第24話「失い亡くす中で」
月の地下空洞からの、脱出。
漏れ出る空気の気流に乗って、五百雀千雪を載せた内火艇が浮かび上がった。中は負傷した兵士達で満員である。そんな中、重傷を追った摺木統矢の荒い息遣いが響く。
すぐにパイロットスーツを脱がせれば、血の雫が水玉となって浮かんだ。
更紗れんふぁから応急パックを受け取り、急いで傷の手当を始める。
「統矢君、しっかりしてください。……重傷ですが、思ったほどでは」
「千雪さんっ、月面に出ます!」
れんふぁの声に頷きながらも、千雪は必死で手を動かした。
外傷こそ少ないが、何度も搭乗機をサンダルフォンに痛打されたのだ……コクピットに固定されているとはいえ、その衝撃は少年の肉体をズタズタにしていた。
内臓破裂はなさそうだが、肋骨等の粉砕骨折、各部の内出血が酷い。
何より、ヘルメットの中で吐血したため、呼吸器へのダメージが心配された。
「統矢君、血を吐き出してください……統矢君、意識をしっかり持って!」
周囲の兵士達には、既に絶望という名の敗北感が広がっている。
誰もが皆、薄暗い艇内で一言も発しない。
作戦は失敗した。
人類同盟軍は、乾坤一擲の電撃作戦に失敗したのだ。リレイド・リレイズ・システムは再び平行世界をさまよい、無限にパラレイドの増援を呼び込む。文字通り永久戦争となった地球での戦いは、いよいよ終わりの存在すらない局面に突入したのだった。
だが、千雪は思考を殺して機械的に手当を続ける。
統矢は僅かに咳き込み、濁ったドス黒い血を吐き出した。
「いけませんね、逆流した血で気道が。……ちょっと失礼しますね、統矢君」
迷っている時間はなかった。
寝かせた統矢の頭部を固定し、鼻梁を指で摘む。そうして上を向かせると、躊躇なく千雪は統矢の唇に唇を重ねた。
詰まった流血を吸い上げ、吐き出し、それを繰り返す。
何度も求めあった唇は、冷たい錆の味がした。
どうにか気道が確保できたようで、統矢の呼吸が少し落ち着く。
呆気にとられていたれんふぁが、隣で我に返ると周囲に叫ぶ。
「すみませんっ! 軍医は……誰か、もっと応急パックを持ってませんか! 血が足りません! 緊急用の全適合人工血液でいいんです。誰かっ!」
死んだ目の周囲に、徐々に彼女の熱量が伝搬してゆく。
そんな中で、千雪は統矢をインナー姿まで脱がして外傷を確認した。内蔵圧迫と胸骨および肋骨の骨折、これは地球に帰還しての治療が必要だ。ここでの応急処置には限界がある。そして、太腿にはダメージで飛び散ったコクピット内の破片が、肉を抉った大きな傷があった。
出血が止まらない。
そして、平行世界の自分と戦う宿命の中で、統矢は死にも抗っていた。
脂汗を浮かべ、彼は苦しげに唸り声を噛み殺している。
もう意識はない……だが、絶対に死なせてはいけない。
「お、おい」
「あ、ああ……俺達は、なにを」
「そうだ、なにをやってんだ! 誰か!」
「こっちに余ってるやつがある! なに、こいつはもう……だから、そのボウズに!」
「つまらん戦争でガキを死なせるな! 各自、装備品を再点検しろ!」
いくつか応急パックが集まり、その中の輸血用血液をかき集める。
周囲の大人も手伝ってくれて、どうにか統矢にできる処置は施された。あとはもう、天に祈るしかない。祈ることしかできない。
少しだけ統矢の呼吸が静かになって、周囲の大人達にも余裕が出てきた。
誰かが真水のパックを渡してくれたので、千雪はそれで口をゆすいで拭う。
その頃にはもう、敗残兵を満載した内火艇は月軌道上まで浮上していた。
「……千雪、さん? あの、大丈夫ですか……?」
「はい? ああ、ええ、はい。平気ですよ、れんふぁさん」
「そういうのじゃなくてっ! 平気でいられちゃうから心配なんですっ!」
二人で統矢に付き添いながらも、れんふぁは目を潤ませて心配してくれる。
その瞳に見詰められて、ようやく千雪は思い出した。
そう、目の前で先程……兄が、死んだ。
|皇立海軍PMR戦術実験小隊《こうりつかいぐんパメラせんじゅつじっけんしょうたい》、通称フェンリル小隊隊長を務めた男。五百雀辰馬は死んだ。千雪の眼の前で、千雪達を逃がすためにメタトロンと交戦し、爆散したのだ。
不思議と涙は出なかった。
極限の緊張状態で、まだ頭の中に事実が浸透してこない。
現実感がなくて、理解しようとすることすらできないのだ。
「兄様は、その、殺しても死なない人で。ああ見えて頑丈で悪運が強いですから」
「……です、よね」
「でも、あれでは助かりませんね」
「千雪さんっ! ……そうでも、それでも」
89式【幻雷】改型壱号機は、メタトロンから千雪達を守って撃破された。
その前に既に、ラスカ・ランシングの改型四号機も破壊されている。御巫桔梗の改型弐号機も、乱戦の中で見失ってしまった。かわいい後輩の渡良瀬沙菊も、生死不明である。
あまりにも、多くのものが失われてしまった。
そして、今も失われ続けている。
今にも泣き出しそうなれんふぁの、震える肩を抱き寄せる。そうして体温を分かち合っていないと、千雪も心が折れてしまいそうだった。常にクールに振る舞い、気丈に理性を支えてきた。そんな千雪自身も、初めて自分の限界を思い知らされたかに思えた。
内火艇は周囲に徐々に増え、護衛のパンツァー・モータロイドもちらほらと上がってくる。機体はここで捨てていくしかない……今の人類同盟に、地球と宇宙を行き来する艦船はない。アニメや漫画のように、人型機動兵器を運用する宇宙戦艦など存在しないのだ。
「……あの子達を、置いてきてしまいました」
内火艇は軌道上で帰還用のブースターとランデブーする。
船外活動をする宇宙服姿を窓の外にみやりながら、ぽつりと千雪は零した。
崩壊しつつある敵の本拠地の中で、愛機を残してきてしまった。
統矢がずっと大事に、大切にしてきた97式【氷蓮】もだ。
あれは、更紗りんなの形見の機体なのだ。
れんふぁの機転で【シンデレラ】の装甲へと、戦場の中で強制換装……生まれ変わったのも一瞬で、そのままバラバラになって倒れたのだ。
【樹雷皇】も全武装をパージ、動力部たる【シンデレラ】を露出したまま不時着。
千雪の【ディープスノー】も、その場に残さざるを得なかった。
作戦成功の暁には、余裕を持って全機体を回収する予定だった。だが、その余力ももう、人類同盟軍にはない。貴重な人材、人命を帰還させるので精一杯だ。
ぼんやりと、宇宙の虚空に捨てられたPMR達を眺めていると、周囲が慌ただしくなる。
「おい、音声! 電波の入りが……スピーカーに繋げ!」
「待ってください、これは……広域公共周波数です。周波数がまだ」
「この声……あのおチビちゃんじゃないか!? ほら、ウロボロスとかっていう」
すぐに艇内のスピーカーが、砂嵐を歌い出した。
その奥から、かすれて途切れ途切れに声が響く。
それは、あの高慢ちきで不遜極まりない上官、御堂刹那特務三佐の声だった。
『――の電波を、拾――全ての、兵士に――せよ……繰り返す……人類、同盟――』
苦しげな声の背後で、破壊音が響いた。
何度も途切れて消え入りながらも、まるで滲んで染み渡るように言葉が伝わってくる。
そこにはもう、鬼の上官としての雰囲気はなかった。
また一人、見知った命が消えてしまう。
それだけが確かな予感で、周囲に確信として満ちる。
千雪はただ黙って、統矢の手を握りながら耳を傾けた。
『この電波を、拾う……全ての、人類同盟、将兵に告げる……抵抗、し……義務を――果た、せ――』
嘘だとすぐにわかった。
人類同盟の軍人として、地球のために戦って死ね、そう言ってきた刹那の普段通りの言葉だ。だが、そこには普段の高圧的な雰囲気はない。
彼女は最後になにを伝えようとしているのか?
徐々にノイズの海に沈んで、その荒波の中へと声は消えてゆく。
千雪は最後の言葉を胸に刻んで、自分達の敗北を飲み込んだ。
『……抵抗、し、義務、を……果た、せ……戦友を、家族、を……最後、まで……』
徐々に生存者を載せた内火艇は、月の軌道上を離れ始めた。
しかし、まだ月で刹那は生きている。
死にゆく中で、懸命に意思を伝えてくる。
その声が妙に優しくて、切ないほどに静かで、穏やかで。
彼女自身が他人に厳しく、それ以上に自分に厳しい人間であることは、誰もがみんな知っていた。そんな刹那の最後の言葉は、爆発音と共に消えた。
乱れた音の連なりだけが、虚しくスピーカーから響く。
耐えきれずれんふぁは、その大きな瞳から光を零した。
「御堂先生……うっ、うう」
「れんふぁさん」
「ごめん、なさい……全部、わたしの曽祖父が、ひいおじいちゃんが」
「そうです、悪いのはあの男です。れんふぁさんに罪はありません」
「でも、でもっ!」
れんふぁは悪くない。
むしろ、自ら進んで最悪の状況に飛び込んできてくれた。この世界を救うために。一族の犯した過ちを償うために。
だが、平行世界のチユキが見出した少女は、ごく普通の女の子なのだ。
れんふぁは、生まれを選べぬ誰もがそうであるように、たまたまあの家に生まれただけなのだ。
こちらの世界線で結ばれなかった二人が子をなし、子孫を残した。その中で戦争に巻き込まれ……一人の復讐鬼を生み出してしまった。それは、千雪が知る統矢ではない。復讐のために己を燃やすのが統矢なら、あのトウヤは……復讐のためにあらゆる世界を焼き尽くそうとしている。
「四十時間後に地球へと降下、大気圏再突入の後に帰還、ミッションを完了する」
オペレーターの声が無機質に響いて、千雪は顔をあげる。
そっとれんふぁの手が頬に触れてきて、それで始めて自分が泣いていると知った。だが、敗北の悔しさなのか、戦友を失った悲しさなのか、もうわからない。自分でも何故泣いているのか、理解できない。あまりにも衝撃的な喪失が重なったため、その深さも重みもわからなくなっているのだ。
周囲の目もはばからず、れんふぁは大声をあげてわんわん泣き出した。
泣きながら、ぼんやり瞬きすら忘れた千雪の頬を拭ってくれる。
この日、人類同盟は軍事組織としての最後の作戦を敗北で終えることとなったのだった。




