1話 挫折
今日は30℃以上を記録した炎天下だ。
全身に暑さと緊張の汗をかきながら、俺はキャッチャーとサインを交換する。
アウトコース低めに投げたボールは良いコースに決まり、審判がストライクをコールする。
電光掲示板に140キロの球速が表示され、球場内が少しどよめく。
プロであれば140キロなんて当然のように投げられる球速だろうが、高校2年生が出す記録としてはたいしたものだと自分でも思う。
9回裏2アウトまできたが、満塁のピンチ。
2-1で俺たちのチームがリードしている。
相手の学校は甲子園常連校で、今対峙しているバッターはドラフト候補に挙がっている都内で一番のスラッガーだ。
額から滝のように汗をかく。
球数は120球を超えている。
しかし、俺の体はすごく好調だ。
アドレナリンが出ているおかげなのか、今ならこのバッターを抑えて全国区のチームに勝利することができる。
俺は大きく振りかぶり渾身の力を込めて、ボールを投げた……その時だった。
肩に激痛が走り、俺の投げたボールはすっぽ抜けて……強打者がそれを見逃すはずがない。
打ち頃になったそのボールは快音と共にスタンドの中へ放り込まれた。
球場内が大きく沸く。
相手チームは接戦を勝利したことで喜びを分かち合っているが……。
「お、おい!蓮!大丈夫か!?」
俺は肩を抑えてマウンドに這いつくばる。
強烈な痛みで絶叫する俺の声は、相手チームやその応援団の歓喜の声に搔き消される。
こうして、俺の選手生命は終わった
俺の高校野球が…………………終わった。
♢
「これからテスト返却をするからな。名前を呼ばれたら取りに来い」
憂鬱なテスト返却が始まる。
俺の通う高校はスポーツや学業、芸術など、様々な分野において好成績の学生を育成する進学校だ。
そして俺、大池 蓮は普通科……所謂、進学を目指すコースに所属している。
「大池」
「はい」
俺の名前が呼ばれて、返却された解答用紙を受け取る。
「大池、このままだと進学の選択肢が狭いままだぞ。次は頑張れよ」
「あ……はい」
なにも静まり返っている教室でそんなことを言わなくてもいいのに……。
先生は小声で話しているつもりだろうが、その声は教室にいるすべての生徒に聞こえているだろう。
ヒソヒソと笑う声があちこちから耳に入ってくる。
俺は去年まで普通科のクラスではなくスポーツ科のクラスに所属していた。
これでも2年生にしてエース番号を背負っていて、そこそこ良い選手だったと思う。
でも……夏のあの大会で……俺は肩を壊した。
それはもう、一生野球ができないと医者に言われてしまうほどの怪我だった。
スポーツ推薦でこの高校に入学した俺は部活を続けないのならスポーツ科のクラスにはいられない。
……となると、普通科への編入だが……この学校の普通科は偏差値がかなり高い。
今まで野球しかしてこなかった俺が勉強なんてできるはずもない……。
「橘」
「はい」
でも……俺は頑張った。
編入試験を受けるまでの1か月、中学からの勉強をやり直し、無事普通科の編入試験に合格して今に至る。
「さすがだ、橘!今回も満点だ!この調子で頑張るんだぞ」
俺の時とは真逆な評価を下し、先生はこの女子生徒のことをいつも絶賛する。
「すげー!橘さん、また100点かよ!」
「いつもすごいよね!橘さんは勉強だけじゃないしね!」
「またコンクールで金賞を取ったんだろ!?マジで将来有望だよな!」
生徒たちからも称賛の言葉を投げかけられるその少女は聡明で美しく……この学校で一番の有名人。
その彼女が一瞬こちらをチラリと見て、優しく微笑む。
その笑顔に俺の心臓はドキドキと鼓動を刻む。
とても愛らしい……そして、とても苦しい。
彼女の名前は、橘 詩織。
この学校一番の才女は俺の幼馴染であり……今も想いを寄せる初恋の相手だ。
♢
放課後の図書室。
俺はここで日々勉強に取り組んでいる。
図書室の窓からはグラウンドが見えて……野球部の練習風景が目に入る。
「はぁ……怪我さえなかったら……俺はまだあの場所に……」
……っと、いけない。集中するんだ。
普通科に編入できたと言っても、俺の成績は学年全体で見ても下から数えたほうが早い。
野球を失った俺はここで頑張らないと……あいつの隣に立つことは……。
「蓮……大丈夫?」
テキストを凝視していると、優しく声を掛けてくる美少女が隣に立っていた。
「詩織……。部活は終わったのか?」
幼馴染の詩織だ。
彼女は美術部に所属しており、部活が終わるとこうして俺の様子を見に来てくれる。
「うん、もう18時だよ。一緒に帰ろう」
彼女の優しい笑顔を見るだけで、俺は幸せな気持ちになる。
しかし最近は……それだけじゃない……。
「あ…………いや……俺はもう少しだけ残って勉強するよ」
野球というアドバンテージを失った俺は……なにもない薄っぺらい男子高校生。
それに引き換え、詩織は……。
「じゃあ、私も少し勉強しようかな」
そう言って俺の隣の椅子に腰を下ろした詩織は鞄からテキストとノート取り出した。
心臓の鼓動が早くなって緊張する。
リンスの香りだろうか?
隣に座る彼女からいい匂いが漂ってくる。
「わからないところがあったら、何でも聞いてね」
「あ……ああ」
詩織はいつも俺に優しい。
俺が野球を失っても、詩織は何も変わらずに接してくれる。
何を隠そう……俺はそんな彼女のことが昔から好きだ。
詩織の隣にいたい。
詩織に相応しい男になりたい。
今でもそう……確かに想っているのだが……最近は少し、違う……。
「あ、あのね……蓮」
「ん?どうした?」
「私、少し前に絵画のコンクールで金賞を取ってね……」
「ああ。また入選、金賞か。さすがだな」
勿論、そのことは知っている。
朝の全校集会でも校長から賞状の授与があったし、詩織の功績は学校全体にすぐに広まる。
「それで、その絵が来週の日曜日に美術館で展示されることになってね」
「へー、それは凄いな。一般の人がたくさん見に来るのか」
「うん。それで……よかったら、一緒に見に行かない……?」
「え……それって……二人で……?」
「う、うん。だめ……かな……?」
それって……二人きりでってことは……デートになるんじゃ……?
行きたい……。
詩織と二人きりで出掛けるなんて、いつ以来だ?
俺も詩織も部活で忙しかったからな。
「あ……うん。俺でよかったら」
「本当!?ありがとう、約束だよ!」
無邪気に喜びを見せる詩織の姿が本当に尊い。
「あの、すみません。そろそろ下校時刻です」
少し遠くから図書委員の生徒が声を掛けてきたことで俺は我に返った。
「ねえ、あの人って橘先輩じゃない?学校一の才女だよね」
「うん、っていうか隣の冴えない男子は誰?」
「ほら、少し前まで野球部だった人だよ。橘先輩とよく一緒にいるらしいけど釣り合ってないよね」
図書委員たちの会話が俺の耳に微かに届く。
こんな陰口は日常茶飯事だ。
俺が詩織と釣り合っていない……そんなことは俺が一番よくわかってる。
野球を失い、勉学の成績も奮わない……。
「蓮、帰ろうか?」
「わるい……俺……ちょっと先生に用事があって……。先に帰ってくれ」
俺は急いでテキストとノートを片付けて立ち上がった。
「え?ちょっと、待って。それなら私も」
詩織の声が聞こえなかったように俺はそそくさと図書室を退室した。
先生に用事があるなんて勿論嘘だ。
俺は詩織の傍にいたい。
でも……今の俺なんかじゃ……彼女の隣に立つ資格はない。
『あいつ、なんで橘さんと一緒にいるんだ?』
『全然釣り合ってないよね』
『野球辞めて勉強もできないくせにね』
同学年やクラスメイトたちの冷たい言葉が俺の脳内を回想する。
わかってる……それらの発言はすべて正論だ。
誰かが悪いわけじゃない……。
原因は……情けない俺自身にある。
「二人きりで……美術館……か」
詩織と一緒に出掛けるなんて、これ以上ないくらい嬉しいことだ。
『ありがとう、約束だよ!』
詩織の笑顔を見る度に、彼女の優しさに触れる度に、痛感する。
情けない俺は……どこにもぶつけようのない劣等感に苛まれていた。