最終話「終わりのままでは終われない」
地球への帰還はあっという間で、大気の海に沈めば大地は全てを重くする。五百雀千雪も、自分の鍛えた肉体がこんなにも鈍ってしまうとは思わなかった。疲労だけではない、低重力下での作戦を経て、短期間でも筋肉が弱体化してしまったのだ。
だが、回収班によって日本皇国陸軍の基地に収容されても、忙しさは続いた。
緊急手術を受けた摺木統矢は、今は安らかな寝息をたてて眠っている。
「れんふぁさん、少し休んでください。統矢君は私が見ていますので」
「……ほぇ? ふぁ、うう……ね、寝てないでふっ、寝てません! 大丈夫、だいじょ、う、ぶ……」
ベッドの横に並んで二人、しかし更紗れんふぁは椅子の上で舟を漕いでいた。無理もない、彼女も帰還してからずっと働き詰めなのだ。
どういう訳か、この基地は不自然な程に兵士の数が少ない。
軍属もいないし、こうしている今もひっきりなしに輸送機やヘリが飛び立っている。
まるで引っ越しの真っ最中という雰囲気で、生還した者達への労い、看護や保護もおざなりだ。重傷者の統矢は手術してもらえたが、終わるなり半ば放り出すように病室に寝かされ、それっきりである。
「れんふぁさん、なにか妙です。この基地……恐らく、九州地方のどこかの基地だと思うんですが」
「えっと、それは」
「私達は皇国海軍の所属なのですが、それにしても放っておかれ過ぎです。帰還して三日が経ちましたが、御堂刹那特務三佐が戦死されたのに、指揮系統の回復がなされてないんです」
そう、あの狂気を孕んだ目の少女は死んだ。
繰り返し自分の未来を生贄に差し出しながら、悪意が逃げ込んだ世界線を探し続けた子供達……リレイヤーズ。その一人、御堂刹那は死んだのだ。
千雪達に、最後まで抵抗することを望んでいなくなった。
人を人とも思わぬ指揮官だったが、死んでいい人ではなかった筈である。
そして、千雪達は作戦の失敗もそのままに、中途半端に放置されている。次の命令も来ないし、待機を命じられてもいないのだ。
「あれだけ大規模な作戦を行い、失敗しました。それは人類同盟の各国も同じ筈。しかし、その成否もニュースで報道されていませんし」
「いつもの情報統制、でしょうか」
「というより、それどころではないという感じですね」
基地内の空気は異常だ。
廊下で擦れ違う兵士達は、皆が一様に慌ただしい。それでいて、千雪でさえ話しかけるのに躊躇する程の緊張感を漲らせていた。硬い表情は皆、判で押したような絶望に彩られている。
パラレイドとの永久戦争は、その終わりなき始まりが絶望そのものだった。
だが、未来への不安とは別種の、終わりが始まったかのような悲壮感ばかり感じる。
確かに今、世界でなにかが起こっている。
地球を離れていた僅かな期間で、戦局が大きく動いたのかも知れない。
そのことをれんふぁに語っていた、その時だった。
「いたわね、【閃風】……五百雀千雪一尉。更紗れんふぁ准尉も一緒とは都合がいいわ」
振り向くとそこには、意外な女性が立っていた。
軍服姿はティアマット聯隊の隊長代理、雨瀬雅姫一尉だ。その瞳には今も、暗い炎が燃えている。疲れた表情を隠しもしないが、目だけが炯と輝きギラついていた。
彼女は手にしたジェラルミンのアタッシュケースを、立ち上がる千雪に突き出した。
もう片方の手はギブスに覆われ、首から吊るされている。
再会と生還を喜ぶ雰囲気はなく、戸惑う千雪に雅姫は再度アタッシュケースを押し付けてきた。
「あの、雅姫一尉。これは」
「現金よ。かき集められるだけ集めてきたから、数千万はあるでしょう」
「……軍規違反では?」
「安心なさいな。私も貴女も、軍法会議を恐れる必要はなくてよ?」
しかたなく千雪が受け取れば、金属のアタッシュケースはずしりと重い。
そして、雅姫は驚くべき真実を告げてくる。
「軍法会議も銃殺刑も、もうありはしない……日本皇国軍、そして人類同盟軍は事実上|瓦解したわ。……その様子だと知らないみたいね? 今、各国の首都がほぼ全て、パラレイドに制圧されたわ」
千雪は思わず、呼吸も忘れて黙った。
心臓でさえ鼓動を忘れたかもしれない。
唐突な終戦は、人類の敗北という形で訪れた。
正確には、この世界の人類が平行世界の人類に負けたのだ。
驚きに思わずれんふぁが椅子を蹴る。
「そ、そんなっ! 嘘です! だって」
「……あちら側の摺木統矢、トウヤ大佐というのは軍略に関してだけは天才ね。まんまと一杯食わされたのよ、私達は」
雅姫は、今になって明らかになった事実を語った。
月の裏にある地下空洞で、リレイド・リレイズ・システムが現実世界へと物質化した。限られた時間だが、物理的に破壊可能な状態を晒したのだ。当然、人類同盟と秘匿機関ウロボロスは、破壊作戦を立案、実行に移した。
それ自体が、パラレイドの……平行世界から来たトウヤ達の大規模な陽動作戦だった。
千雪達最精鋭のパイロットがまとめて月面に集められ、乾坤一擲の作戦が行われた。
その裏で、パラレイドは主力の大半を地球侵攻の最後の大勝負に投入したのだ。
統矢がトウヤと対峙し、千雪やれんふぁ、仲間達と運命に相克している間に……地球はほぼ完全に陥落、人類同盟は事実上崩壊したのだ。
「それで、この基地は……」
「そう。既に非常事態宣言が発令され、人類同盟軍の全将兵は脱出を開始した」
「脱出……どこへ」
「南極基地よ。あそこはかつて、あらゆる国家に帰属しない土地だった。故に、人類同盟発足の頃から密かに要塞化されていたの。勿論、私もこれからすぐ発つわ」
そこまで話して、雅姫は小さく溜息を零す。
そこには、かつて千雪の前に立ちはだかったエースパイロット、【雷冥】と呼ばれた少女の姿はなかった。既に雅姫は大人の女性、そして戦士だ。
復讐を誓ったあの日から、仄暗い光を瞳に灯して彼女は戦ってきた。
そして今、死地を求めて彷徨うように旅立とうとしている。
「五百雀千雪一尉、更紗れんふぁ准尉。……そして、摺木統矢三尉。幼年兵である貴女達の軍務は、軍の崩壊と共にその意味を消失したものと解釈します。……逃げなさい。世界の終わりがくるなら、愛する人と安らかに過ごすのもいいのだけど、嫌かしら?」
そこには、愛する人を失った女の悲哀が感じられた。
同時に、憐憫さえ感じられた。
愛する人を奪われても、愛そのものまでは手放さない。既にもう、新しい愛も次の恋も雅姫には存在しないのだ。残された愛の影だけが、彼女を修羅の道へと駆り立てる。睦言をささやき合う時間も奪われ、日常を壊された今……最愛の男が愛した部隊を継承した彼女は戦い続けるのだ。
千雪は、自分の中に言葉を探したが、なかなか出てこない。
「……生き残りなさい、【閃風】。この世の全てが終わるその瞬間、最後の刹那まで生き抜きなさい。私もそうする、そして……いつか、この【雷冥】との決着、つけてもらうわ」
「わかりました、雅姫一尉。では、約束してください。その日まで死なないと」
「死なない? 死ねないわ……パラレイドを根絶やしにするまで、死ぬつもりはないもの。それに、既に私はあの人と一緒に死んでるわ。死体は死なない、ただ戦うだけよ」
それだけ言うと、最後に車の鍵を放って敬礼し……雅姫は出ていった。
肩に羽織った軍服の上着を、まるでマントのように翻して。
外に車が用意してあること、そしてここも危ないことを無言で千雪は伝えてもらった。既に人類同盟は敗北し、残存戦力を南極に集めている。慌ただしく発進する輸送機やヘリは、最後の決戦へ向かう者達だったのだ。
恐らくすぐ、入れ替わるようにしてパラレイドの尖兵が基地にやってくる。
千雪達の敗北はまだ、彼等にとって勝利ではない。
これからトウヤと別世界の地球人達は、本当の勝利のためにこの世界で力を蓄える……DUSTER能力者を育成し、軍を再建して自分達の世界線に戻るつもりである。
「千雪さん、しっかりしてくださいっ!」
れんふぁの声で、千雪は我に返った。
だが、戦争が終わったことも、負けたことも実感がない。だから当然、親しかった仲間や兄の死も、どこかで受け入れていなかったのかもしれない。
その全てが今、揺るがぬ現実として突きつけられた。
アタッシュケースを落としてしまったが、それを拾うれんふぁが手を握ってくれる。
彼女の声は震えていたが、芯の強さを感じさせる気丈な言葉が続く。
「二人でなら、統矢さんを運べます。すぐに担架かなにか……ううん、わたしがおぶって運びます! 千雪さんは外で車を! 千雪さん、呆けてる場合じゃないです!」
「あ、ああ……そう、ですね」
「そうですよ! 安心してください、千雪さん。わたしっ、あっちの地球の人間だから……異星人相手に、負けるのは慣れてますから! 大事なのは、負けで終わらないことです!」
意外なタフネスをれんふぁが発揮した。
彼女はすぐに、ベッドで眠る統矢から点滴を外す。そしてそのまま、背に彼を背負ってよろけながらもしっかり立った。華奢で可憐で、おっとりとしたあのれんふぁが、である。
逆境の中で奮起するれんふぁの、その秘めた強さに統矢は惹かれたのかもしれない。
彼女が統矢を愛してくれてよかった、改めて千雪はそう思う。
それを思い出したら、悲しみも驚きも胸の底に沈めることができた。
「れんふぁさん、力仕事なら私が……統矢君は任せてください。れんふぁさんは車を」
「は、はいっ! エヘヘ……数千万円、ですよ? 大金持ちです」
「軍票でなくて助かりますね。日本円、現金ならこれでしばらくは」
「とにかく、どこかに隠れて統矢さんの回復を待たなきゃ……これで終わりじゃないから」
そう言って、れんふぁは自分を奮い立たせるように頷いた。
そして、統矢を受け取り背負い直した千雪の頬に、そっと手を伸べてくる。温もりを感じた次の瞬間には、背伸びしたれんふぁの唇が千雪の唇に触れていた。
統矢を愛する者同士、統矢を介して愛し合った二人のキス……突然のことに千雪は驚く。
「わたしも、怖くてびっくりで、混乱してて……だから今、千雪さんの強さ……もらい、ました」
「れんふぁさん」
「くっ、車! 急いで用意してきます! うう、マニュアルだったらどうしよう……千雪さんも急いでくださいねっ! あと、適当に役立ちそうなものは積み込んどきます!」
それだけ言って、れんふぁは病室を飛び出していった。
千雪もすぐに、その背を追って歩き出す。
どこかで銃声が聴こえた。徐々に恐懼が広がり、略奪や脱走が始まっているのだろう。統制を失った軍の最後は悲惨である。
だが、ここは千雪の終わりではない。
統矢とれんふぁ、愛する二人の最後であっていい筈がない。
「行きましょう、統矢君。……絶対に死なせません。そして、終わりにさせませんから」
微かに、統矢が背中で頷いたような気がした。
気がしただけで十分な程に、千雪の決意は確信に満ちていたのだった。




