第145話 いつかこの問題に③
時計の針はもうじき、真上で重なろうとしている。貿易のボスは私をこの部屋に連れて来て以降、一度も出て行こうとしない。良いのだろうか。
昨日の喧騒は嘘だったと言わんばかりに、今日は静かだ。それでも使者はやって来ている。
「俺を見ても事実は変わらないだろ。ちゃんと読め。こんな伝文のようなもの、歴史書とは言えない。だが、ないものはない」
反乱以前の、かつて東が大陸を統治していた頃の、歴史書はないらしい。反乱の際に燃えてしまったそうだ。
あるのは歴史を知る者らがうろ覚えで書いた、走り書き。同じ出来事のはずが、年代すら異なる記述もある。
こんなものを厳重に保管していることを馬鹿らしいとは思う。だがそれはこの際どうでも良い。私には重要なことではないからだ。
私にとって重要なことは、私が探している記述がひとつもないことだ。
4時間は探しているにも関わらず、ただのひとつもない。反乱前後はおろか東が統治していた、とはっきり記述している物がない。
私が知りたいのは紀元前でも、紀元後の年数が3桁の頃の歴史でもない。現在の文化になった頃のことだ。
「貿易のボスは、これを読んだことがありますか」
「頁をめくるという作業ならしたことがある。読めたもんじゃないだろ。なにが知りたいのか知らんが、あと3時間で終わりそうか?」
貿易のボスは今朝私と会って以降、何者とも接触していない。元から使用可能な時間があったのだろうか。それなら最初に言ってほしい。
本で口元を覆い、欠伸をする。その涙で潤んだ目で、私を見た。
「俺の方はゆっくり読んでも、3時間もせずに終わりそうだ」
「なるほど。努力します」
そうは言ったものの、読み進めるだけでも一苦労。
出来事か年代のどちらかで別けられていれば、少しは楽だっただろう。たがそうなってはいない。読み飛ばすことが出来ない。
こんな物は初めからなかった。諦めよう。そう考え始めていた頃に、それは突然見つかった。
「貿易のボス、これを見て下さい」
外国でも非常に珍しいという、緑の瞳を持った女性がいた。その女性が見たことのない果実を与える。そんな夢を見た。
…というなんの教訓もない事実だけが、何故か語り継がれている。それが語られ始めたのは、100年近く前らしい。
その頃まで東がこの大陸を治めていた。それは他組織の赤子でも知っている常識と聞く。だがその実態をひとりでも知っているか?俺は会ったことがない。
「興味深いな。確かに東が統治していた頃の記述は見ない。だが俺は何故それを今まで気にしなかった…?」
「幼い頃からそういうものだと聞かされていれば、不思議ではないと思います。苗字持ちか否か、ということもそうです」
反乱の功労者が、東西南北のついた苗字を名乗り始めた。それが事実であれば、それまでこの大陸に住む者はどの様に名乗っていたのか。
この問いの答えは2つある。
苗字を、皆が持っていなかった。皆が持っていたが、功労者が奪った。
今は徽章での評価が根付いている。しかし基盤のない状態で、混乱のさなかそれを行うことは難しい。
元々皆が持っていたのなら尚更、苗字という文化には馴染みがある。権力を誇示するための、最も分かりやすいものとして選ばれたことは不思議ではない。
だが徽章は前総代が考えたものと、ボスが仰っていたはず。徽章を頂いた際だ。しかし他組織も付けており、その価値は共通の認識の様だ。
「…そうだな。周囲の者から当たり前だと聞かされ続け、それはいつからか俺の当たり前になった」
「はい。徽章はいつ誰が考えたのか、ご存知ですか」
「いいや」
胸に付けているそれを取ると、掌に乗せる。そして小さくため息を吐いた。顔の近くに寄せて、まじまじと見ている。
そうして近くで見ないと、刻まれている柄を認識することは出来ない。柄に大層な意味など、求めていないのだろう。
徽章をしていること。そしてその色。それだけが重要な事実。
「では前総代と徽章に関することで、記憶にあることはありますか」
「前総代?見かけたことも数えるくらいしか…あ、バッヂの柄を変えたらしい。俺が持つ頃にはこの柄だったからな。元がどんな柄かは知らない」
この徽章と同じように、遠くからでは柄が見えなかったのだろう。何故そんな物の柄を変える必要があったのか。
元の柄が分かれば、なにか分かるかもしれない。しかし貿易のボスは知らないと仰るのだから、今考えても仕方がない。誰かに聞けば良い。
「無暗に人に聞くなよ。混乱するかもしれない。それに俺と同世代なら知らない可能性の方が高い。俺がひとつ上の世代に聞いておく」
「それは私に知られてはいけないことがある、ということですか」
再度ため息を吐いて、徽章を付け直す。その表情や仕草は、なにかを憂いている様に見えなくもない。
本当は意味のない物かもしれない。
その可能性がいくら高かくとも、今このときは重要な物。それを手放せないのは無理もないことだ。そして今すぐ手放す必要は特段ない。
それを戻す、というだけの行為。それを何故そうも憂いるのか。
「情報が少ないということは、誰かが情報を遮断している可能性が高い。それを探っている者が南を名乗る異能者となれば、どうなると思う?」
「なにかと理由をつけて、殺しやすいです」
「そういうことだ。俺が上手く聞き出す。じっとしていろ」
誰が行っても一定の危険が伴う行為だ。そんなことは、させられない。では誰が行うのが良いのか。
そんな者がいるはずもない。しかし…
「そう心配するな。反逆者集団壊滅への指揮を取った者として、名前だけでなく顔もある程度他組織へ知れた。表舞台に立たないのは少々不自然だ」
「病で床に臥せていると言われれば、それまでです」
「それならそうだな…」
そっと手が差し出される。いや、その表現は違うかもしれない。
手は握られているが、小指だけが立てられている。その立てた小指を差し出す様な形で、手が差し出されている。
表情は普段と変わらず、優し気な笑みを浮かべてはいない。この手の形の意味は分からない。だが水が汚れてゆくのは、これのせいなのだろう。
「俺が殺されそうになったら、その場の誰を殺しても俺を連れ去ってくれ」
「はい」
だからそう返事をした。この汚れてゆく感覚こそが、正しい。今、そう思った。なにも出来ず、ただ汚れてゆくわけではなかった。
感情への理解が追い付いていない。そんな私に色彩感覚があろうとも、水を汚すこの感情の色が分かることはない。
しかし今この水はきっと、良い色をしていることだろう。
「安心だな」
「それではいけません。誰も殺さなくとも済む様に、努力して下さい」
「ああ、約束する」
私の手をそっと取ると、自身と同じ形にする。そうして私の小指は差し出され、その小指は貿易のボスの指と絡められた。
末端である部位の、最も細い指。そこから妙に、心臓の鼓動を感じた。
しばらくの間、そうしていた。
「さて、用が済んだなら出るぞ」
その言葉と共に指が離れてゆく。布が解ける様な音が聞こえた気がした。これは良くない。瞬間、はっきりとそう思った。
具体的になにが良くないのかは全く不明だ。不可解極まりない。だがはっきりとそう思ったのだから、仕方がない。
「まだ読みます」
今までしていたはずの、指の形がよく分からない。だが離すまいと、取り敢えず小指を握った。
成人男性でも、やはり小指は小さいものなのか。だが手自体の大きさは全体的に大きいか。関節ひとつ分は違う。
「骨を折る気か。こうやるんだ」
さっきまでと同じ様に、小指が絡む。指を通して、心臓の鼓動が伝わって来る。
「…子供というのは案外、可愛いものなのかもしれないな。落ち着いたら会いに行ってみるか」
「お子様がみえるのですか」
「いない者の方が特殊だ。本家の者は特に、沢山作ることが義務と化している。俺は弘美にも恭一にもなれない」
ボスが仰っていた。貿易のボスは組織を裏切れない。そのため、組織を裏切ったスミレさんが羨ましいのだろう、と。
だがその様な者ばかりでは、組織は成り立たない。もちろん苗字持ちという現在甘美である立場に、胡坐をかく様な者ばかりでも。
「貿易のボスは、現在のこの大陸でひとつの正しい役割を果たしています」
「ああ…ありがとう」
そのまま、時計の針だけが回った。




