第1話「破滅への前夜」
五百雀千雪は、夢を見ていた。
それが夢だとわかる、とても平和な光景。
いつも夢見ていた、最愛の二人の笑顔がそこにはあった。
(こんな日が……本当に来るでしょうか)
並んで歩く一組の男女。
きっと夫婦で、その間で飛び跳ねてるのは愛娘だ。
父と母との手を握って、真ん中で女の子が歓声をあげている。
その背を、千雪は少し離れて歩きながら見守っていた。
(いえ、この日、この時……この瞬間は、来ます。掴み取るんです)
自分に言い聞かせるように、拳を握る。
立って歩く両脚も、ギリリと握った右手も鋼鉄の感触だ。その硬さが、徐々に千雪の歩調を鈍らせてゆく。
摺木統矢と更紗れんふぁの背が、遠ざかる。
追いつこうとしても、身体がどんどん重くなる。
夢の中でさえ、半分以上義体化した肉体の冷たさに千雪は凍えた。
遠ざかる背中は、声だけは鮮明に耳に響いた。
『統矢さんっ、今日はすき焼きにしますね。ようやくお仕事が終わったんですから』
『わーい! おにく! たまごのおにく!』
『悪かったな、れんふぁ……ずっと家、空けてて』
『任務だからしょうがないですよぉ。それに、この子もずっといい子にしてましたから』
『わたし、すっごいいいこにしてたよ! ママのいうこと、よくきいたもん!』
『いい子だな、――は。――は本当に、パパとママの自慢の娘だ』
名前がよく、聞き取れない。
そして、三人の背はどんどん小さくなっていった。
意識が覚醒へと向かう中で、全てが光に包まれてゆく。白く染まってゆく景色が狭くなっていき、最後に千雪は見た。
二人の間で、小さな小さな女の子が振り返った。
その顔は、確かに二人の血と血の繋がりを感じた。
そして、どこかで見たことがあるような……でも、初めて見るような笑顔だった。
刹那、衝撃と共に千雪は冷たい床で目覚めた。
「……やはり夢、でしたね」
自室の床で、見慣れた天井を見上げて呟く。
どうやらベッドから落ちたようだ。
落ちたというよりは……蹴落とされた。
長い黒髪をかきあげ、のっそりと千雪は上体を起こす。
ベッドの上では、統矢の腕にしがみついてれんふぁが眠っていた。時々そうなのだが、れんふぁの寝相はあまりよくない。だが、あどけない寝顔で眠る彼女を見れば、いつも千雪は怒る気が失せてしまうのだった。
今もれんふぁは、ムニャムニャと寝言を呟きながら幸せそうだ。
久々に青森に戻って、千雪は二人と五百雀家で久々の休日を過ごしていた。
「ん、ぁ……千雪、さん……大丈夫です、ほら……わたしがハッチを、蹴り破った、ので」
「……どんな夢なんでしょうか」
現実では、れんふぁが渾身の蹴りを見舞ったのは千雪である。
痛くはないが、秋の夜更けは身体が冷える。
裸だったことを思い出して、千雪はもう一度ベッドの中へと戻ろうとした。
だが、身を寄せ眠る二人を見下ろし、自然と頬が緩む。
常々、無表情で無感情、ともすれば無機質だと言われてきたのが五百雀千雪だ。|皇立兵練予備校青森校区では、男子に絶大な人気があったことも知らないのである。そんな彼女が、自分でも気付かぬ不器用な笑みを浮かべていた。
「……それにしても、よく寝てますね。統矢君も、れんふぁさんも。……っぷし!」
くしゃみが出て、肌寒さに思わず己を抱く。
そうして千雪は、もう一眠りしようと思ってベッドに上がろうとした。
だが、その時……れんふぁが急に険しい表情になった。
眉根にしわを寄せて、またも彼女は不穏な寝言を呟く。
「そっちに、統矢さんを……千雪さん、統矢さんを……お願い、しまひゅ……」
「……れんふぁさん?」
「ハッチから、放り、投げ、ましゅ、から……ムニャムニャ」
そのままれんふぁは、統矢の腕を抱き締めたまま……突然ガバッ! と身を起こした。そのままグイグイと、眠ったままの統矢をベッドの外へと放り投げる。
慌てて両手を広げた千雪の胸に、統矢が飛び込んできた。
「千雪、さん……統矢さん、の、こと……お願い、しま……」
「今日はまた、一段と激しい寝相ですね」
これで起きない統矢も統矢だ。
先日、二人は紆余曲折を経て結ばれたらしい。れんふぁからあとで聞いた話では、つつがなく、滞りなく初体験を終えたらしいが……れんふぁの寝相を許容するだけの鈍感さは、ある意味統矢の大事な資質なのかもしれない。
現に、千雪が抱き留めても統矢は起きる気配すらなかった。
部屋のベッドはキングサイズに入れ替えてあるが、れんふぁにはまだまだ狭いようだった。
「統矢君、本当によく寝てますね。ちょっと、ほんのちょっとだけ……腹に据えかねます」
ちょっぴりだけ、ムッとしてしまった。
寝ている統矢の表情は、普段と違って幼く見える。
まだまだ少年の無邪気さがあって、普段は見せない表情だ。
その彼をベッドに戻して、再びれんふぁの隣に寝せてやる。
まるで当然のように、れんふぁは寝返りをうちながら再び統矢に抱き付いた。先程、自分で放り出したのに、なかなかにいい根性をしている。
千雪は二人の寝顔を見下ろし、自分も布団の中へと戻る。
「統矢君……ちゃんと、れんふぁさんのことをつかまえててくださいね? 聞いてますか?」
頬を指で突いて、つまんで引っ張ってみる。
言葉にならない声を口ごもりながら、統矢は眠り続けていた。
全く起きる素振りも見せない。
やはり、ある意味で大物、そして鈍感だ。
パンツァー・モータロイドで戦う以外は、本当にごく普通の男の子である。取り立てて顔立ちが整ってるようでもないし、背だって高くない。運動も成績も並だ。
だが、あの暗く燃え滾る瞳は、見る者から呼吸も鼓動も奪う。
闘争心という言葉ですら生ぬるい、パラレイドへの憎悪を研ぎ澄ました闇の輝きだ。
それは今、瞼の裏に消えて見えず……本当にあどけない寝顔をさらしている。
「さて、もう少し眠りましょう。明日から久々に、学校へ戻れるんですから――!?」
だが、静かな夜が突然切り裂かれる。
突然のサイレンは、窓の向こうに無数のサーチライトをぎらつかせた。
すぐにベッドを乗り越え、千雪はカーテンを開け放つ。
夜空を切り裂く光の中には、何も見えない。
千雪の肉体は常人を超越する力を得ているが、義体化されたのは主に首から下だ。五感の強化にまでは至っていない。
だが、空手や柔術といった武道で鍛えた鋭敏な感覚が、頭上を通過する敵意を感じ取っていた。
「敵が? ……近い、ですね。れんふぁさん、統矢君も。起きて下さい、敵が」
その時だった。
突然、ガバッ! と統矢が身を起こした。
彼は、腕に眠るれんふぁをぶら下げたまま、目を見開く。
そこには、先程の安らかな寝顔はなかった。
「どこだ……! 敵は、奴は! どこにいるっ! 千雪!」
恐らく、無意識だ。
サイレンの音に危機を感じ取って、統矢は自分でも意識が覚醒する前に身体が動いている。その目は、本人の意志を無視して薄闇の中で焔を滾らせる。まるで黒い炎が燃え盛るような光だ。
「統矢君、大丈夫です。気配が遠のいていきます……恐らく、何かしらの偵察か示威行動かと……統矢君?」
「奴が……俺が、来たのか! 俺は……俺を、殺す! 俺の、この手で!」
「統矢君、落ち着いて下さい」
思わず千雪は、統矢の顔を抱き締めた。
胸の中で、荒い息遣いが身を震わせていた。
緊張に身を強張らせ、全身から殺気を発散している。そんな彼を静けさに繋ぎ止めるように、腕にれんふぁが抱き付いていた。
そんな二人を抱き締め、千雪はサイレンの音が途切れても動けない。
徐々に静かになる中で、外の光も一つ、また一つと消えていった。
再び夜が静けさを取り戻して、統矢も徐々に落ち着きを取り戻す。
「……あれ、俺は……って、千雪! な、何だよ、おいおい」
「何だよ、ではありません。……覚えていませんか?」
「いや、えっと……明日からまた学校に戻るし、それで、三人で」
「はい。さっき警報が……でも、もう大丈夫です」
「お、おう」
統矢は頬を赤らめ俯き、おずおずと離れた。
そして、一瞬とはいえあれだけの騒ぎだったのに、れんふぁが起きる気配はない。
統矢は改めてれんふぁをベッドに横たえた。
「悪ぃ、起こしちまったろ……千雪」
「いえ、起きてましたから。ついさっき、その、れんふぁさんに」
「ん? れんふぁが? どした。こいつ、すっげえ寝てるぞ。なんつーか、図太いとこあるよな、れんふぁって」
「……れんふぁさんの寝相に動じない、統矢君もかなりのものだと思いますが」
「え? こいつ、寝相悪いのか? ……何だよ千雪、笑うなって」
統矢が笑った。
そして、自分の微笑みを浮かべていることに千雪は驚く。
だが。統矢は枕元の時計を見てから、再度千雪を見上げて寝転がった。
「もう二時間は眠れるな。寝とこうぜ、眠れる時にさ」
「はい」
「……その、なんつうか……は、早く布団に入れよ。かっ、風邪でも引かれたら困るしさ」
「ですね。では……もう少しだけ、温め合いましょうか」
再び静かになった室内に、れんふぁの規則正しい寝息が響く。そして時々、彼女の寝言が耳をくすぐる。千雪も彼女同様に統矢へと身を寄せ、しばしの休息にまどろんだ。
九月も半ばを過ぎて、東北の短い秋の気配が深まる中……新たな戦いの前の、束の間の安らぎだった。