2話 劣等感
「おーい、蓮」
図書室から出て適当に校舎を歩いていると俺の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「翔か。部活終わったのか?」
「ああ、今から帰るところなんだけど……一緒に帰らないか?」
彼は、岡部 翔。
野球部に所属していて俺が退部した後にエース番号を引き継いで、今ではキャプテンも務めている。
「いや……」
さっき詩織にも一緒に帰ろうと誘われたのに、それを断って翔と帰るのも気が引ける。
「その……ちょっと相談したいことがあって、さ」
「まあ、少し話すだけなら」
少し思い悩んだ表情をしている翔を見て、俺は首を縦に振った。
♢
「こうやって話すのも久しぶりだな」
「ああ……そうだな」
俺と翔はグラウンド前に設置されている自販機でそれぞれ飲み物を買い、そこで立ち話を始めた。
部活をしていた時はよく話をしたものだが、俺が退部してからはあまり接点がないので絡むこともなかった。
いや……本当のことをいうと、俺が野球部の連中を避けてたんだ。
俺が怪我をして野球を辞めたことに気を遣わせてしまうから……。
「それで?話ってなんだ?」
「あ、ああ。その……蓮がまだ野球やってた時って……彼女……よく応援に来てくれたよな」
「彼女?って、誰のことだ?」
「……橘さん、だよ」
「あー……そうだったな」
俺たちの試合がある日、いつも忙しい合間を縫って詩織は応援に来てくれていた。
翔の言い分から察するに、今は応援に来ていないのか……。
「その……蓮ってさ、橘さんと……付き合ってるのか……?」
「え、はあ!?な、なんでそんなこと聞くんだよ!?」
翔の唐突な質問に俺は動揺してしまう。
「いや……おまえと橘さんってよく一緒にいるし……」
「それは……幼馴染だからだよ。別に付き合ってるとか、そんなんじゃない……」
そう……俺と詩織は幼馴染。
それ以上でも以下でもない。
「そうか……そうなんだ……」
「それで?相談っていうのは……詩織のことか?」
ここまでの話を聞くと、察しの悪い俺でもさすがに予想がつく。
「あ、ああ。俺さ、ずっと前から橘さんのことが気になってて……」
詩織は学校一の才女としても知られているが、男子から猛烈にモテることでも有名だ。
こうやって詩織目当てで俺に近づいてくる奴がしばしば現れる。
「蓮、頼む!俺が橘さんにアプローチできるように手伝ってくれないか!?」
「いや、それは……」
俺は平静を装いながら、頭を整理する。
詩織は俺にとって初恋で……想い人……。
一緒にいると楽しい、幸せだ。
でも……最近はそれと同じぐらい……辛い。
「来週の日曜日、野球部の練習が休みなんだ。その日に橘さんをデートに誘いたいんだよ!」
来週の日曜日……?
詩織と美術館に行くと約束した日……。
「この通りだ、頼む!」
両手を合わせて懇願してくる翔の様子から本気で詩織ことが好きなんだということが伝わってくる。
詩織に好意を持っているくせに優秀な彼女と比べて劣等感を抱いている俺なんかより翔はずっと真っすぐに見える。
それに翔は凄くいい奴だ。
薄っぺらい人間の俺なんかより、詩織も翔みたいな奴と一緒にいたほうが……。
いや……それでも……俺は……。
「すまない翔。俺は詩織やおまえのために橋渡しができるような人間じゃない」
「そ……そうか……わるい。こういうことは人に頼らずに自分からアプローチしないとダメだよな……」
俺の言葉に翔は少し冷静さを取り戻したのか、愛想笑いを浮かべた。
♢
「はぁ……肩が凝るなぁ」
今日は土曜日。
学校は休みだが図書室で俺は勉学に勤しんでいる。
家で勉強するよりも学校のほうが緊張感があって集中できる。
「もう昼か。少し休憩するか」
正午になったタイミングで俺はノートを閉じてペンを置いた。
図書室は飲食禁止なので、俺は鞄から弁当を取り出して校舎を徘徊して空き教室を探した。
「あれ、蓮!?どうして学校にいるの!?」
美術室の前を通りかかると詩織とバッタリ遭遇した。
突然の詩織の登場に心臓が高鳴る。
「俺は図書室で自習をしていて……詩織は部活か?」
「うん。本当は今日部活お休みなんだけど、私も作品を仕上げたくて美術室使わせてもらってるの」
「そうか。熱心だな」
「蓮もこれからお昼ごはん?」
「ああ。どこで食べようかと考えていてな」
「じゃあ、一緒に食べよう」
詩織は俺の手を取って、美術室の中に誘導してくる。
不意に手を握られたことでさらに俺の心臓の鼓動は早くなる。
俺は本当に詩織のことが好きなんだと実感する。
二人きりの美術室で弁当を広げて俺たちは食事を始めた。
「なんかさ……久しぶりだね。二人でお弁当食べるの」
「ああ……そうだな」
本当に久しぶりだった。
詩織と何の心の隔たりなく楽しく会話をして、飯を食べて……楽しい。
「それでね。私、志望校の模試がA判定だったんだ」
「すげぇな詩織は。俺も頑張らないとな」
自然と会話が弾む。
二人きりの美術室の空間が一生続けばいいとすら思えてくる。
しかし、そんな俺たちだけの時間は長くは続かない。
「おう、橘さん。こんにちは」
「あ……こんにちは。あれ?みんな今日は部活お休みだけど?」
美術室の扉が開き、やってきたのは3人の女子美術部員たち。
詩織の隣に座っている俺を怪訝な表情で睨んでくる。
「私たちも作品を仕上げたくて来たんだ」
「そ、そっか……」
「あ、私たち食堂で昼食を済ませてくるから。また後でね、橘さん」
そう言い残し美術部員たちはそそくさと去っていった。
「あいつ、大池だっけ?野球部だったよね?」
「うん、なんであんな奴が橘さんと仲良くしてるんだか」
「そうそう住む世界が違うんだから近づかないでほしいよね」
陰口……というには声量が大きい言葉が俺の耳に入ってくる。
勿論、詩織の耳にも聞こえているだろう。
「あ、蓮……明日なんだけど、楽しみだね」
明日、俺と詩織は美術館へ行く約束をしている。
「蓮と二人で出掛けるの久しぶりだよね。お昼はさ、どこで食べようか」
詩織は俺に気を遣ってくれている。
でも……俺は常々思っている。
これ以上、俺が詩織の傍にいると……迷惑が掛かるんじゃなかって……。
……………いや……違うな。
……………本心を言おう。
俺の心が耐えられない。
優秀な詩織と比べて俺なんて……そんなことばかり考える。
詩織と一緒にいると楽しい。
でも、一緒にいると辛い。
そんな矛盾している状況に……俺はもう限界だった。
「し、詩織……」
「ん?なに?」
「その……ごめん。明日なんだけど……行けなくなった」
「え……?」
重い空気が美術室に流れる。
「ちょっと用事ができて……ごめん」
勿論用事なんてものはない。
俺は心の安定を保つために詩織から物理的に距離を置きたかった。
「そ、そっか……。それなら、仕方ない、ね」
しかし詩織はそれを払拭するように言葉を続ける。
「そ、その美術館の展示って来週もまだやってるんだ!だから明日はダメでも来週はどうかな!?私の絵の客観的な感想が聞きたくて!」
「いや……ごめん。来週も……ダメなんだ」
「そ、そんな……」
心が痛い……。
詩織は俺と出掛けることを楽しみにしてくれていたんじゃないのか……?
(いや違うだろ。詩織は絵の感想が聞きたかっただけで、その相手は俺じゃなくても良かったんだ)
「その……野球部の岡部翔って知ってるだろう?あいつ、明日暇だって言ってたんだ。感想が聞きたいなら翔を誘ってみたらどうだ?」
そう言葉発した俺は食べかけの弁当を片付けて立ち上がった。
「じゃあ、俺……勉強があるから」
「ま、待って、蓮!」
詩織の言葉を聞き流して、俺は美術室を後にした。