6話 冷めた心
今日は朝から教室が騒がしい。
学校で一番の有名人で才女でもある詩織に彼氏ができたと、大きな噂になっていた。
「橘詩織に彼氏ができたらしいよ」
「え!?あの橘さんに彼氏?誰なの?」
「ほら、野球部のエースでキャプテンをしている───」
昨日、図書室で詩織と翔が親しげに話をしているのを目撃した。
そして……その会話の内容も……。
俺は大きな勘違いをしていた。
俺と詩織の幼馴染という関係は特別であると……。
しかし現実は……まったく異なるものだった。
俺は詩織に……嫌われている。
ではなぜ…………詩織は俺に対して優しく振舞ってくれるのだろう……。
その理由もわかっている。
詩織は本当に心の優しい人間だ。
幼馴染である俺のことが……放っておけなかったのだろう。
単に俺は……同情されていただけなんだ。
怪我をして野球を辞めて、何もないちっぽけな俺のことを心配してくれていたのだ。
その詩織の優しさを……俺は何か特別なものだと勘違いして……。
本当に情けない。
「あ!橘さん、おはよう!」
登校してきた詩織が教室に入ってきたことで多くのクラスメイトが視線を彼女の方へ向ける。
「お、おはよう……皆どうしたの?」
詩織は自分のことが噂になっていると知らないのか、少し戸惑っているように見える。
「橘さん!おめでとう!」
「ついに彼氏ができたんだね!」
クラスメイトたちが大いに盛り上がりを見せており、お祝いの言葉が飛び交う。
「え……え……?か、彼氏って……?」
詩織はこの状況を呑み込めていないのか困惑の表情でクラスメイトたちに言葉を返す。
「もう橘さん、とぼけなくてもいいよ。皆知ってるんだから」
「そうそう!野球部の岡部くんと付き合ってるんでしょ!?日曜日にデートしてたみたいだし」
「昨日も図書室で二人仲良くお話してたって話題になってるよ!」
どうやらそういう事らしい……。
日曜日に詩織と翔が一緒に出掛けていたところをクラスメイトや同級生に見られていたのだろう。
昨日の図書室で二人が隣同士座って会話をしていたところも……。
「ち、違うよ!私……岡部くんとは別に付き合ってなんか!」
詩織は珍しく大きな声を上げた。
自分のことでこんなにも騒ぎになっているので、驚きを隠せないのだろう。
「別に隠さなくてもいいよ!二人が付き合ってることはわかってるんだから!」
「そうだよ。さっき岡部くんにも『橘さんと付き合ってるの?』って聞いたけど、彼は頷いていたよ」
「そ、そんな……」
才女である詩織はこれまで男と浮ついた話が皆無だったため、この状況にクラスメイトたちの興奮は収まらない。
詩織は……動揺している。
翔と付き合っていることが周知の事実となってしまったことに……。
当然だ……。
今まで男と会話をしていることすらほとんど無かったというのに、彼氏ができたことがオープンになってしまったのだから……。
「野球部のエースの岡部くんと才女の橘さん、お似合いだよね!」
「うんうん!スポーツ選手と芸術家の最強の組み合わせじゃないの!?」
少し離れたところで自席に座っている俺はクラスの様子を横目で傍観していた。
「だ、だから……岡部くんとは、そんなんじゃ……」
そう否定する詩織の声が弱弱しい。
クラスがさらに騒がしくなったその時、詩織と俺の目が合う。
彼女は目を大きく見開いて、俺に何かを言っているように見えるが……周囲の雑音がうるさくて聞こえない。
俺は詩織から目を逸らして椅子から立ち上がり、騒がしい教室を出た。
予鈴までまだ少し時間がある。
このままあの教室にいるのは……辛い。
俺はそのまま校舎を出て、野球部のグラウンド前に佇む。
野球部の部員たちは、もう朝練を終えて今は誰もいない。
静かで、爽やかな風が吹いている。
野球も……初恋も……失った。
寂しいくて……悲しい……はずなのに……。
でも……なんだろうな、この気持ちは……。
「蓮!」
黄昏ていた俺を誰かが呼んだ。
息を少し切らしながら慌てた様子でこちら駆け寄ってきたのは……詩織だった。
「詩織……」
「蓮……そ、その……」
詩織は焦った表情をしているが、それとは対照的に俺は冷静だった。
「翔と……仲が良いんだな……」
「ち、違う、違うの!」
「でも……一緒に美術館に行ったり……してただろう?」
「それは……成り行きで……」
詩織は口籠る。
昨日聞いた詩織の発言がショックだった。
「翔は……いいやつだよ。詩織ともお似合いに見えるよ」
「だから、私たちはそんな関係じゃなくて!」
嫌い……。
確かに詩織は俺のことを『嫌い』と言った。
それ聞いた瞬間……俺の中で何かが砕ける音がした。
きっとそれは……幼少期から想い続けた詩織に対する恋心。
「詩織……今まで……ごめん」
「な、なに……」
「俺が野球を辞めてから、たくさん気を遣ってもらって」
「そ、そんなこと……」
詩織は翔とは付き合っていないというような言い回しをしている。
でも……もはやそんなことはどうでもいいんだ。
「もう……」
詩織が翔と付き合っていても、そうではなくても……俺には関係ない。
「もう……俺のことは気にしてくれなくていい」
今の俺は詩織のことが好きだという気持ちよりも、もう詩織のことで思い悩まなくて良いんだという安堵の方が勝っている。
だから俺は……。
「もう俺にかまわないでくれ」
「な、なんで……ち、違うんだよ蓮。私には彼氏なんか……」
俺は首を横に振る。
詩織に彼氏がいるかどうかなんて関係ない。
「もう俺に関わらないでくれ」
だから俺は……詩織を突き放す。
お互いにこれ以上思い悩まないでいいように……。
「なんで……そんなこと言うの…………私たちは……」
詩織はまだ何か言いかけていたが、俺はそれを待たずに速足でその場を離れた。
詩織に対する恋心は断ち切れたはずなのだが……とんでもない喪失感が俺を襲う。
これまで幼馴染としてたくさんの時間を共有してきた。
その関係を俺は今……終わらせたんだ。
後方から微かに詩織の声が聞こえる。
詩織の泣いている声が……。
詩織も俺と同じように喪失感のようなものを感じているのだろうか……。
「ごめん……詩織……」
俺は振り返ることなく、詩織を置いて一人で教室へと戻った。




