第5話「因果の導は今、月に」
秘密裏に、大規模な作戦が始まっていた。
五百雀千雪は、フェンリル小隊の仲間達と共に種子島宇宙基地へとやってきている。この場所は古くから、日本皇国の宇宙開発の最前線だった。
今では、寂れた宇宙港で、その機能も凍結されて久しい。
もはや人類には、星の海へと漕ぎ出す力すらないのだ。
「千雪さんっ、皆さんも! あの車両が更衣室になってるそうです!」
ぱたぱたと制服姿で走るのは、更紗れんふぁだ。彼女はスポーツバッグを持って、大きな軍用車両へと歩く。大型のトレーラーで、パンツァー・モータロイドなどの輸送にも使われるタイプだ。
荷台には今、いかにも仮設という感じのプレハブ小屋が乗っかっている。
そのドアを開けば、意外な人物が出迎えてくれた。
「あら、フェンリル小隊の……急ぎなさい。作戦発動まで一時間しかないわよ」
そこには、雨瀬雅姫の姿があった。
だが、千雪は顔色こそ変えないが驚く。それは、一緒の御巫桔梗やラスカ・ランシング、渡良瀬沙菊も同じだった。
「お久しぶりであります、雅姫二尉! あっ……昇進おめでとうございます、雅姫三佐!」
「ありがとう、沙菊准尉。ふふ……御堂刹那特務三佐が、隊長代理とはいえ聯隊を率いる者が二尉では困ると。私、あの人と同じ階級になってしまった」
雅姫は「これで二階級特進したら、私の方が上官ね」などと、笑えない冗談を口にする。そして実際、微笑みを浮かべているのに彼女の瞳は笑っていない。
そこに千雪は、酷く見慣れた懐かしい炎を見た。
憎しみに燃えて、復讐へと人を駆り立てる暗い焔だ。
雅姫はいまだ、ティアマット聯隊の隊長代理に留まっている。
空席の隊長の座は、恐らく誰も埋めたくないのだ。
荒くれ揃いの精鋭部隊は、既に皆が心に隊長を迎えているから。
全身をぴっちりと覆ったパイロットスーツで、ヘルメットを手に雅姫は部屋を出てゆく。だが、千雪達とすれ違いざま、一度だけドアで振り向いた。
「千雪一尉……【閃風】の力、頼りにしてます。桔梗三尉、【吸血姫】にも期待してるわ」
千雪の代わりに、穏やかな笑みで桔梗が頷く。
「わたくし達も、【雷冥】と呼ばれた三佐に頼らせてもらいます。またみんなで、一緒に生還しましょう」
「……私の望みは生還ではないわ。勝利と……奴等の殲滅、それだけよ」
張り詰めた空気を残して、雅姫は行ってしまった。
その背中が、酷く寂しげに見える。
自分の感傷的な気持ちが、千雪は少し不思議だった。
だが、桔梗は溜息を零しつつ荷物を下ろした。着替えるために制服を脱ぎつつ、彼女は眼鏡の奥で瞳に憂いを漂わせる。
「辛いですね……こんな戦いは。さ、千雪ちゃん。ラスカちゃんも沙菊ちゃんも、れんふぁちゃんも着替えてしまいましょう」
「はいであります!」
元気よく沙菊は、ぽいぽいと脱いであっという間に全裸になる。
パイロットスーツはインナーも専用のものを使うので、当然といえば当然だ。だが、隠す気が全くない沙菊の笑顔は、奇妙な空気の重さをあっという間に払拭していった。
千雪も着替え始めて、まずは制服の上着を脱ぐ。
むすっとするラスカの横で、全裸で仁王立ちの沙菊は元気いっぱいだ。
「千雪殿! 桔梗殿も! どうすれば……どうすれば、自分も胸が大きくなるでありますか? 贅沢言わないから、Cカップくらいは欲しいであります」
「あっ、そ、それっ! わたしも気になってて……あのぉ、揉まれると大きくなるって、あれ嘘ですよねぇ? 千雪さん……最初から大きいし。桔梗先輩も」
れんふぁが食いついてきた。
彼女は大きなタオルで裸体を隠しつつ、まずはインナーをはきはじめる。
れんふぁはスレンダーで、沙菊は大きくはないが小さいとは言えない。逆に、千雪もそうだが桔梗も豊満なバストの持ち主だった。
「あらあら、沙菊ちゃん。れんふぁちゃんも。肩、凝るんですよ? ねっ、千雪ちゃん」
「義姉様の言う通りです。……想像してみてください。大きな西瓜を左右に一つずつ、ぶら下げてるようなものです。それぞれ2Lのペットボトルくらいの重さがありますので」
「そうなのよね……下着もかわいいデザインのものが少ないし、ブランド品は少し値段が張るし。嗜好品の類だから、酷いインフレの中で高騰しちゃって」
そう言いつつも、桔梗はなかなかに大人びた下着をつけている。ブラもショーツも黒で、精緻なレースが綺麗な蝶の模様を浮かび上がらせていた。その漆黒が、白い肌の鮮やかさを際立たせている。
千雪はと言えば、色気もへったくれもないスポーツブラである。
何より、両足と右腕は金属剥き出しの義体なのだ。
「ちょっと! いいからさっさと着替えなさいよ。……うっさいのよ、まったく」
「お? おお? そういうラスカ殿は……どれどれ、自分が軍事機密を確認するであります!」
「うっさい、触んないで! っ、ぁ……ちょ、ちょっと、沙菊」
「ほうー? ほうほう、ふむふむ……見事に真っ平らでありますなあ」
「ちょ、やめ……んっ! い、いいから! そういうの、いいから!」
空気抵抗も脂肪の過積載もない、少年のようなラスカの胸を背後から沙菊が触る。金髪を揺らしてラスカは身を捩らせるが、沙菊はニヤニヤと悪戯っ気といやらしさが満ち溢れた表情をしていた。
殺伐とした更衣室の中で、少しだけ笑いが連鎖する。
だが、千雪の耳にそっとれんふぁが唇を寄せてきた。
「千雪さん……なんで、胸を触ってると……ああいう顔になるんでしょぉ……」
「沙菊さんは悪ふざけが過ぎますね。……統矢君も、時々……その、ちょっとだらしない顔、してますね」
「ですです! ですよね! ……やっぱり、わたしに触れてる時もそうなんだ」
ふと、千雪も頬が火照る。
摺木統矢とれんふぁと、三人で過ごす夜……肌を重ねてのひとときで、自分もああいう顔でれんふぁに接しているのだろうか。統矢には、どうだろうか……ちょっと、不安になってきた。
そうこうしていると、背後でプシュッ! と小さく圧縮された空気が鳴る。
桔梗は一足先に着替えを終えていた。
彼女の乗る89式【幻雷】改型弐号機と同じ、緑色のスーツである。
一言で言って、かなり恥ずかしい。
気にしないようにしているが、これを恥ずかしがらない女性兵士はいないだろう。そしてそれは多分、男性兵士も同じだ。昔は、せいぜいヘッドギアを装着する程度で、PMRの登場時に特別なスーツは必要なかった。この手の装備品が充実し始めたのは、今年に入ってからだ。
一説には、それだけパイロットが不足していて、生存率向上に目が向けられたからだという。
「さ、皆さんも早く着替えてくださいね」
「はぁい! あっ、千雪さぁん。背中、お願いしていいですかぁ?」
れんふぁが背を向けるので、スーツを密閉するための特殊ジッパーをあげてやる。細身のれんふぁはその細さをそのままに、全身のシルエットを浮かび上がらせるスーツを身に纏う。いつぞやのデータ収集用の露出が激しいものではなく、オレンジ色の一般的なものだ。
千雪も、義手や義足のために特注した空色のスーツへ着替える。
一年生の二人組も、お互いにスーツをチェックしながら戦うための姿を整えていた。
「そういえば、れんふぁ殿っ! 次は月面、宇宙での戦いでありますが……その、自分はシミュレーターでしか経験がないであります」
「バカね、沙菊! 統矢とれんふぁだって、ちょっとだけ衛星軌道上を回っただけじゃない」
「それはそうでありますが、ラスカ殿。不安はないでありますか?」
「全っ、然っ、ないわ! やればできるでしょ? できちゃうアタシが言うんだから、当たり前よ」
「……天才肌はみんな、そう言うであります……説得力皆無であります」
そう、次の戦場は月面だ。
月の裏側で、とあるものを破壊するための作戦である。
その破壊対象を、れんふぁが深刻な顔で呟いた。
「でも、絶対に成功させなきゃ……リレイド・リレイズ・システムの破壊。まさか、こっちの世界線では月に現れるなんて」
――リレイド・リレイズ・システム。
それは、異星人との過酷な戦争に敗北した人類が……もう一つの平行世界の人類が生み出した、時空間統合連結装置。因果律を調律し、異なる世界線への次元転移を可能とした技術だ。簡単に言うと『無数に分岐する過去と未来、その中の任意の世界線へと時空間を移動する』というものだ。
リレイド・リレイズ・システムは、対象者を座標のわからない別の世界線へとランダムで次元転移させる。逆に……無限にも思える座標因子が全て揃えば、その任意の世界戦へ確実に次元転移できるのだ。パラレイドの首魁、もう一人の摺木統矢は、次元転移でたまたまこの世界……千雪達の世界に来た。それを追う秘匿機関ウロボロスの人間は、ランダムな次元転移がアタリを引くまで、何度も生と死を繰り返したのだ。
「リレイド・リレイズ・システムはその性質上、あらゆる世界線に同時に存在してるの。でも、その影響で同時に……どこの世界戦にも存在できない。存在が確定せず、次元の狭間を常に彷徨っていると言われてるんだよ? だから」
「わかってるわよ、れんふぁ。それをブッ壊さないと、パラレイドがまた未来から……チビ統矢の戦力がどんどん送られてくるってんでしょ?」
「う、うん」
「このラスカ様が、叩いて潰すわ! 徹底的に! ……ふざけんじゃないわよ、アタシ達の世界を……勝手に自分の過去だと決めつけて。絶対に、許さない」
リレイド・リレイズ・システムがたまたま、この世界戦に実体化した。それが今、月の裏側に存在するらしい。破壊することで、パラレイドの後続部隊……主力部隊の、この世界への次元転移を阻止できる。
今以上に物量で押されれば、人類同盟は敗北する。
千雪はそれを想像すると、生命維持装置がオンになっているスーツに身を包んでいても……言い知れぬ不安に凍えてくるのだった。