第146話 その声は①
ボスの足音が近付いて来て、ハッと我に返った。随分長い間、貿易のボスと小指を絡めて座るだけの時間があった。
普段より大きな足音のため、貿易のボスも足音には気付いた様だ。
私を庇う様に立ち、軽く叩かれた扉の音に返事をする。本来ここに私がいるのは不味いのだろう。
「やっぱりここだったね。昨日歴史書を読まされて、興味を持ったんじゃないかと思ったんだよ」
「脅かすな」
「私たちに使者への対応を押し付けただけではない。私の玩具と遊んでたんだ。これくらいは許容範囲内だと思うけれどね?」
数が少ないとはいえ、2人で相手をするのは苦労する数だっただろう。なにより翌日に訪れる者は、長話をする可能性が高い。
大量に使者が押し寄せる初日では、対話する時間が少なくなる。そして自組織と結託するか不明な組織に話せる内容は限られる。
結果、皆が同じ様なことしか言わないため、記憶に残らない可能性が高い。
そのため対策が、比較的時間の取れる翌日に訪問日を遅らせることだ。少しでも記憶に残させる。
そして些細な事で話題を広げ、世間話をする。これで確率は上がる。
「遊ぶとは心外だ、と言い合っても仕方がない。用はなんだ?」
「西留美が来たから呼びに来たんだよ。楠巌谷の誘いを断った者だからね。話しを聞きたいだろうと思って」
「そうだな。行く。“武闘の”は絢子を見ていてくれ」
貿易のボスは慌ただしく部屋を出て行った。ボスは笑顔でその背中を見送ると、私に視線を向けた。
嫉妬、と口にしたときの表情だ。
「なにをしてたのかな?」
「ボスの仰った通り、歴史に関するものを読んでいました。ボスは読んだことがありますか」
「これをまともに読もうというのは、絢子くんくらいだろうね」
目的を投げ出して、なかったことにしようかと考える代物だ。とても正気の沙汰では読めない。愚問だったか。
読んでいないのであれば、あの記述は見ていない。続きを読んで、貿易のボスを待つとしよう。西留美からなにか聞くことが出来るだろうか。
「ふぅん…絢子くんも“貿易の”も全く気付いてないようだね。適切な距離の護衛とボスが、こうして交わることはないんだよ」
正体を明かす前は、ボス職との関わりなどなかった。武闘組織内ですら徽章持ちの全員を把握出来ない程だ。それが適切な距離だと仰っているのだろう。
現在の大陸において、それは正しいことなのかもしれない。だが発言の主旨とは異なる。私が言ったことをボスは、全く理解していなかった。
「ボスが仰るのであれば、それは全く正しいことです。しかし私はボスと適切な距離を保ちたいと申したのです」
「…なるほどね。けれど“貿易の”は行ってしまった。私がここにいるしかない。そこは我慢してもらうしかないね」
手近な本を手に取り、少し離れた椅子に腰掛けた。こちらを気にしている様子を隠そうという雰囲気はない。
ここに私がいることは中々に問題、という雰囲気だった。そんな私の動向を気にしないことは不可能なのだろう。そういうことにするのが良い。
「恭一!お前なにか吹き込んだのか!」
扉が勢い良く開けられた。それとほとんど同時に、叫ぶ様に放たれたその言葉が聞こえた。部屋を出て行ってから幾ばくも経っていない。
「なにを慌てて戻って来たのかと思ったら。全く心当たりがないよ」
「それならどうして、俺の顔を見るなり泣き出しそうな顔になったんだ?菓子を出してみたが、結局泣かれてしまった…!」
子供を可愛いと思えない理由がひとつ、分かったかもしれない。どうしても子供は泣く。それに耐えられなかったのだろう。
泣かれるのが嫌なのか、泣いているところを見るのが嫌なのか。そういう細かいことは置いておいて、そういった類の理由だろう。
「西真白に聞いてみたら良いんじゃないかな?」
「ああ…!そうだな」
再び慌ただしく部屋を出て行く。この騒ぎを聞き付けた誰かが、様子を見に来るかもしれない。退散した方が賢明だろう。
片付け始めた私を見て、ボスは小さく微笑んだ。この行動は正しかったらしい。案の定と言うのか、部屋を出て少し歩いたところで人と会った。
「音を聞きつけたんだね。大丈夫、何事もなかったよ。きっともうひとつ上の階だろうね。頼んでも良いかな?」
快活な返事をして、回れ右をして駆けて行った。その背中を見送り、適当な部屋に入った。変に動くよりやり過ごす方が良いという判断だろう。
椅子に身体を預け、天井を見上げる。大きく、長いため息が吐かれた。
「適切な距離についてだけどね。近くにいると、私の方は難しい。西へ赴く際の護衛には杏くんを連れて行くことにするよ」
「杏さんはなにをするか分かりません。危険です」
「問題ないよ。杏くんが鹿目くんを殺した理由を、私は分かってるんだ。人には知られたくないことがあるものだよ。鹿目くんはよく気付くんだ」
杏さんの秘密を知ったために殺されたと言うのか。仮にそうだとして、殺す必要があったのだろうか。
鹿目さんが脅す様なことをしたとは…いや、杏さんなら思った。
襲われ反撃したという明らかに虚偽の報告をしている。それは通用する人物だと認識していたからだ。脅して来るとも考えたはず。
「ボスがそう仰るのでしたら、従うのみです」
「うぅん、そう。一緒に行くとは言ってくれないんだね。焦らせるようだけど、私は寂しいんだよ」
「…申し訳ございません」
答えが見つかる気がしない。だがそれなら、行きたい場所もしたいこともない、ということなのだろう。
ボスが西より戻るまでに、よく考えよう。時間は沢山あるはずだ。
***
何故だ。分からない。
畜産のボスにも、北へ誰が赴くかも、興味は微塵もない。しかし私が護衛として共に赴くというなら話しは違う。理由が分からない。
ボス職に決まった護衛がいないはずがない。馴れた者を連れて行った方が良いと考えるのは私だけだろうか。
「昨日の食事会に参加した者に、散らばって赴いてもらう」
「都合の良いときだけ呼んでくれるな。“貿易の”ほどではなくとも俺も忙しい。他組織へ赴くと聞いていれば来なかった」
「あのときは勝手に来ただけだろ。説明の邪魔をするな」
見かけないとは思っていたが、畜産本部へ戻っていたらしい。元より長い期間、畜産本部を空ける予定ではなかっただろう。
今回もその予定ではなかったため文句を言っている、ということか。
「北へは“畜産の”と絢子、西へは“武闘の”と杏」
南は農園のボスか。決まった護衛を連れて行くだろう。
他に見繕って5名で赴くということは、内訳は苗字持ち3名と護衛2名か。領地の堺を通るのだから、逆だろうか。
考えても仕方のないことだ。そのときになれば分かる。
「南へは“経済の”に行ってもらう」
「んふふ、なるほど。非常口の場所を教えなかった理由が分かったよ。あの人は変わらないんだね。また危険な橋を渡るなんて」
ボスのその言葉で、私も理解した。
正雄さんは反逆者集団への内通者だった。兄である忠臣さんは殺されておらず、生家に身を潜めているのだろう。
私に嘘を吐いた理由は、万が一にも生きていると知られないためだろう。ボスの容疑は、あのときまだ晴れていなかった。
畜産のボスはなにも分からないはずだ。正雄さんが反逆者とされた、という事実から知らないはずなのだから。
しかし分かった様な顔をして堂々と座っている。これが見栄か。
だがそれはすぐに終わった。いつまでも笑い続けているボスから、不気味そうに視線を逸らす。その視線が着いた先は、貿易のボス。
「…それで“経済の”はどこだ?」
「焦らずとも、もうじき来る。俺は“武闘の”が驚くと思ったんだがな。その顔を見るのを楽しみにしていたんだがな」
「期待に添えなくて悪いね」
貿易のボスが仰った通り、正雄さんの足音が聞こえ始めた。もうひとつ聞こえる足音は、忠臣さんのものだろう。
正雄さんはどこまでを最初から知っていたのだろうか。全て事後報告で任されている可能性もある。それは流石に不憫だろう。
扉の前に立った人物は、軽く叩いただけで返事も聞かずに開けた。
「やぁ、2人とも。久しぶりだね」
軽く手を振ると、笑みを浮かべる。調子の良い、嫌いな笑みだ。値踏みする様な視線も不愉快極まりない。
畜産のボスは驚いて声も出ない様子だ。純粋に驚いているこの表情を見る限り、嫌な感情を抱いてはいないだろうと思う。
「颯太は予想通りの良い反応だね。恭一くんはやっぱり、僕に興味はないかい?この少女にご執心のようだから、無理もないね」
「そうでなくとも興味などないよ」
「あはは、そうだと思った。ところで恭一くん」
ボスに呼びかけながら、私に視線を向ける。その表情は笑顔ではないが、印象が変わることはなかった。
関わるのが面倒そうな人だ。