第83話 赤に染まる①
闘技場。それは大きな円だった。中央には土の地面。2m程盛った先から後方上へと長椅子が沢山並んでいる。
「殴り合いの試合が行われてました。観客もそれなりにいて、賑わってましたよ。どんなものかと覗いただけで、すぐに出たんですけどね」
「その様なものを見る者は、暴力とは無縁なのでしょう。皮肉のために用意されたのでしょうか」
「そうかもしれません」
風が吹き、なにかが飛んで来て頭に付いた。近くには飛んで来る様なものなど、なにもないはずだ。なんだ?
「取りますよ。じっとしててく…」
弓弦さんが伸ばした手が、横から掴まれる。
「戻ったらすぐに弓弦くん専用の棺を用意しても良いんだよ」
「申し訳ございません」
ボスの手が私へ伸びて来る。私は、それを避けた。
「以前は放っておいたにも関わらず、今になって関心が強いですね。ボスが本物であることは分かっています。ですが、なにか変です」
ゆっくりと表情が変わってゆく。それは、寂しそうな笑みだった。
「本当はずっとこうしたかったんだよ。でも事情があったからね。霞城くんのために正体を明かしたときは、嫉妬で狂いそうだったよ」
「嫉妬…」
「そう、嫉妬。さぁ、私の傍に」
違う。なにが違う?分からない。でもなにかが違う。どちらが正しい?
「絢子くん、どうしたのかな」
「い…嫌です」
駆け出して、ここへ来る前にいた控室らしい部屋へ向かう。
「慌ててどうしたの?恭一くんが行ったけど、会わなかった?」
沙也加さんに突撃して、腕を回した。
「えっ、なに?…もう、恭一くんはなにをしたんだか。よしよし」
回されなかった方の手が、私の頭を優しく叩いた。歌声がそっと耳に届く。聞いたことはないが、優しい歌なのだろう。
なにも変わらない。なにも分からない。
それなら、なかったことにするしかない。約束と同じ様に、なかったことに。
正義に正しさがない様に、感情に正しさなどない。であればそれが正しいことにするか、それをなかったことにするか。この二択のみ。
「なにをしてるのかな、沙也加くん」
「アタシだって知らない。多分恭一くんのせいでしょ。なにしたの?」
沙也加さんの腕を抜けた勢いのまま、ボスを近くの椅子に座らせる。
「ボス、再び私の玩具となりましょう」
「どうしてかな」
「私の玩具の箱の中では、私だけが正しいのです」
だから、私の玩具になって。
貴方の嫉妬も、私の嫉妬も、違う方向へ間違っている。でも貴方が私の玩具になれば私が正しい。
「ふぅん、さっき絢子くんが私を拒絶した理由がなんとなく分かったよ」
「他人同士が分かり合うことなどありません。そう思うのは傲慢な自己満足です。だから支配が必要なのです」
私の頬に、ボスの手がそっと添えられる。
「分かったよ。それなら、絢子くんはずっと私の玩具でいるんだ。絢子くんにとって、私が全て正しい。良いね」
その瞳に映っている人物は、何者だろうか。
「絢子くん、返事は」
「はい、ボス」
私の言葉に合わせて、ボスの瞳に映る人物の唇が動く。だからボスの瞳に映っているのは私だ。
ボスが、私を私にしてくれるのだ。
「良い子だね」
私だけが間違っていたのだろうか。
「ここに座って。髪に付いたものを取ってあげるよ」
ボスが軽く叩いた場所に座る。ボスの隣だ。ふわりと、髪に優しく手が触れる。その手はすぐにどこかへ行ってしまったが、代わりに優しい声が聞こえた。
「取れたよ」
「ありがとうございます」
微笑んだボスの瞳に映っているのは、私だ。私
「ちょっと恭一くん、それは最早洗脳でやり過ぎだと思うけど」
「そうかな。たったひとつ私が本当にほしいものなんだ」
「人を賭けるってこと自体もだけど、じゃあなんで絢子さんを賭けたの?アタシたちのことなんて、欠片も信用してないでしょ」
東恭一が人を信頼?笑えない冗談だ。
「私は十分戦えると言った絢子くんを信頼してるんだ。弓弦くんは実績もあるからね。ところで弓弦くんは何人かな」
「…4人です」
「うん。仕留めたのは、と言い訳しないのは良いことだね。でも人数なんて数えてる暇があるなら鍛錬を積むこと。良いね」
…本当にそうなのだろうか。名を知らない者もいる。せめて“数”としてやらなくて、誰が覚えていてやれるのだろう。
その必要がないと、ボスは言っているのだろうか。
では死んでいった友人たちは、どこへ行くのだろう。殺した者が“数”としてすら覚えていない彼らは、どこへ行けば良いのだろう。
じっと、腐ってゆく自分を見ているのだろうか。
「はい、申し訳ございません」
それとも、誰かが覚えていればそれで良いのだろうか。
だが私はもう、友人たちの顔を思い出せない。いつだったか霞城さんに、夢を熱心に語った顔は思い出せると言ったがそれも、もう思い出せない。
そういえばそのとき、こうも言った。私が守るから、貴方は私より先に死なない。何故あんなことを言ったのか思い出せない。
心の弱った少年を見て、優越感に浸っていたのだろうか。
「絢子くん、虚無を見てどうしたのかな。少しでも傷が痛むなら、早く痛み止めを飲んだ方が良い」
「どこか怪我してるならなんで早く言わないの?どこ?」
「様子を見て気付かなかったんだね。ボスになるには初対面の人物相手にそういう目も必要だよ」
異能『マッチ売りの少女』の視覚共有がどの様にされるかは分からない。しかし“共有”なのだから、角南誠が見ていないものは見えないだろう。
普通に歩くだけなら問題ない。大きく動いている私を見る機会は、晴臣さんを殺した際くらいだろう。
「激しく動いてももうあまり痛くはないんだろうけど、庇って歩いてた癖が少し残ってる。大丈夫、傷が治れば直に治るよ」
全く気付かなかった。
「弓弦くんも少し手を怪我したのかな」
「いいえ、自分は特記すべきものはありません」
こちらも全く気付かなかった。だが、心当たりはある。それは弓弦さんも同じはずだ。当人が言わないのなら、私も黙っているべきだ。
「絢子くん」
「気付きませんでした。申し訳ございません」
「命令だよ」
全て命令に従っているだけで良いのだろうか。だが、私にとってボスが全て正しいのだ。迷うことが間違っているのでは。
しかし弓弦さんが言わない理由が分からないまま答えてしまって、本当に良いのだろうか。
「戦闘に出ておりますので、全く怪我をしないことはありません。しかし慌てて手当をする様な傷を負ったことはなかったと記憶しております」
「以前なら“言えない”とだけ言っただろうに、成長したね。幻覚を見せる異能が関係してるのかな。これ以上は詮索しないでおくよ」
弓弦さんは俯いてなにも言わなかった。それが答えの様なものだったが、誰かが言及することはなかった。
しばらく無言が続く。その間ボスはずっと、私の手を撫でていた。
「そろそろ行こうか」
5人で小さく返事をすると立ち上がる。戦闘を行う土の地面へ通じる、唯一の通路へ向かった。
時計の針が10を2つに分ける時間の数秒前。私は土の地面を踏んだ。
「北辰巳を殺したのは私だ。己の優秀さを示したいのであれば、ここで私を殺してみせろ」
ここで北虎太郎以外が出て来れば、計画から大きく外れてしまう。
しかし最初であれば修正しやすい。北虎太郎がいつ出てくるかも分からない。最初に引きずり出してしまった方が賢い選択と言えるだろう。
「証拠は今提示することが出来ない。だが、北銀司と東に残って報告書を書いている者に聞けば分かる」
正雄さんが反逆者だとしても、報告書は私も弓弦さんも作成する。記憶違いだと言い逃れ出来ない程事実と異なることは書けない。
「北辰巳が死んだのは最終日の3日前だ。自身の異能に有利な土地に部下を2人連れて行ったにも関わらず、部下もろとも殺されたと聞けるだろう」
仙北谷螢がいなければ、苦戦していた。部下を連れて来たことが徒になったわけだが、それを言う必要はない。
「どうした。その様な人物を相手にすることを恐れているのか。腰抜けだな。あの3人は私が北政宗を殺したと知っても果敢に挑んで来たというのに」
やっと出て来た。昨日は見なかった者だ。北虎太郎だろう。
「勘違いするなよ。最初から俺が出る予定だった。ひとりで語るものだから、聞いてやっただけだ」
「言い訳は結構です。私はどちらでも構いません。北虎太郎、あなたが出て来たという事実は変わりませんので」
開始の合図が鳴り、北虎太郎が弾を放つ。そんなものは、私には効かない。刃物で弾を弾き、距離を詰める。
このまま首を切れば一番簡単だが、生かしておけば情報を得られるかもしれない。しかし持ち帰るのであれば、足の怪我は面倒だ。
首に刃物を当て、銃を突き付ける。この距離なら外すことはない。
「死にたくなければ降参しろ」
「お前らには情報が圧倒的にない。殺せないんだろ」
私が出て来た方の通路で、空気が妙な動きをしている。手を振っているのだろうか。では殺せないな。
「俺がこのままじっとしてると思うか?一方的に殺されるくらいなら、自爆覚悟で動いたって良いんだ」
出来るなら早くやれば良い。しないということは、出来ないのだろう。私は背が低い。合図が見えていてもおかしくはない。
手を振る以外で、腕を大きく動かす。そしてそれを見て焦る。円を作っているのか。つまり殺して良いということだ。
首元から噴き出したものが、私を汚した。
「準備運動にもならないな」
これなら誰が当たっても問題なかっただろう。そして、ここへ来なかったとしても脅威にはならなかった。
楠巌谷がこれを読んでいたとしたら、まんまと踊らされたな。