7話 共感
授業中や休み時間……ふと気がつくと詩織が俺の方を見ている。
視線を感じた俺が詩織に目をやると、彼女は慌てて目線を逸らして正面を向き直る。
放課後の図書室で勉強をしていると、下校時刻に部活を終えた詩織がよく迎えに来てくれた。
でも今は……彼女が俺に近づいてくることはない。
「梅野、これで合ってるか?」
「えっとね……そうだね。このページの問題は大丈夫だね」
詩織に彼氏ができたと話題になってから数週間が経った。
最初の方は詩織と翔が付き合うようになった経緯などを聞きたがる野次馬が多かったが、今は周囲の興奮も収まっている。
詩織は翔との交際のことについて話をしたがらないので、クラスメイトたちも話題にすることはなくなっていった。
「蓮くん、なんか最近すごく勉強に集中できてるんじゃない?」
「そうか?別にいつもと変わらないけどな」
俺は毎度の事ながら梅野に図書室で勉強を見てもらっている。
「そんなことないよ。テキストの問題も自分でスムーズに解けるようになってきてるし」
確かにここのところ、良い集中力で勉強が捗っている。
目の前の事に集中できるようになっているのは、俺の中にあった雑念が無くなったからだろうか……。
「あの……蓮くん。その……橘さんの話だけど……大丈夫?」
梅野は俺が詩織に想いを寄せていたことを察しているだろうから、気を遣ってくれているのだろう。
「ああ……。まあ……色々と悩んだけど、今は自分のことを頑張るよ」
俺は明るくそう答えた。
これは決して虚勢などではなく俺の本心だ。
詩織と完全に距離を取ってから、俺のことを揶揄するクラスメイトたちの言葉を聞かなくなった。
この現実がすべてを物語っている。
やはり俺と詩織は……相容れない存在だったんだ。
「蓮くんは進路どうするの?大学には行くつもりなんだよね?」
「ああ、今の俺の成績で入れる大学がいくつあるか不安だけどな」
「そんなに悲観することないよ!蓮くんの成績はこれから絶対に伸びていくよ!」
「お、おう……そうだといいな」
俺の進路の不安をかき消すように梅野は激励してくれる。
俺はそんなこいつを見て……前から疑問に思っていたことを口にしてみることにした。
「なあ……梅野。なんで……俺なんかにこんなに良くしてくれるんだ?」
野球というステータスだけが俺の長所だった。
それを失い周囲から嘲笑され……なにも誇れるものがない俺なんかをどうして気遣ってくれるのか、気になっていた。
「もう……だめだよ。『俺なんか』なんて言ったら……」
梅野は優しく微笑みながら言葉を発した。
「そろそろ下校時間だね。帰ろうか」
「え……あ、ああ」
彼女は俺の質問には答えずに鞄を持って立ち上がった。
俺もテキストやノートを鞄に片付けて梅野と共に図書室を出る。
「ちょっと……寄り道してもいい?」
「寄り道?」
帰りにどこか寄りたい場所でもあるのだろうか。
靴を履き替えて学校を出るのかと思いきや、梅野は校門には向かわずに野球部が使用しているグラウンドへ歩を進める。
「ねえ、野球で使う備品のグラブってあったよね?どこに保管してあるんだっけ?」
「それなら体育倉庫にいくつかあったと思うけど……」
野球部は練習を終えて、もうすでに帰宅しているのかグラウンドには誰にいない。
「ちょうど二つあったよ、グラブ」
不用心にもいつも施錠されていない体育倉庫からグラブを二つを拝借した梅野はそれとボールを俺に手渡してくる。
「おい、もしかしてキャッチボールでもする気か?」
「うん、そうだよ。勉強ばかりしてないで、たまには体を動かさないと」
梅野は俺から少し距離を取ってグラブを構える。
「140キロのストレート見せてよ」
「馬鹿言うなよ……。俺がまともに投げられないの知ってるだろうが」
俺が肩を壊して野球を辞めたことは、こいつだって重々承知の上だろうに。
「いいから早く投げてよ!」
急かしてくる梅野を前に、俺はため息をついてからボールを握る。
ボールを投げるのなんて一年ぶりだろうか。
俺は故障している肩を気遣いながらボールを梅野に向かって投じる。
俺と梅野の距離は10メートルもない。
このぐらいの距離なら届くと……思っていたが……。
ボールは5メートルあたりで地面に落下して……そのまま梅野の前まで転がっていく。
「これだと……グラブいらないね」
「だから言っただろうが。俺は投げられないんだって……」
肩に痛みが走らないように軽く投げたのだが……この短い距離ですら届かなかった現実に俺は今更ながら落胆した。
「おーい蓮くん。なにぼーっとしてるの?今度は私が投げるよ」
「もういいだろう?キャッチボールがしたいなら他の奴とやれよ」
俺の気持ちなんて梅野にはわからないんだろう。
野球にはとっくにケジメをつけたはずなのに……。
怪我をした自分が憎らしい……悔しい。
1年が経った今でも未練が俺の中には残っていたんだ。
「私ってさ、学校の成績も良いけど……運動の方が得意なんだ」
「知ってるよ……自慢か?」
梅野は成績優秀な優等生だが運動神経が良いことも学内で有名な話だ。
陸上部の部員より足が速かったり、持久走でも男子並みにスタミナがあるって話も聞いたことがある。
「でもさ……私、球技って苦手なんだ……」
「そうなのか?たしかにおまえが球技が得意って話は聞いたことがないな」
「うん……でもね、好きなんだ……野球が」
そう言った梅野は投球モーションに入った。
足を上げた美しいフォームで右手からボールが放たれる。
それはとても洗練された動きで一目で経験者のそれだとわかる。
しかし……投じられたボールは、さっき俺のボールが落ちた位置と全く同じ場所に落下した。
そしてそのまま……俺のところまでゆっくりとボールが転がってくる。
「梅野……」
「私……中学の時まで野球やってたんだ。男の子の中に交じって……。その時に……ね」
「肩を痛めたのか……?」
梅野は静かに頷いた。
こいつは……俺と同じだったのか……。
「去年の蓮くんの最後の試合……。私、応援してたんだよ。でも……残念な結果になってしまって……」
試合に負けたことではなくて……俺が肩を痛めてしまったことを言っているのだろう……。
「同情ではないと思うよ。ただ私は……蓮くんの痛みや苦しみを理解できるから……」
同情ではなく共感……。
きっと梅野はそう言いたいのだろう。
だって俺が今、梅野に対して……そう感じているのだから。
「そっか……俺たち、似た者同士だな」
「ふふっ、そうだね」
怪我をしてから野球のことを思い出すのが辛かった。
でも今は少し違う。
「帰ろうか」
「ああ」
俺と梅野はグラブを倉庫に戻してから学校を出た。
なんだか清々しい気持ちだ。
孤独だった俺の心が……少し和らいだような……。
「ねえ、ファミレスに寄ろうよ」
「また行くのか?少し前にも行っただろう?」
「何言ってるの?前に行ったときは蓮くんが奢ってくれるって話だったのに、結局私がお会計したんだよ?」
「うっ……わるい、そうだったな……」
あの時、詩織に会いたくて慌てて学校に戻ったから、飯を奢るという約束は果たせていなかった。
「わかったよ。あまり高いものは注文するなよ」
「ふふっ、どうしようかなー?」
梅野は楽しそうに笑みを見せる。
最近思い悩むことが続いていたこともあってか、彼女の笑顔を見ていると自然と心が落ち着く。
本当の意味で、梅野とは気心の知れた友人になれた気がした。