第17話「最後の、はじめまして」
五百雀千雪は、虚無の中を漂っていた。
確か、パラレイドの基地に潜入し、情報ターミナルにタブレットを接続した。その瞬間に、どうやら気を失ったようである。
自分が現実から意識を切り離されたことも、漠然とだが理解した。
なにもない空間は暑くも寒くもなく、上も下も感じられない。
まるで母親の中で羊水に揺られているような気分だ。
「しかし、悠長にしている時間はないのですが。さて、どうすれば現実に覚醒できるでしょう」
不思議な程に千雪は冷静だった。
こうしている今、現実世界ではどれだけの時間が経っただろう?
刹那の一瞬の出来事かもしれないし、その間に死ぬ人間は片手や両手では足りない。
だが、今の千雪にはどうすることもできなかった。
ただ、落ち着いて考えることができたので、これがただの意識喪失と夢ではないことだけはわかった。
「……これは。確か、私は沙菊さんと敵の中枢に潜入し、リレイド・リレイズ・システムを探すために……これが手元にあるということは」
千雪は虚空を彷徨い泳ぐ。
当然、周囲に先程まで一緒だった渡良瀬沙菊の姿はない。
しかし、手にはあのタブレットが握られていた。
恋人の摺木統矢が貸してくれた、大事な人の形見のタブレットだ。そして、以前千雪の命を救ってくれたものでもある。
タブレットの液晶画面は、まるで千雪を導くように明滅している。
その光を頼りに、不思議な空間を千雪はゆっくりと進んだ。
「なるほど、そういうことですか。……はじめまして、ですね」
進む先で、徐々に女の背中が近付いてくる。
華奢で細身の、一糸纏わぬ女性だ。
自分も裸だったが、それよりも大事なことに気付く。
肩越しに振り向き、ゆっくり向き直る女性を千雪は知っていた。
毎日見合わせ、毎夜毎晩恋人を挟んで眠る顔だ。
少しだけ大人びて見えるが、同一人物にも見えた。
「こんにちは、千雪。……五百雀千雪、だよねっ? こっちの世界の」
「ええ。こんにちは、れんふぁさん……いえ、りんなさん。更紗りんなさん」
それは、全く同じ姿と顔だが、違う表情を見せる。
どこか勝ち気で強気な、れんふぁよりも快活で闊達な光を瞳に宿している。れんふぁが炭火の温かさなら、目の前の大人の女性には燃える炎の情熱が感じられた。
間違いない、千雪が手にするタブレットの本当の持ち主……更紗りんなだ。
やはり千雪は冷静でいられた。
ずっと会ってみたかったから、こんな時でも嬉しい。
統矢の心の中で、彼女は永遠になった。
統矢と今を共に生きて、未来を分かち合う千雪にはわかる。
過去は輝きを増しながら、どんどん統矢の奥深くへ沈んで結晶化する。宝石のような化石となって、ずっと彼と共に生き続けるのだ。だから、そんな彼を過去ごと愛そうと、そうれんふぁと誓ったから。
「ふーん、驚かないんだ? やっぱ変わらないなあ、千雪は」
朗らかにりんなは笑う。
千雪と呼び捨てにするのは、あちらの世界……パラレイドの世界線で彼女が千雪と親しかったからだろう。
りんなは懐かしそうに、千雪を眺めて目を細める。
自然と千雪も、初めて会う昔の恋敵に微笑んだ。
既にもう、一人の少年を愛した者同士ではなかった。
今も愛している、そしてかつて愛していた。
そこだけしか食い違わない、ただの女の子同士でしかなかった。
「えっと、じゃあ……単刀直入に話すね? 千雪」
「ええ、お願いします」
「ここに……リレイド・リレイズ・システムに呼んだのは、わたし」
「やっぱり、ですか」
身を乗り出して千雪を覗き込み、悪びれずにエヘヘとりんなは笑う。
無邪気な笑顔はそのまま、衝撃の事実を告げてきた。
「呼んだというか……まあ、わたしがそうなの。リレイド・リレイズ・システムが三次元空間に固定座標を持って実体化する時、それはわたしという過去の亡霊を象る」
――わたしがリレイド・リレイズ・システムなの。
そう言って、りんなは寂しげに笑った。
先程の屈託ない笑顔が影を潜め、憂いと哀しみが彼女の美貌を翳らせる。
りんなの説明に寄れば、リレイド・リレイズ・システムは膨大な量のコーディングと術式によって構築された、あらゆる平行世界を繋ぐシステムだ。それゆえ、全ての世界線に同時に存在し、そのどこにも存在しない。絶えず不確定な状態で流離いながら、アチコチの世界線に実体化するのだ。
そして、高位次元の概念であるシステムに、輪郭を与えるもの……それは、あちらの世界の摺木統矢が設定した、更紗りんなという一人の女性なのだった。
「統矢は……間違えちゃってるよね。でも、わたしにはもう止められない。わたしはシステムとして統矢に操られ、違う世界線の千雪達を苦しめている」
「りんなさん……」
「でもね、それでも、それでもね……わたし、嬉しかった。同じくらい、悲しかった。統矢は……わたしの統矢は、わたしの死に囚われ、わたしが死んだ時間から動けないでいる。絶対の万能システムを構築しても、そこにわたしを求めて封じ込めてるの」
「……愛されてたんですね、りんなさん。それが例え、こういう形でも」
黙ってりんなは頷く。
彼女は見た目から察するに、二十代前半くらいだろうか?
れんふぁの話では、りんなは監察軍と呼ばれる異星人とのファーストコンタクトに参加した、初めての地球人類の一人だという。そして、後に星間戦争へと発展する戦いの、最初の犠牲者だ。
彼女は自分の死で、パンドラの箱を開けてしまったのだ。
彼女を愛した男に道を踏み外させ、外道の極みへと変貌させてしまったのだ。
長く続いた異星人との戦争は、鏡合わせの復讐鬼を非道の修羅へと貶める。
千雪の知る統矢とは、全く別の道を選び、一つも出会いを得なかった男……それが、パラレイドの首魁である摺木統矢大佐である。
「異星人と接触する使節団の護衛として、わたしの部隊も同行した。そして、月の裏側での極秘会談は……友好的なムードを共有できたのに、壊されてしまった」
「誰に? 異星人はまさか」
「ううん……会談を襲ったのは、わたしと同じ地球の人間だった。反体制側、そして異星人の危機を叫ぶ一部の過激派。極秘情報を掴んで、襲ってきた……ま、テロね」
「それを統矢君は……貴女の夫である摺木統矢は」
「知らないんだと思う。わたしも一度死んで、このシステムと一体化して初めてわかったことだから。そして、真実を知る者はもういない……自爆テロだからさ」
異なる地球の運命を決めた、数奇な真相。
それを知って千雪は絶句した。
寂しそうに笑って、りんなは「はいはい、やめやめ!」と手を振る。
彼女の不幸も、彼女が解き放った不幸も、全てはあちらの地球の話だ。
そして、こちらの地球の千雪は、どんな理由であれ愛する人達を守ると決めている。敵に慈悲も同情もない。憐れみさえ、感じても絶対に伝えることはないだろう。
いかなる理由であれ、利己的な戦争を許してはいけないのだ。
「でもさ、千雪ってホント千雪だよね……こっちでも千雪なんだ?」
「それは、どういう」
「当たり前だけど、わたしの世界線にも千雪はいたよ? ……好きだったんだと思う。千雪も、統矢のこと。ま、わたしの方が一億万倍好きだったけどね! わはは!」
「は、はあ」
りんなはとてもラジカルな女性だった。
れんふぁが時々見せる芯の強さ、異様な頑固さやしぶとさはここから来ているのかも知れない。確かに世代を重ねて血が伝わっている、それが感じられる。
あーあ、と伸びを一つして、りんなは話を続けてくれた。
「リレイド・リレイズ・システムを得て、統矢は無限の寿命を得た。遺伝子が徐々に欠損してゆくから、生まれ直す度に成長限界が早くなるけど……彼はわたしとの息子より、その子、孫より若くなってまで、戦った」
「の、ようですね」
「多くの人達が、統矢を慕って盲信した。リレイド・リレイズ・システムには、統矢の同志が数多く自分を登録した。……でも、千雪はそれを選ばなかった」
あちらの世界線の五百雀千雪は、リレイド・リレイズ・システムに頼らなかった。
そして、彼女は彼女の戦いを始めたのである。
異星人と苛烈な戦いを続ける新地球帝國の中で、人知れず統矢達と対決する運命を選んだのだ。統矢は表向きは最精鋭部隊として、異星人と戦い続けた。そして歴史の影で、統矢を止めようとする千雪達レジスタンスとも戦っていたのである。
レジスタンスは圧倒的な劣勢の中で、既に旧世代の兵器と化したパンツァー・モータロイドで戦った。そして、そのバックアップに暗躍したのが……リレイヤーズと呼ばれる子供達。そう、御堂刹那とその仲間達である。
「千雪は、自分を機械化することで統矢の輪廻に追い縋った。因果だね……千雪、こっちでも機械の躰になっちゃってさ」
「生きることを望んだ結果ですので、りんなさんが気にすることでは」
「千雪は多くの仲間を、同胞を、教え子を失いながらも戦った。何度も統矢を追い詰め、倒した時もあった。でも、統矢を止められなかった……何度でも過ちをやり直す彼を、最後まで止められなかったんだよ。だからっ!」
りんなが千雪の手を取った。
そのぬくもりだけが、この異質な空間で確かなものだった。
そして、徐々にお互いの肉体が透け始める。
「時間かな、もう……千雪、きっともう会えることはないと思う。わたしはまた、無限に等しい平行世界を漂いながら、システムとして存続し続けることになるから」
「りんなさん」
「あなたじゃないのはわかってるけど、お礼を言わせて……れんふぁを助けてくれてありがとう。機械にまでなって、統矢を止めようとしてくれて、本当にありがとう」
現実へと引っ張られ始めた千雪は、確かにその声を聴いた。
「それと、これはあなたへ。れんふぁを愛してくれて、ありがとう。こっちの統矢のこと、好きになってくれて、ありがとっ! 大事にしろよー? 全部あげちゃんだから」
「はい。りんなさんの分まで、精一杯」
「最後に、お別れだけど……あー、うん。そっか……今、わかった。わたしの世界線の千雪が、リレイド・リレイズ・システムを使わなかった理由。つまり――」
りんなの言葉に、即答で千雪は頷いた。
眩しさに塗り潰される中、りんなは笑って光へと消えてゆくのだった。




