、知らなかった。


 夕暮れの光が回廊を染め、二人の影を長く伸ばしていく。

 その先に続く道は、まだ見えない。


 けれど。

 隣にこの人がいる限り。

 どんな舞台でも、きっと歩いていける。


 アリスはそう、静かに思いながら、次の一歩を踏み出した。


 夕暮れ。

 校舎はゆっくりと橙色に染まり、石造りの壁や回廊の柱に、長い影を落としていた。

 西日を反射する窓ガラスが淡く輝き、遠くでは下校する学生たちの足音が微かに響いている。

 寮に戻り、制服を脱ぎ、簡単に身支度を整える。

 汗と砂の匂いを洗い流し、軽く食事を済ませたあとも、アリスはすぐには休まなかった。

 机の前に腰を下ろし、ランプに火を入れる。

 淡い光がノートと指先を照らす。


 戦闘記録。

 反省点。

 改善案。


 一つずつ、丁寧に書き出していく。

 ペン先が紙をなぞるたび、さらさらと小さな音が静かな室内に溶けていった。


「……ここ、もう少し早く動けたかも」


 眉を寄せ、ノートを覗き込みながら呟く。


「前衛を抜いたあと、間合いを詰めるまで、ほんの一拍遅れた気がする」

「あと、二人目に対応するときも……角度、もっと詰められたかもしれない」


「真面目すぎ」


 ベッドに腰掛けていたレティアが、くすっと笑う。


「もう十分すぎるくらい完璧だったでしょ」

「周り、みんな呆然としてたよ?」


「だって……」


 アリスはペンを止め、少し困ったように視線を伏せる。


「もっと良くできたかもしれないって思うと……放っておけなくて」

「次は、絶対に、もっと上手くやりたいし……」


 レティアはゆっくり立ち上がり、アリスの背後へ回る。

 肩越しにノートを覗き込みながら、穏やかに言った。


「だから強いんだよ」

「できたことで満足しないで、次を見るから」

「それ、才能よりずっとすごい」


「……そうかな」

「そう」

「私は断言する」


 アリスは、少し照れたように微笑んだ。


 ノートを閉じ、アリスはベッドに腰を下ろして天井を見上げた。

 白い天井板に映るランプの光が、ゆらゆらと揺れている。


「……今日、ちょっと変わった」


 ぽつりと零すように呟く。


「今までより、ずっと……重くなった気がする」

「周りの視線も、評価も……」


「うん」


 レティアは静かに頷く。


「でも……怖くない」

「でしょ」

「……うん」

「レティアがいるから」

「当然」


 即答だった。


「これからも、ずっと隣にいるに決まってるでしょ」

「逃がさないし」


「……それ、ちょっと怖い」

「今さら」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 アリスは、ゆっくりと目を閉じる。


 評価が変わる。

 立場が変わる。

 期待が重くなる。


 それでも。

 ――前へ進む。


 そう、静かに心に誓いながら。



 夜。

 窓の外には、澄んだ星空が広がっている。

 遠くで風が木々を揺らし、葉擦れの音がかすかに届く。


 部屋に戻ったアリスは、もう一度机に向かい、復習と予習を重ねる。

 昼間の戦闘を思い返しながら、魔力配分や動線を書き込み、細かく修正していく。

 ペン先の音が、再び静けさに溶ける。

 窓の向こうでは、星が瞬き続けていた。


「……明日も、頑張ろ」


 小さく呟き、ノートを閉じる。

 ランプの灯りが消える。

 室内は、柔らかな闇に包まれた。


 少女の一日は終わる。

 そして、また新しい朝へと続いていく。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

累計100話という節目に、少し原点に戻るようなお話を書いてみました。


本編ではすでに大きく動き出しているアリスですが、

こうした“始まりの頃”を描くのも、作者としてはとても楽しい時間でした。


これからも物語は続いていきますので、

本編も引き続きよろしくお願いいたします。


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