第80話 机上の①
太陽が顔を見せ初め、私は目を覚ました。ボスは小さく寝息を立てている。私の、私の可愛い主。
少しの間、その顔をじっと眺めていた。
部屋に近付く足音が聞こえ、刃物に手をかける。そっとベッドを抜け出そうとすると、服が引っ張られた。
「おはよう。東の者の誰かだよ」
「おはようございます。起こしてしまい、申し訳ございません」
「良いんだよ。ところで絢子くん」
扉が軽く叩かれ、ボスが返事をする。
「おはようございます。陽が出て来ました。出発の準備をお願いします」
「おはよう。ところで佐治くんは、絢子くんの怪我を知ってるのかな」
そっと足に触れる。虎鋏で怪我をした方の足だ。
「いいえ…異能戦争で負傷したのであれば、知っているのは弓弦と正雄さまのみではないでしょうか」
「異能戦争で負ったものです。殆ど治っているので、問題ないと判断して報告しませんでした」
そっと抱き寄せられる。
「駄目だよ、私には報告しないと。誰にやられたのかな」
声はいつものボスだ。だが、雰囲気が違う。
「戦闘パートの生き残りは東だけですので、もう死んでいます」
「そうなんだね。では戦略パートの者の名前は?私の大事な可愛い玩具に傷を付けたんだ。報いを与えなくてはね」
ボスがなにを考えているのか、これまで以上に分からない。
「ボス、この傷は治ります。落ち着いて下さい」
「私は落ち着いているよ。絢子くん、命令だよ。言ってごらん」
そのままの姿勢で頭を撫でられる。とても優しい手つきだ。
「…南の者です。名前は分かりません」
「また、こうして絢子くんを苦しめるんだね。戻って戦略パートの者を見つけて、見せしめも兼ねて殺そうか」
「反発を買うだけです。大陸を治めるには、大陸に住まう者の協力が必要不可欠です。それくらい、ボスなら分かるはずです」
一体どうしたと言うのだろう。
「戻ってからゆっくり話しましょう。今は一先ず、ここから退散するべきです」
「本当にそうかな」
ボスの指摘も分かる。予想外に敵の数は多かった。補充される前にここで叩くことも選択肢のひとつではある。
だが、こちらはもう武器が少ない。ボスの手当もきちんとしたい。
「各組織の御用人を捕まえ、密かに裏切ってる者を特定する。可能ならこちらも捕まえる。これは東の力を示すことになるよ」
「力を誇示して従わせたところで、すぐに破綻してしまいます」
「飴と鞭みたいなものだよ。大陸に住む全員が何事においても常に幸せであることなんて、有り得ないんだからね」
なんの算段もなくこの様なことは言わない。分かっていたはずだが、この言葉で改めて知らされた気がした。
「昨日はね、1 on 1を申し込みに行ったんだよ。一対一の勝負」
少し距離を取ると、私の目をしっかりと見た。ボスの瞳に、私が映っている。私だけが映っ…間違えた。
「こちらの戦力は知られています。不利です。何故その様な危険なことをしたのですか」
「ただ捕らえられてたわけではないんだよ。私を信じるんだ」
そうしたいのは山々だが…などと言うつもりはない。既に申し込んだのだ。敵前逃亡などするはずもない。
「はい、ボス。佐治さん、皆さんを呼んで来て下さい」
「本気ですか」
「当然です。戦えとの、ボスの命令ですから。そして敵前逃亡など、私には出来ません。賽は投げられたのです」
一対一であれば良いのであれば、私が全て相手をしても良い。むしろ沙也加さんを戦わせるなど、危なっかしくて任せられない。
「分かりました」
佐治さんは説明をして連れて来てくれたのだろう。弓弦さんは呆れ、沙也加さんは怒り、新さんは苦い笑みを浮かべていた。
ひとしきり文句を言った沙也加さんが、荒々しく椅子に腰掛ける。
「やるならやるで仕方ない。相手の異能でも分かってるの?」
「話が早くて良いね。勝算は十分あるよ」
異能を使用する場面を見たからと言って、特定出来るとは思えない。そして、わざわざ教える必要もない。
「東野悠の異能は手紙にあった『マッチ売りの少女』。南海人は嘘が見破れるもの。西間スミレは髪を操る。楠巌谷は時間を戻すもの」
ボスも視覚共有をしていたのだろうか。嘘が見破れると聞いて思い付くものは『狼と七匹の子ヤギ』だな。
西間スミレは汎用性が高そうな異能だ。鋭くし攻撃に。自分の周囲を覆い防御に。楠巌谷の様に時間を扱うものは厄介だが、戻すこと限定か。
「触れた物の時間を戻せる。“触れた物”は時間制限があるか、触れた順に威力が弱くなっていくか、かな。落とされた指がね、落ちずに地面にあったんだ。確かに今落とされたはずなのに」
時間を進めることが出来るなら、体感的に指が存在しない時間があるはずだ。ボスの推理は大きく外れてはいないだろう。
だが、何故戻すことしか出来ないと思ったのかが分からない。戻すことしかしなかったのかもしれない。
「もし時間を進めることも出来るなら、私なら時間を何度も移動する。目的は時間の感覚をなくすこと。そして、来てくれたと思ったら次の瞬間にはいないという、精神的苦痛を受けさせるためだよ」
そんなに私を頼りにしていてくれたのか。
しかし推論の域を出ない。しなかっただけ。そもそもその考えがなかった。いくらでも可能性はある。
「他には西で異能戦場へ赴いていた者。生き残っていそうな口ぶりだったから、戦略パートの者だね」
「でしたら西真白という者です。霞城さんを溺愛していました。曰く極度の人見知りだそうです」
「参加に霞城くんが関係してるなら、今後の働きには期待出来ないだろうね」
霞城さんの死を報告する時間などなかったはずだ。やはり視覚共有をしていたのか。ではあの出来事を全て知っていて、なにも言わないのか。
「北の者は、虎太郎という男性だよ」
佐治さんが弓弦さんに視線を向けたことで、弓弦さんに視線が集まる。
「北虎太郎は、自分が北にいたときの直属の上司の弟です。あまり話したことはありませんが、なにかと兄と比較されてました」
「お兄さんはどんな人なのかな」
「少々厳しいことも言いますが、心優しい器用貧乏です。ですが異能戦場へ戦闘要員として赴いていたので、他界しています」
私が北政宗を殺したと言って髪を差し出した際、たじろぐことなく虚言だと言い切っていたな。戦略パートの者はたじろいでいた。
「参加の理由にお兄さんへの劣等感はあると思うかな」
「そうですね…あってもおかしくはないと思います」
嫌な笑みを浮かべるボスとは対照的に、弓弦さんは暗い顔をしている。
「行方が知れなくなる数日前に偶然お会いしたんです。取り繕えないほど思い詰めてましたから」
「それなら、異能の本を奪った者が狙われるかもしれないね」
兄に勝てなかった者に勝った己は、兄より優れている。
単細胞の様な考え方だ。場所や気象は同じなのか?様々な要因が複雑に絡まって“今”というものは出来ている。全く同じことなど二度とない。
「最後に東だけど、姿を見せなかったんだ。だから分からない。いるとは思うんだけどね」
ボスの言葉に全員が頷く。
内通者がいた方が動きやすいということもある。しかし、それよりいなくてはいけない理由がある。
平等を掲げているからだ。
どこかひとつの組織の者だけいないなんてことは、あってはならない。
改革前から差別があった。改革にその組織の意見が取り入れられていない。それは平等ではない。
「御用人となっていない苗字のある者は、他に目的がある様に感じます」
「そうだね」
「東の者がそうであるとすれば、東の一員としてより優先すべきことがあったのではないでしょうか」
単にボスに顔を知られているという場合もある。覚えられていないとしても、いつ偶然会わないとも限らない。
知られないままの方が動きやすい。そのため来ない様になっていた可能性もある。だが、ひとつ気になることがある。
「一昨日、農園のボスが本部を訪れていました」
「今回異能戦場へ赴かなくとも不自然でないよう、用事を作ったのだと仰りたいのですか」
佐治さんの言葉に小さく頷く。どの様な用事か、一番簡単なものを弓弦さんはすぐに思い付くだろう。
「これからはどの組織からも協力を徐々にでも得られるはず。なのに今更…自分のためだけに人を使うなんて」
また、今にも泣き出しそうだ。事情を説明しようとしているのだろうが、言葉が詰まって出て来ない様子だ。
「ボスはご存じかと思いますが、霞城さんが使者として最初に辿り着いた場所は農園のボスが統括する区域にある孤児院です」
「うん。自らの足で辿り着いたと聞いてるよ。それだけは、私しかいない場所でも頑なに主張を変えなかったんだ」
一体どこまで見通せば気が済むのか。
「弓弦くんが送り届けたんだね。そして、そこに内通者がいることを知りながら黙ってた」
弓弦さんの弱々しい肯定が、妙に耳に残った。
「弓弦くん、勘違いしてはいけないよ。私たち人間はみな、己のためだけに生きてるんだ。誰だって例外の部分はあって“貿易の”は多少それが強いけど、組織の犬だからという理由で私の玩具を勝手に使ったんだよ」
なんだ、双葉さんは東恭一の心に全く住まっていなかったのか。命令に従ったのみだが、損をした気分だ。
「とは言っても、あの言葉で殺せと命令されてると分かるなんて。絢子くん、成長したね。とても嬉しいよ」
いつもの可愛らしい笑顔だ。得したな。




