第72話 どこにいても④
適当な部屋に入って腰を落ち着けた。貿易のボスは、弓弦さんが淹れてくれた紅茶を一口飲んで大きくため息を吐く。
「まずは霞城について聞く」
「私が殺しました」
「理由は」
「霞城さんがそう望んだからです」
あくまで本人の希望や命令。晴臣さんも、双葉さんも。この姿勢を取ることで、今後動きやすいことは間違いない。
まだ恭一の心に少しでも住まう者がいるかもしれないのだから。
「それは結果だ。何故行動を起こした」
「ボスの玩具だからです。私だけで十分のはずです」
「流石恭一のお気に入りだ」
紅茶をもう一口飲むと、私の目をしっかりと見る。
「2人も同じような理由か?」
「はい」
「そうか。晴臣は抵抗出来たが受け入れた。霞城もそうだろう。蘭道の娘は俺が命令したようなもの。咎めることは出来まい。異能については?」
形式になった説明をする。
「なるほどな。それで弓弦のあの確認か」
異能の詳細について知っていたとはいえ、あのとき晴臣さんから髪飾りの色を聞いた。そんな発想があるのは、察しが良いのだろう。
異能戦場でもそうだった気がする。なんだか遠い記憶の様な気がして、あまり思い出せない。
「姿を次々と変えた異能について解決する必要がある」
「深読みですが、角南誠が所持している異能は『マッチ売りの少女』ではないのではないでしょうか」
「あり得ますね。変身のような異能を角南誠が持ってるとすれば、“説明してある”って文章の説明も出来ます」
姿を変えると聞いて真っ先に思い付く異能は『長靴をはいた猫』だ。そういえば、今どうなっているのだろう。
「『長靴をはいた猫』は今どこにありますか」
「角南誠のことでごたついて言っていなかったか」
罰の悪そうな表情。それだけで、大体想像出来るというものだ。
「盗まれた。木を隠すなら森の中という理由で書物庫で管理し、交代で警備していた。犯人はおろか、盗まれた正確な日時も分からない。少なくとも一昨日の昼にはあった、としか。預けてもらったのにすまない」
立場関係なく謝罪出来ることは、美徳だ。
だが、そうは思わない者もいるだろう。自分のボスが、主が、下の者に謝罪をする光景を不満に思う者もいる。
「起こったことは仕方がありません。『長靴をはいた猫』の物語を教えてもらえますか」
父親の遺産として猫一匹を押し付けられた末っ子がその猫の手腕で妃と結婚する。そんなところか。
変身は敵役がなんにでも変身出来ることからだろう。嘘を本当にする方は猫の手腕についてか。
「猫は末っ子に対しては指示をしただけで、嘘は吐いていない。その様に思えますが、合っていますか」
「ああ…そうだな。そんな印象だ」
変身を見せられる相手は、変身の対象となる者が欺きたい者。強く見せたいと思う者。それか―――、強く心に決めた相手ではない者。
これは願望か。だが、そんなとことだろう。
全て仮定でしかないが、辻褄は合う。私にはボスが見えない。弓弦さんが会いたい人が弓弦さんに見えることに驚いた。
「角南誠の異能が『長靴をはいた猫』であれば一先ずの問題は解決するはずです。確認しに行きましょう」
「分かった」
元居た部屋に戻ると、角南誠が暴れていた。椅子に縛り付けられていない。
「拘束もまともに出来ないのか?勘弁してくれ。佐治」
短い返事をして駆け出すと、あっという間に捕らえてしまう。
「仁彦といったか。筋は悪くないはずだ。鍛錬を怠るな」
拘束された角南誠の服を探り本を取り出すと、部屋を出て行く。そして少し前まで座っていた場所に腰を落ち着け直した。
小さくため息を吐いて、本を私に投げて寄越す。題名は『長靴をはいた猫』。
「予想通りだ。気付いているか?」
「はい。恭一が加担していれば、全てにおいて難しいことではありません」
その場合、楠巌谷と完全に目的が一致していることは、可能性として低い。楠巌谷の一部の狙いと恭一がやりたいことが一致したのだろう。
互いに利用し合っている。
問題は恭一と楠巌谷が接触出来た理由や、恭一が楠巌谷の目的を知っていることだ。だが、これは考える材料が足りない。
「意地でも認めないかと思ったが?」
「いいえ。事実は事実としてしか存在し得ません」
冷めてしまった紅茶が、新しいものに変えられる。湯気は霧によく似ていたが、頭は妙な程冴えている。
「楠巌谷には恭一を誑かしたその罪を、きっちり償ってもらいます。どの様な理由であろうと、我儘や正当性とは程遠い行為です」
「恭一に罪はない。とでも言うつもりか?」
「いいえ。私にとって恭一であろうとボスであろうと、彼はいつでも東という組織に属する東恭一という者です。行為を断罪するのは、私ではありません」
軽く鼻で笑うと、紅茶を飲む。
「噂に惑わされる者ばかりでなくなることを祈るばかりだ」
ゆっくりと一杯飲み切ると、弓弦さんにお代わりを要求。
弓弦さんは貿易のボスの傍にいたと言っていた。貿易のボスは、部下の紅茶が恋しいとも。貿易のボスの紅茶を淹れていたのは、弓弦さんだったのだろうか。
「異能戦場のルールは聞いている。戦闘エリア以外の場所は広いのか」
「市場の広さは、貿易本部から一番近い街が3つくらいです。自然溢れる場所もありました」
その街がどのくらい大きいのかは分からないが、恭一と行った街よりは大きいだろう。あのときは歩数など数えてはいなかったが、体感として4つは入りそうだ。
「離れた場所に各組織にひとつの建物が用意され、部屋は上限の人数分に風呂、キッチン、食堂。広い建物でした」
「そうか。さぞ居心地が良かっただろう」
「猫は狭いところの方が好きですし、人それぞれですよ」
紅茶の入ったコップを置きながら言った弓弦さんの目を覗き込む。しばらくの間、2人の視線が濃密に絡んだ。
「変わったな」
嬉しいのか、寂しいのか、よく分からない笑みだった。
「そうかもしれません。でも、ボスが変わったからです。正確には、変わり始めるボスを見たからです。愛らしい我が主」
「止めろ。紅茶はもう良い。座れ」
3人掛けの椅子の中央に座っていた貿易のボスの左隣に座る。すると、佐治さんも右隣に座った。
「弓弦が座るのですから、当然構いませんね」
「ああ…構わないが、そんなタイプだったか?」
「長が変われば、下の者も変わります。敵役が変われば、己も変わるのです。最もわたしに影響力があるのはボスですが」
「…そうか」
両脇に男を侍らせる男。辞書で読んだな。確か、薔薇。いや、それは色恋沙汰だな、違う。親愛が行き過ぎている様にも思うが、気のせいだろう。
「なにを話していたか分からなくなってしまったではないか」
「異能戦場の戦闘エリア以外の広さ」
慣れた光景だとは思えないが、慣れた様子で淡々と言った正雄さんも3人掛けの椅子の中央に座っている。だが、周囲には誰もいない。
「そうだったな。敵勢力は不明だ、広さで考えた方が良いか。多ければ良いというものでもないからな…人数はどれくらい欲しい」
視線が私に向いている。戦闘に慣れているだろうという理由で尋ねられているだけで大した意味はないだろうから睨まないでくれないか。
「戦闘能力や戦法によりますが、弓弦さんがいれば他には3人いれば十分だと思います」
「他の3人に同等の戦闘能力は求めてはいないよな?」
弓弦さんを異能戦場へ送り出しておいて、少し劣る者もいないのか。それでは東が手薄になってしまう。いくら休戦しているといっても…終わったことだ。
「東に割り当てられた建物にいるであろうことは想像出来ます。門からの距離を考えて、人数は必要はりません。戦闘能力は基準に出来る者に心当たりがないので、なんとも言えません」
はっきり言った割に根拠は薄いが、楠巌谷はそこで恭一と共に待っている。それは間違いないと思っている。
「その考えは分からなくはありません。きちんと指揮する者がいれば、他に3人で大きな問題はないと思います」
貿易のボスも特になにも言わないか。ということは、正雄さんが指揮すること自体を心配していたわけだな。そして戦略パートは晴臣さん。
「“経済の”は残って報告書の作成だ」
報告を蔑ろには出来ない。それは分かる。
だが、地の利があるにも関わらず行かないことは自尊心が傷付くのでは。異能も持っている。無暗に所有者を増やすことは得策ではない。
「俺は横領の件が思ったよりも大事になっていて抜けられない。沙也加でも指揮者にするか。それから佐治と沙也加の推薦者。この5名で行く」
「わたしまで抜けたら、誰がボスの護衛をするのですか」
「弓弦、佐治はこう言っているが、また2週間も留守にするつもりか?」
「3日で戻ります」
行き来も含めてだろうな。実質1日と少しで片付けると言っているわけか。勢力も分からないのに、大きく出たな。
「敵勢力は不明です。長引かせたくはありませんが、視野に入れるべきです。ボス、考え直していただけませんか」
頼りにされて喜ぶのかと思ったが、案外堅実な反応だな。
「少数精鋭で行く。軸になるであろう者の戦法に合わせた方が良い。各々、他者の支援は期待するな」
貿易のボスの命令に、私を含め4人の返事が響いた。