8話 訪問者
「大池、勉強頑張ってるんだな。この調子で気を抜くんじゃないぞ」
「あ、はい」
珍しく担任教師に褒められた。
今日は一学期最後の日で成績表が返ってきた。
昨年からコツコツと勉強を積み重ねてきて、少し前に行われた学期末試験ではそこそこの点数を取ることができた。
最近は俺を揶揄する声を聞かないし勉強も捗っていて、それなりに充実した毎日を送っている。
「橘……学期末試験は少し成績を落としていたが……どうかしたのか?」
いつも詩織を絶賛している先生が心配そうに成績表を渡しながら彼女に声を掛ける。
テストで毎回学年一位を取っている詩織の成績が少し振るわなかったらしい。
「あ……部活が忙しかったもので……すみません」
「そうか。部活も大変だろうが受験生なんだし頑張るんだぞ」
「……はい」
翔との交際騒動以来、詩織は明らかに元気がない。
「橘さん、部活で忙しいもんね!仕方ないよ!」
「そうだよ、次は絶対また学年一位になれるよ!」
そんな彼女の様子を見てクラスメイトたちが気を遣い優しい言葉を掛けている。
どうやら今回は学年一位ではなかったようだ。
しかし一位ではないとはいえ、詩織の成績は俺なんかよりも遥かに優秀なはずだ。
……と、詩織と自分を比較しても仕方がない。
俺は元々勉強が得意な人間ではないし……。
そんな俺が野球を辞めてからここまで成績を伸ばせたのは、梅野のおかげと言っても過言ではない。
俺は何気なく少し離れた席に座っている梅野を見る。
すると俺の視線に気がついた彼女は微笑みながらこちらに向かってVサインを送ってくる。
無邪気な笑顔でVサインを見せつけてきた様子から察するに梅野は好成績だったのだろうか?
そんな彼女の表情や行動を見ていると少し心が弾むような……。
そんなふうに感じるのは、最近あいつに親近感を抱いたからだろうと……俺は思った。
♢
「私、初めて橘さんに勝って学年一位になっちゃったよ」
「梅野が今回一位だったのか……すげぇな」
終業式だった今日は午前中で学校を終えて、俺と梅野は帰路に就く。
「橘さん、今回調子悪かったのかな?なんか絵画のコンクールでも落選したって聞いたよ」
「そ、そうなのか……。いつも賞に出す作品は入選しているのに……」
スランプというやつなのか……。
いつも詩織は一つの作品を仕上げるのに1か月は時間をかけている。
油絵具を懸命に丁寧に塗って絵を描いている姿を俺は近くで見てきた。
「気になるの……?橘さんのこと?」
「い、いや……別に」
気にならないと言ったら嘘になる。
しかし、俺なんかが才女である詩織の心配をするなんておこがましい話だ。
俺は自分から詩織と距離を取ったんだ。
今のあいつには……翔が……近くにいるかもしれないし……。
「いよいよ明日から夏休みだね」
「ああ。この休み中に学力を底上げしなくちゃいけないな」
両親からは夏休みに近所の塾で夏期講習があるので行ってみたらどうだと提案されたが、俺は断った。
「本当に良かったの?夏期講習に行かなくて?」
「ああ。塾と言っても集団教育らしいし、俺は個人で頑張るよ。それに……夏休みも勉強教えてくれるんだろう?」
「うん!一緒に頑張ろうね!」
夏休みの期間、梅野が一緒に勉強をしようと誘ってくれた。
彼女が自分の時間を割いて勉強を教えてくれることに申し訳なく思ったのだが……俺は梅野の言葉に甘えてしまった。
俺は梅野と一緒に過ごす時間が……不思議と楽しかった。
♢
毎日猛暑日を記録する暑さの中、夏休みになった。
「ねえ、山田って去年首位打者だよね?打てるかなぁ?」
「いや……この相手の投手だって去年最多勝だからな。難しいだろう」
エアコンが利いて快適な涼しい部屋で俺と梅野は机にテキストとノートを広げて……。
「ほら、やっぱり打ったよ!これで逆転じゃん!」
「マジか……。チャンスに強いな」
テレビの野球中継に釘付けになっていた。
「これで面白くなったきたね!」
「ああ。このまま最終回までいけば頼りになる守護神もいるし……………って、そうじゃない!」
俺はここで我に返った。
ふと視界に入った時計を見てみると、もう夕方の時間帯だ。
今日は朝から梅野が俺の家にやってきて二人で勉強に勤しんでいた。
しかし、お昼を過ぎたタイミングでしばし休憩を取っていた時に魔が差した。
なんとなくテレビをつけると放送していた野球中継に目を奪われて……。
気がつけば3時間ほど経過していたのだった。
「あー!ちょっとテレビ消さないでよ!」
「なに言ってるんだ!?野球なんて見ていないで勉強をしなくちゃいけないだろうが!」
「蓮くんだって夢中になって見ていたくせに……」
俺は気合いを入れ直してテキストを凝視する。
「蓮くん、昔の野球選手の話だけどさ……」
そんな俺のことなんてお構いなしで、梅野はまだ野球の話をしてくる。
俺は一分一秒を惜しんで勉強に取り組まなければならない……。
まあ、さっきまで誘惑に負けてテレビを見ていた俺が言えたことではないのだが……。
「坂口って知ってる?」
「坂口……?あ、ああ。怪我で引退したあの坂口選手か……」
俺が小学生の時にプロ野球で活躍していたその坂口という選手は若くてして怪我により引退した選手だが全盛期の活躍は凄まじいものだった。
「凄かったよね。活躍したのは数年だけだったけど……。私、彼の大ファンだったんだ……」
「そうなのか……。俺も小学生の時は一番好きな選手だったなぁ」
「私ね。その坂口選手のサインボール持ってたんだよ……」
「え、マジか!?」
坂口選手のサインボール……当時の俺は彼に憧れていたから喉から手が出るほど欲しかった記憶がある。
……すごく……懐かしく思う……。
「蓮くんはさ……」
梅野が言葉を続けようとしたところで、ドアホンの呼出音が響き渡った。
「ん、誰だ?」
両親は仕事でいないため、俺は部屋を出てリビングへ向かいドアホンに応答する。
「……はい」
「……あ、あの…………」
少し間を置いて返ってきた優しい声。
ドアホンの液晶画面に映ったそのシルエットから訪問者が誰なのか……すぐにわかった。