起
初の投稿になります。
十数年ぶりにペンを取った者のふんわり設定です。視点があっちゃこっちゃかもしれないです。
どうぞお手柔らかにお願い致します。
少しでも楽しんで頂けたらと存じます。
「どうか···、どうか! かの方との恋を叶えてくださいっ」
胸の前で祈るように両手を組み、潤んだ瞳で見上げてくる様はなんと庇護欲を駆られることか。
同じか少し上の歳の頃と思われる少女の願いに、扇で隠したオレリアの口端がヒクリと引き攣った。
扇を持ってて良かった!
すごい数。
社交シーズンのひとつの夜会に参加しながら、オレリアは思った。
きらびやかなシャンデリア。意匠を凝らした調度品。きれいに整えられテーブルを彩る料理。ピカピカに磨かれた床は鏡のよう。中央では着飾った男女が優雅な音楽に合わせダンスを楽しんでいた。
広いホールの中、沢山の招待客で賑わう夜会でグラスを傾けるオレリアは、不躾にならぬよう気を配りながら淡いインペリアルトパーズの瞳で視線を巡らせていた。
「おお、バランド伯爵」
「これはドルイユ伯爵ーー」
あの伯爵夫婦は繋がってない。しかもそれぞれ別の方へ続いているみたい。
仲睦まじいとのお話ではなかったのかしら。
「オーギュスト、あちらにーー」
「ああ、本当だ。ぜひ話をーーー」
あ、今通られた侯爵夫妻の糸はとてもきれいに編まれているようね。ああ素敵。
「今夜は公爵のディオン・ベクレル様がいらっしゃっているのよね」
「ええ、あの瞳に見つめられたらどうしましょう!」
期待に膨らんでいるのかしら。少し震えているように視えるわ。
でも、どこかへ伸びているようにも視えるのは気のせいかしら。
華やかなドレスに身を包んだ令嬢達が頬を染めている姿を眺めながら、決して口には出さないよう気を付けながら心の中で呟く。
ベクレルとは、この国にある三大公爵の内のひとつだ。確か前々年に当主となったのディオン・ベクレルは、長身で当主となる前に騎士として鍛えた肢体が堪らなく素敵とか。宵闇のような黒髪の間から覗くヴァイオレットの瞳がとても蠱惑的だとか。未婚の令嬢を中心に大変人気の美丈夫らしい。彼は23歳にも関わらず今だに結婚どころか、婚約者の影すらないと、それはそれは未婚者にとっては夢も見たくなる良物件だろう。
まあ、わたくしには関係のないことよね。
パチリと瞬いて、次に視線を変えた。
オレリアは、オリオル伯爵家の長女で17歳。
オリオル家は、貴族社会の中で平々凡々な真ん中に位置する家である。
普段は領地で経営の手伝いや学院生をしているが、社交シーズンだからと王都へ出てきていた。といっても領地は王都から差程離れていないので、馬車で1日あれば帰れる距離だが。
今夜の装いは、肩甲骨くらいまでの長さの、家族曰くミルクティーみたいなブラウンの髪を編み込みながら綺麗に結い上げ顕わになった白い項に後れ毛を垂らし、華美なものは好まないし慣れない格好は疲れるからと再三訴え侍女達に渋い顔をされつつも失礼にならない程度のシンプルなドレスに身を包んだ。それでもスカートは何重にもなっているし、コルセットもきっちり絞められている。
淡いインペリアルトパーズの瞳も紅茶みたいだと言われているが、別に紅茶好きなわけではない。
本人はパーツ的に平々凡々だと思っているが、ぱっちりお目々はくりっとしているし、つんとした小鼻は可愛らしい、さらに侍女により頬にのせられた紅がほんのり色付いているように魅せていて、侍女達に整えられた装いは彼女の魅力を十二分に引きだたせていた。
この夜会は義兄への招待に同伴として来ていたがどちらかといえば社交は苦手で、また義兄からは「少し外すけれどすぐに戻って来るからここにいて」と言われたので、素直におとなしくしていた。
義兄シリル・オリオルは、4歳年上でオレリアがうんと幼い頃に縁あって養子となった。
この国には性別による襲爵の縛りはなく、指定の学院の卒業資格を有していることが最低条件となる。なお、シリルは3年前にその学院を卒業し、オレリアも卒業予定である。
ちなみに、ちらりちらりと視線を向ける令息はいたが、まるっと気付いていない。
あまり参加しない社交という場を観察するのが忙しいせいでもあり、オレリアの特技のせいでもあった。
それにしても、義兄さまはまだかかるのかしら。
視界にはいるそれらを眺めながら、ふとため息を吐きそうになるのをぐっと堪え母に持たされた扇でそれとなく隠す。義兄に見られたら何を言われるか。
空になったグラスを通りかかった給仕係に渡し、ふと白のグローブに包まれた自分の手が目に入る。
右手の薬指からつぅと垂れている糸。それは縫い糸ほど細く、床へと垂れ下がり消えていてその様子にオレリアの胸中が軋む。
先程の頬を赤らめていた令嬢達の姿が瞼の裏にちらついた。
「失礼。オリオル伯爵令嬢でいらっしゃいますか」
「!」
少しぼうっとしてしまったようだ。不意に掛けられた声にビクリと肩が震える。
はっとして、けれども表面上を取り繕って声の方へ振り返れば胸に手をあてた少年が立っていた。
初見では面識は無い思うが、どこかで会ったことがあるのだろうか。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたか」
「いえ···、わたくしに何か?」
人好きそうな微笑みを溢す彼に、やはり面識は無いと判断したオレリアは半開きの扇で口許を少し隠しながら首を傾げた。
「申し遅れました、僕はラペルトリ伯爵が次男、ジャック・ラペルトリと申します。貴女と同じ学院生でもあります」
「まあ、そうでしたか」
「僕はずっと前から貴女のことが······、どうか···僕と一緒に踊って頂けませんか?」
同じ学院生かと思っていた時だった。
少し固くなった声とともに、スッと前に差し出された左手に言葉が喉に貼り付いた。とたん、意識等していないにも関わらず、淡いインペリアルトパーズ瞳が吸い寄せられるかのように彼の胸にあてたままの右手に固定され、そこを凝視してしまう。
ーーちっともわたくしに伸びていないじゃない。
オレリアは、ずんと胸の奥が重たくなるのを感じる。と同時に、彼は口では思わせ振りな言葉を並べていたが、そういえば決定的な言葉は口にしていないと気が付く。縫い糸より多少は太い赤が、正面にいるオレリアとは別の方向へふんわり浮いて消えている様子を確認しながら、眼前の少年に控え目に微笑んで見せた。
「っ!」
彼の頬が一瞬にして朱に染まる。
「申し訳ございません。義兄よりここから動かないように申し付けられております」
「それならば彼が戻ってきたら、」
「わたくしは貴方を存じ上げませんし、今後もそれが変わることはございません」
貴方のお気持ちはそれが教えてくれましたから。
「ーーー」
「お声掛け下さって、ご配慮には痛み入りますわ」
きっぱりと断りを告げる。差し出された左手は、今だ宙に浮いたままだった。
いつの頃からか、オレリアには人の指に絡む赤い糸が視えるようになっていた。
それは自分以外に誰も視えないのだと、そうはっきりしたのは7歳の時。自分の糸の先が繋がっていないと、泣いて泣いてシリルに訴えた時だ。両親にも話したが、困惑した眼差しを送られただただ戸惑わせてしまっただけ。他の誰に言っても同じだった。
あの時のきょとんとこちらを見るみんなの眼差しと、理解してもらえなかったことにひどく落胆した気持ちをオレリアはよく覚えている。
それ以来オレリアは糸のことは誰にも言わないよう胸の中にとどめたが、あちこちで起こるあれやこれやについつい糸を頼りにそれとなく助言ともいえないことを口にしていたら、いつの間にか恋の相談をされることが増えてしまった。自分の恋愛経験は、この糸のせいでほぼ皆無だというのに。耳年増みたいだ、なんてこった。
様々な経験の末わかったのは、これは恋愛的な糸だということ。触れることはできないということだった。
人によって縫い糸サイズから毛糸サイズの糸が右手の薬指から伸びていて、片想いなら想い人へと伸びるだけ。両想いなら双方の糸がお互いへと伸び、晴れて心が通じ合うと鎖編みのように絡み双方の指に繫がっていく。それらは、神の前で婚姻すると左手の薬指に移った。なので、両親の左手の薬指には、それはそれはきれいな鎖編みの糸が繫がっている。それはオレリアの密かな憧れになっていた。
糸は様々な要素によって繋がり方が違うなんとも奥深いもので、まれに小指の場合もあって。オレリアはこのパターンを「運命の糸」と呼んでいた。
なぜオレリアにこれが視えるのかはわからないまま、10年が過ぎていた。
「オレリア」
ふらふらと彼が立ち去った後、あまり間を置かずに甘い声音が呼んだ。
自分の名を呼べるのはこの会場内ではひとりしかいない。
「お義兄さま」
「お待たせ」
声のした方へ顔を向ければ、声と同様な甘やかな顔立ちの青年がオレリアの前に立った。
義兄はそのすらりとした体躯に華やかな礼装をまとい、いつもは下ろしているチョコレートのような色の前髪を後ろへ撫で付け形のいい額とすっととおった鼻筋がよく見えた。涼しげな目元を、髪色と同色の瞳とともに柔く細めながら薄い唇に微笑み浮かべていた。
「終わりましたか?」
「うん。オレリアは? 先程誘われていたのではないのかい?」
こてりと軽く首を傾けて尋ねられたので、すぐに否定した。
21歳になるのに、なんと義兄に似合う動作だこと。
「ダンスに誘われましたが、お断り致しました」
「どうして」
「同じ学院生とのことでしたが、わたくしは彼を知りません」
「? これから知っていけば良いだろう? それが社交でもあるのだから」
「いいえ。これで良いのですわ」
訝しげな義兄に微笑み、然り気無く視線をずらしてシリルの糸を確認する。彼の糸はたらりとしたままで、この夜会にはひとまず彼に手を伸ばす人はいないようだと、どことなくほっとした時だった。
ざわりと、さざ波のように辺りがざわめく。
「、お義兄さま」
「どうしたのだろう······」
そっとシリルに近寄ると、辺りを伺う。
ざわり、ざわりとどことなく浮き足だったような空気に連動するように、浮遊する糸がふわふわと動いた。
周辺の落ち着かない様子に、扇を持つ手についつい力が入った。
「ーーああ、なるほど···」
「?」
「どうやら今夜の夜会で一番の注目の君が近くにいらしたようだよ」
「それって······」
「見て、ディオン・ベクレル公爵とミュリエル・バラント公爵令嬢だわ」
オレリアは義兄の視線を辿った先、周辺の視線が集まっている先に淡いインペリアルトパーズの瞳を向ける。
その方は一目で分かった。
「ーーお久しぶりです、アルドワン侯爵、アリス侯爵夫人。中々お会いできず、申し訳ない」
「いいえ、いいえ。こちらこそ多忙な貴方様にこうして再びお会いできて光栄です、ベクレル公爵。バラント公爵令嬢とは、この前の夜会に殿下とお会いして以来でございますね」
「ええ、そうですわ。お気になさらないで下さいませ」
「そう言っていただけると心が軽くなります」
「少しお痩せになったのでは?」
「いえ、ーーー」
「ではーーーー、ーーー」
とても上質な濃紺に紫の差し色が入った礼装を着こなし、上品なドレスを身にまとった輝かしい女性を伴いあからさまな視線をものともせず堂々と立ち振舞い、洗礼された所作の黒髪の青年。多少距離はあるが醸し出す雰囲気が、そもそも他人とは違っていた。
ベクレル公爵家現当主、ディオン・ベクレル様。なるほど、噂通りの美丈夫であるのが窺えた。
「ベクレル公爵様よっ」
「ああ、お美しいぃ!!」
「今夜は王太子殿下のご婚約者様との出席なのね」
「バラント公爵令嬢が羨ましいわぁ」
「婚約者がいらっしゃらない公爵様へ、王太子殿下とバラント公爵令嬢が提案したのよね」
「素敵···」
「こちらを見てくださらないかしら」
「お声は掛けられないのがもどかしいわ···」
あちらこちらで、主に女性のうっとりとした声が囁く。
「······」
あれが視えていなければオレリアとて、マナー違反だとわかっていも綺麗な所作の彼らの方をずっと眺めていたかもしれない。
あれがなければ。
「ぅん···」
「オレリア?」
「あれは···たぶん恋多き人···なのね···たぶん、けど···うん、さすがにその数はないわ···」
「···オレリア、顔」
かの公爵様は、右手から上腕にかけてが異様だった。
うねうねと動く赤いそれは縄ほどの太さのものもあれば、細いものも視える。先程まで観察していたそれらと同じものかと疑うほど違っていてオレリアの淡いインペリアルトパーズは釘付けになった。
あのサイズの糸は初めてだわ···。
糸、糸、糸。
絡み付くそれのあまりの多さに、いくら触れることはないとはいえ何かしらの影響はあるのではないかと少し心配が頭をもたげるが、公爵が特に気にしている様子は見受けられないので大丈夫だろうと結論付ける。
公爵本人の糸がどうなっているのかなんて、この距離と糸の多さに判別はできなかった。
あの糸すべてが片想いの糸だとしたら、彼はそれだけの人に好意を向けられているということになるけれど、どれかと結び付いていたりするのかしら。
人の想いの賜物? 執念とでも言うの?
今だかつて無い程に蠢く赤いそれらに、悶々と考え込みながらオレリアは無意識に若干眉を潜めてしまう。
あの極太糸はどちらから······。あら、先程より糸が増えたかしら?
「オレリア」
「ーーー、」
「!」
オレリアの様子を見兼ねた義兄が顔を寄せこそこそと呼び掛けてきても、それでもじっと視ていたら公爵の瞳がこちらを向いた気がした。距離的にはっきりと見えたわけではないし、それとわかるような動作があったわけではない。けれども少し嫌な予感がオレリアの背中を滑った。
「、申し訳ございませんお義兄さま。少しぼぅっとしてしまっていたようですわ」
オレリアは予感に従い、ぱちくりと瞬いて瞬時にシリルに視線を移した。
「少し外の空気を吸いたいのですがよろしいですか?」
「オレリア、君は·········いや···ここではよそう。その変わり···わかるね?」
ほほほと扇で口許を隠しながら微笑んでみせると、義兄はぱしぱしと瞬いた後、ゆっくりと左右に一度頭を振った後ゆるりと口角を上げた。
「··············はい」
「ああ、良かった。では今日は宿に泊まるから明日屋敷に帰ったら···約束だよ」
チョコレートの瞳を細め甘やかな顔ににっこりと笑みを浮かべたシリルに、先程感じた嫌な予感はすぐさま吹き飛んだ。おそらく、公爵を不躾に見つめ続けたことを咎められるのだろう。
正確には彼ではなく糸を視ていたのだけども。ああしまったですわ···。
心の中でがっくりと肩を落とし、未来を嘆いた。きっと母も参加して伯爵令嬢としての礼節を説かれるのだろう。母も義兄もマナーには厳しいから。
「ーーあの、オレリア・オリオル伯爵令嬢でいらっしゃいますか···?」
「はい?」
シリルにエスコートされテラスへと歩を進めながら、内心で明日以降の自分を憐れみつつもおくびにも出さず優雅に振る舞う。と、テラスへ出る直前、背後から可憐な声に呼び止められた。
聞いたことのない声に、はてと思いながらも無視をするわけにも行かず2人揃って振り返る。
そこには淡いピンク色のふんわりとしたドレスに身を包み、きらびやかな装飾品を身に付けたストロベリーピンク色の長い髪の少女が、走ってきたのか少し荒い吐息を繰り返していた。その周りを浮遊する視慣れた色に内心少し動揺する。
え、糸が太いように見えるのは気のせいかしら?
「わたくしに何か···?」
どちら様かしら。
言外にそう滲ませて持っていた扇で口許を覆う。隣に立つシリルが何も言ってこないところをみるに、彼にも面識が無いのだろう。
「どうか···、どうか! かの方との恋を叶えてくださいっ」
ぐっと胸の前で祈るように両手を組み、潤んだ瞳で見上げてくる様はなんと庇護欲を駆られることか。
同じか少し上の歳の頃と思われる少女の願いに、扇で隠したオレリアの口端がヒクリと引き攣った。
扇を持ってて良かった!
「オリオル領のオレリア様のお噂は予々存じ上げておりました! ああようやく見つけましたよ恋のキューピッド様っ、どうかディオン様との恋の成就にお力添え下さいませ!!」
「は、??」
「、え」
響き渡った声に義兄妹の口からは言葉にならない音が零れた。
「わたしはディオン様の学院の後輩なのですが、実はあの方とわたしは運命なんです」
戸惑う2人にお構い無く、朱く染めた頬に左手を添え伏し目がちに切ない声音が訴えてくる。
さらりと癖の無い絹のようなその髪が肩口から前に流れる様子を視界の端に映しながら視た彼女の糸は、毛糸より太いくらいで義兄妹が来た方向へと続いているようだ。
というか後輩って、学院に在籍していればディオン様より下の学院生は全て後輩では? つまり義兄妹も。
いいえ、それよりも初めて聞く単語がありましたわ。
「恋のキューピッド······」
「お義兄さまはお口を閉じてらして」
おそらく領地での行いが原因か。
「どうかディオン様の好意をわたしにお示しください」
きゃぁ言ってしまったわ、とさらに頬を染める少女は、自分が今だに名乗りもせずにいることに気が付いていない。己の世界に、身どころか頭の天辺まで浸してしまっているのだろう。それこそ名呼びも許した覚えはないのだが。
「ーーわたくしなぞがキューピッドとは···とても畏れ多いことでございますわ」
きゃいきゃいとはしゃぐ少女がキラキラと瞳を輝かせるのとは対照的に、オレリアは冷めた眼差しでつぃと視線をそれに向ける。かの公爵の運命だと豪語する彼女を見極めてやろうと思ったからだし、そこを視れば大抵は判明するのを知っていたからだ。
「いいえ、いいえ! オレリア様にはわかるはずです」
「!」
その為に反応が遅れた。ぐっと近付かれ、あっという間に扇を持っていた左手が彼女の両手に包み込まれ、その力強さに驚く。次いで左手に走った痛みに息を飲んだ。
「オレリア!」
「さあさあどうか、」
ぎゅうぎゅうと握り込んできて、爛々と輝く瞳で間近に覗き込まれぞわりと背筋が戦慄いた。反射的に振り払おうとした刹那。
「ーーー何の騒ぎでしょうか」
固い声音が割り込む。
義兄妹がはっと周囲を見渡せば、後ろに部下らしき数人を従えた金色髪の男性以外の人々が少し離れた場所からこちらの様子を伺っているのが見え、一瞬にして血の気が引いていく。
「アネット・ドゥファン子爵令嬢、また貴女ですか······」
再度響く固い声音の主、金髪の男性はどちらか所属先の鋼の鎧に身を包んでいて。どこの騎士なのかは咄嗟には判別できなかったが、長年の癖か彼も公爵様程ではないが右手側が赤で染まっているのははっきり視えた。
「ジュスト様! またお会いできて光栄です!」
アネットと呼ばれた彼女は、騎士の姿を見るやパッとオレリアから離れカーテシーをする。その動きに合わせて、ストロベリーピンクの長い髪がさらさらと揺れた。糸はふよふよと浮遊すると、するりと防具付いた右手首の辺りに絡み付いた。
え、彼女の糸は彼にも向かうの?
彼は金色のセンターパートの前髪から覗く翠の瞳で眇め、端正な眉目に僅かな険を浮かべる。
「オリオル伯爵子息とその妹君に何を吹き飛んでいたかは知らないが···ドゥファン子爵令嬢、貴女は招待客の中にはいなかったはずですが? それに以前から伝えてきましたが、名呼びを許可した覚えはありません」
「あらそれはおかしいです、ジュスト様。わたしは、きちんと招待された方と一緒に来ましたし、ジュスト様はジュスト様でしょう?」
「貴女はーーー」
固く冷たい声と場違いな程に明るい声が飛び交う中で、解放されたオレリアの左手はすかさず義兄の手が優しく保護し、傷がないかを見聞される。その慣れ親しんだ温かさに、オレリアは血の気が少し戻ってきたような気がした。
「オレリア、リア···大丈夫かい? すまない、僕がいながら···」
「大丈夫ですわ、お義兄さま。少し赤くなっているくらいで痛みはもうありませんから。それよりもどうしましょう、騒ぎになってしまいましたわ···」
「彼はおそらく、先程のアルドワン侯爵の次男、ジュスト・アルドワン様だろう。確かベクレル公爵と同じ年で、同じ騎士団に席を置いていたという話を聞いたことがある。僕らはただ一方的に絡まれただけと分かってくれるといいけれど···」
義兄妹で身を寄せ合い、固唾を飲んで見守る。こうなってしまっては、明日以降社交界で噂の的となるのは必然的だろう。せめても傷が浅くなることを祈るしかない。出来ることなら今すぐこの場を辞して帰りたい。騒ぎの責任を取りますわ······!
そんな願いは、彼女がばっとこちらを手で指し示してきたことによって簡単に打ち砕かれた。
「ですから、こちらの恋のキューピッド様に啓示をもらいに来たんです」
「は、恋の?」
「オレリア様は恋のキューピッド様なんです! わたしの恋を成就してもらえるんですよ」
またもあの聞き慣れない単語が飛び出した。
ほら見て、彼女の挙動につられてこちらを見る騎士様の瞳を···もう関わりたくないですわ。
向けられた翠の瞳に、オレリアは切実にそう思った。あいにくと扇は先程のせいで床に落ちたままになっているので、口許を隠す術がない。なんとか教え込まされた教養でもってして、引きつりそうになる口許を抑え込む。
頭上では、またこちらに意識を向けた子爵令嬢に義兄が警戒する気配がした。
「あの···先程も申し上げました通り、わたくしなぞがキューピッド様とは、とても畏れ多いことですわ」
「だそうです。ドゥファン子爵令嬢、約定に従い貴女には別室に移動してもらいます。拒否権はありません」
「そんな横暴です! オレリア様どうしてですか? 貴女は右手を見れば分かると」
「義妹に近付かないで貰えますか?」
「そんな!」
数々の非礼を非礼とも思わず、なぜか悲壮感を漂わせた彼女の姿にその場にいた誰もが辟易する。さらにはオレリアへ一歩踏み出してきて、すかさず鋭い声音が釘を刺すとその顔を益々顰めた。
右手の糸が彼女に呼応するかのように太さがまちまちになりどんどん歪になっていく。
「本当なのに! わたしはディオン様の運命だと言っていた······っ」
「別室へ!」
は!、と数人の男女の騎士が指示を受けて動き出す。
「あっいや、まっ」
首を振り抵抗しようとする少女を、有無を言わさずに騎士は連行する。と、騎士様に絡んでいた糸が一際強くピンと張ったと思ったらすぐにたわんで、消えた。
これはきっと恋の終わりだわ···。
騎士様の対応に少女の心が離れたのだろう。同情の余地はないけれど。
オレリアはその後ろ姿を見送りながら、もう二度会いたくないと思うのと同時に、ポツンと黒いものが胸の中に落ちるのを感じた。
「騎士様、この度はお騒がせしてしまい、誠に申し訳ございません。主催の方々にもご迷惑を···」
「!」
義兄の固い声にハッとした。
首を巡らせると腰を曲げ礼を尽くす義兄の姿があって。オレリアは慌てて、でも極力隠しながら義兄に倣う。
「いいえ。その必要はありません。どうぞ顔を上げて下さい。今回のことはこちらの落ち度で、貴方々は巻き込まれただけですので」
少女と対峙していた時と違い、柔らかく変化した声が困惑するのを後頭部に感じる。
それでも頭を上げることを義兄とともに躊躇っていると、そこに新たな足音が響いた。
「ーージュストの言う通りです」
「!!」
「ディオン、様······こっちは任せてくれるんじゃなかったんですか?」
「彼女がいる間はな···。お二方とも後日改めて時間を頂けませんか。謝罪しなければならないのはこちらの方です。伯爵へは私の方から連絡させて頂きます。今はこれ以上の騒ぎにはしたくない」
「、そう···おっしゃって頂けるのでしたら······」
あえて声量の落とされた声に、恐々と下げていた頭を上げる。とそこにはやはりディオン・ベクレル公爵その人がいた。今夜の同伴者の公爵令嬢は近くに姿は見えない。
初めて間近で拝見したが、なるほどと二回目の納得をする。
さらりと癖の無い黒髪に、そこから覗く眉目秀麗な顔立ちは誰もが見惚れるだろう。切れ長のヴァイオレットの瞳は、髪で半分程隠れた左耳にだけ輝くピアスと相まって噂通り蠱惑的だ。がっしりと筋がつまっているというその体躯は義兄よりもいくらか身長が高いようで、いつもより首を反らして見上げる。
義兄は格好いいとオレリアは思っていたが、こちらこそが格好いいだったのだと知った。
だけれども、このお二方が揃うと赤に視界が半分以上侵食されそうなので遠目に見掛けるくらいが程好いともオレリアは思った。
「ああ、あいさつが遅れました。ベクレル公爵ディオン・ベクレルです」
「アルドワン侯爵が次男、ジュスト・アルドワンです」
「オリオル伯爵が長男のシリル・オリオルと申します。こちらは義妹のオレリアです」
「オレリア・オリオルです。お目にかかれて光栄ですわ」
「どうぞ私達のことはシリル、オレリアとお呼び下さい」
目があったと思うと、にこりと微笑まれ形式通りにあいさつを交わす。
しかしカーテシーをした後は、視線は公爵の胸の辺りに留めた。隣で義兄が何かしらやり取りをしてくれていたが、オレリアの頭の中は胸中に落とされた一粒の黒い淀みのことでいっぱいだったのだ。
辛うじて反応することは防げたけれど、彼女はどうして知っているの······。
あの、ようやく見つけたとはどういうことかしら···。
今までになかった、言い知れない漠然とした何かがじんわりとにじり寄って来るような、そんな不安を感じて。ぐるぐる考え込みながら、無意識の内にぎゅっとドレスのスカートを握りしめた。
「ーー彼女、あの後、何かをひたすらに考えているようでしたね」
ガラガラと走り去る馬車を二人で見送りながら、目線は合わせずにこそりと呟く。
背後の奥の屋敷ではまだ夜会の最中で、馬車止めに他者の姿など影も形も無いが、一応念のためなのだろう。
「ああ」
「一体何を考えていたのか···、あのディオン・ベクレルを前にしてまで考える事柄があるとでも? オレの両親にディオンがあいさつに行った時は、まさに穴が開きそうな程に見つめていたのに?」
「、いや。彼女はあの時も俺を見ていたわけではない」
「えぇ?」
「······」
走り去ったそれはもう見えないのに、じっとその方角を見続ける。
暗く先が見えない夜に淡い色が見えたような気がしたから。