第147話 その声は②
ボスは慌てて立ち上がると、向けられた視線と私の間に立った。
場所が場所だけに、危害を加える様な行動はしないだろうと考えていた。しかしそうでもないらしい。
「君に主は向かない。というより無理なんじゃないかい?分かっているだろう?君はこの娘を手懐けられていない」
「止めろ」
「ほらねぇ?凛太郎の方が理解を示すことが出来る」
手が動いたのを見て思い、そう言ったのだろう。嫌な印象をより強める笑みに、表情を変えたのだろう。
だが伸ばした場所も、伸ばした理由も、思っているものとは違う。
腰の右側に付けている刃物を取るためというのは、間違いだ。左側に付けている刃物に手を伸ばさないため。これが正しい。
右側の刃物はボスから頂いた物のため、飾りの様に付けているだけに過ぎない。刃物としての役割は疾の昔に終えている。
それを知らなくとも、普段と逆の手であることはすぐに分かること。咄嗟の行動で普段と違う手が出るのは不自然だ。
そのため、忠臣さんとは反応が違った。
「それに――」
「黙れ、忠臣。俺が止めろと言ったのはお前だ。いつもいつも恭一をそうやって攻撃することに理由はあるんだろうな?」
ボスと畜産のボス、そして忠臣さんが驚いた様子で息を呑んだ。驚いているこの3人の中でも、ボスは特に驚いている様に思う。
どうしたのだろう。過去、2人になにがあったのだろう。
「意外だなぁ。気付いていたんだ」
「どうせなら驚いた顔が見たいと思った。それは本当だが、そんなことのために言わなかったと、本気で思っているのか?」
「思ってるから言ってる。俺とは違って、忠臣くんは顔の使い分けが上手いって思ってた。どうしたの」
「なんだ、この2人が知ってるなら庇えば良かった」
3人の視線は冷ややかかつ、蔑む様なものだった。
それを受けてたじろいた忠臣さんを、ボスは鼻で笑った。その視線は恐らく3人と同じ、冷ややかで蔑む様なものだ。
「私は忠臣くんのことなんて今の今まで忘れてたよ。噂話で楽しんだ後は、誰も積極的に思い出そうとしてないだろうね。だってそうだろう?一体どれだけ大勢の者が日々死ぬ?その内のひとつに過ぎないんだよ」
縋る様な視線を正雄さんに向ける。一度はしっかりと目が合ったものの、すぐに逸らされてしまう。
今度は畜産のボスに向けたが、目が合うことはなかった。
「じゃあ僕のしたことはなんだって言うんだい?」
「私に聞かれてもね。命令だから、でこんなことは流石に出来ないだろうから、忠臣くんが思った意味はあるよ。意味があると思ってやったならね」
膝から崩れ落ち、大粒の涙を零す。
大した考えもなく行ったのか。想像より代償が大きかったのか。その涙の理由がなににしても、大きく後悔していることは間違いないだろう。
貿易のボスは近付くと、両頬を挟んで上を向かせた。優しい言葉をかけられると思ったのだろう。少しぎこちなく笑う。
「泣いて許されるのは子供だけだ。出て行け。元からお前に用はない」
「え…?」
「どうしても恭一に会うと聞かないから、我儘を聞いてやっただけだ。4年半も家に籠っていたお前に、今すぐ出来ることがあるか?一から出直して来い」
少し笑って哀れみの視線を向ける農園のボス。ただ見ているだけの畜産のボス。興味のなさそうなボス。
正雄さんは申し訳なさそうにしているものの、視線を合わせようとはしない。
忠臣さんの味方は誰一人としていない。組織のためと言われたのだろう。それがこの結末では、無理のない反応だ。
しかしいつまでもそうしていられては邪魔だ。長い間人との接触を避けていた者なのだから、適当に構ってやれば良いだろう。
「ボスを目の敵にする理由を聞いていません」
「嫌いだから以外にあると思うかい?良い顔だけをするのも疲れるからね。偶然選んだだけだよ」
ボスがやり返さなかった理由は想像出来る。
忠臣さんは外面が良かった様子だ。そして恐らく、多くの者から好かれていた。農園のボスの発言は、そういう意味だろう。
対してボスは自分が嫌われ者だと思っている。言ったところで、相手にされないと思ったのだろう。
鬱陶しい、面倒、程度にしか思っていなかったという可能性もある。
「それなら私を選んだのは正解だね。母親同士の争いの迷惑料ということにして黙ってたんだ。でも言ってたら、この3人は味方してくれたみたいだね」
貿易のボスと正雄さんは強く、農園のボスは軽く、頷いた。ボスが仰ったことが本当に起こった際の、姿勢の違いの現れだろう。
しかし3人の、口の歪み具合は変わらない。こうなっては可哀想とも思えるな。
「他に気付いている者がいると知れば、自分から動いただろうな。しかも相手が恭一なら当たり前だ。それに俺は、お前が嫌いなんだよ」
「借りは返すのもの。そうじゃなくても恭一くんだし、忠臣くんがどうなっても正直どうでも良い」
「この様子ならウチも参加しそう。嫌だったんだよね、忠臣くんのこと」
小さく震え始めた忠臣さんを、4人はさらに嗤う。壊しても構わない玩具で好き勝手遊ぶのだから、愉しいのだろう。
忠臣さんは今、こう考えていることだろう。他の者も気付いていて、心の底では嫌っているのではないか。それなら尚更、これからどうすれば良いのか。
言葉でないなにかを叫び、駆け出した忠臣さんを押さえる。
「触るな!無礼だぞ!僕は東の苗字と金バッヂを持っているんだぞ!地面に押し付けるだなんて、無礼だと思わないのか!」
「我が主への無礼な行為を、畜産のボスは認識していない。それでも庇われない貴様に、敬う価値があると言うのか」
畜産のボスが視線を逸らす。それで初めて、東颯太なる人物が畜産のボスであることを知った様だ。
言ってはいけないことだっただろうか。何故かより暴れる様になった。
「知らなかったのか?経済のボスになる予定だったはずが、変だな。仕方がないから教えてやるよ。ただ金バッヂを持ってるだけの者に」
ボスたちがそれぞれ、どこのボスをしているか言っていく。短い時間だったが、心を抉るには十分だったのだろう。
聞き終えた頃には大人しくなった。暴れる気力もなくしたか。表情が見えにくい角度だが、涙を流していないことは分かる。
「私たちと忠臣くんは、もう立場が違うんだよ。分かってくれたかな?」
「どうしてこんな男女が…!」
「本当はそう思ってたのに、理解があるフリをしてたんだよね?気付いてたよ。そういうところが嫌。それに誰かに理解してほしいなんて、思ってないよ」
初めて本部を訪れた際の反応からも明らかだ。私が護衛として赴いたことを少々疑問視する気持ちは分からないでもない。だがボスを嗤った。
今の常識から外れたことをする者を、あの者たちは分別なく嗤う。農園のボスに対してもそうだったのだろう。
「正雄は!なんの経験もなしにボスなんて、やっぱり荷が重いんじゃないかい?それに僕のことで色々言われて大変だっただろう?今からでも僕が――」
「黙れ」
「僕は正雄に言っているんだよ!悪い噂は僕の耳にも届いているよ。肩身の狭い思いをするのは、もう疲れただろう?」
正雄さんが振り下ろす拳を止める。なにか目的があって、暴力を振るわせようとしている可能性がある。
しかも殴ったところで、なにかが変わることなどない。不利益を被っても利益を得ることはない。
「分かってる。俺が不出来なんて言われなくても分かってる。でも経済のボスは俺だから。どいつもこいつも努力まで否定してきて、うんざり」
「そうだな。“経済の”は努力している。良くない印象を覆すのは難しい。しかしその中でよくやっていると思う」
忠臣さんを殺して経済のボスになった。そう影で言われたことは想像に容易い。私も東野悠の話しを聞いてそう思った。
それには、無罪とされた理由も少なからず影響しているだろう。組織からあまり良く思われていないとしか思えないものだった。
なんの経験もなく、ということは成人してすぐボスに就いたのだろうか。
他のボスと同じ時期に就いたのであれば、4年前に就いているはずだ。つまり今は22歳で、西真白のひとつ上。もっと年上かと思っていた。
「忠臣の言うことに耳を貸す必要はない。もう少し自信を持て。足りないものはそれくらいだろうな」
「ありがとう」
「絢子、出て右に2つ行った部屋に押し込んできてくれ。色々と用意してある」
貿易のボスはこの展開を望んでいたらしい。恐らく正雄さんを…いや、違うな。経済のボスを奮い立たせるため、用意した舞台だったのだろう。
直近の4年半、家に籠っていた者。その間努力し、経験を積んだ者。今後どちらを使ってゆくべきかなど、明白だ。
「はい、貿易のボス」
命令通りの部屋に入ったはず。しかし今出てきた部屋と同じ部屋にしか見えず、変わった物はない。
色々用意してあると仰っていたが…そうか、なるほど。この者が生きていたことを知っているのは、あの部屋にいた者だけということだ。
「い、嫌だ!どうして僕がこん――」
着替えたのだが、この後にすれば良かった。少しも血が飛ばない様にするのは、やはり難しい。