第135話 その心の中には②
膝の上から、規則正しい小さな息の音が聞こえ始めた。貿易のボスのものだ。
私が立てた仮説を聞いた直後こそ、大きく動揺し混乱していた。だがすぐに落ち着きを取り戻すと緊張の糸が解けたのか、眠った。
しばらくは、やはり夢を見たのだろう。うなされて表情は歪み、呼吸は落ち着かなかった。軽く肩を叩きながら、うろ覚えの歌を歌った。
もう随分長い間聞いていなかった。そんな気のする足音が近づいて来る。場所は教えていないはずだが、この部屋の前で止まった。
軽く叩かれた扉の音に返事をする。
「何故ここが分かったのですか」
「絢子くんの考えることなら、なんでも分かるよ。私に隠し事は出来ない。でもこれは予想してなかったよ」
ボスの視線が移される。その先にいる貿易のボスからは、今も規則正しい小さな息の音が聞こえている。
「“貿易の”、起きるんだ」
「今眠ったばかりです。報告ならもう少し後でも良――」
「そんなものは関係ないよ。私がきっかり1時間後に迎えに来た理由が、本当に分からないのかな?」
ボスが浮かべる表情は、確かに笑顔だった。だが、これまでに見たどの笑顔とも違う。その笑顔には様々なものが混じっていた。
私が正体を明かす以前はよく見ていた、貼り付けた様な笑顔。そして農園のボスとよく似た、殺気のある笑顔。
最も近いものは、寂しそうな笑顔だろうか。異能戦場の闘技場で“嫉妬”と口にした際の、あの寂しそうな笑顔。
「申し訳ございません、我が主。そして私はボスの玩具です。しかし弱っている者を見過ごすことは出来ません」
「…やっぱり東の勝利など考えてはいけなかった。なにも知らないまま、私だけを見ていれば良かったんだ」
ボスの手が、貿易のボスへと伸びる。どう行動することが正しいのか分からず、ただ見ることしか出来ない。
その手を、掴んだ者があった。貿易のボスだ。
「うるさい。久しぶりに寝たんだ、ゆっくりさせてくれ」
「寝るのは好きにすれば良いよ。だけど絢子くんは私の玩具だからね。返してもらおうか」
貿易のボスが私に視線を向け、目が合った。
私になにかを求めている。ボスの言う通りにすることは簡単ではあるが、求められているものとは違うだろう。
どうするべきなのか、分からない。2人にとって良い選択肢はないのだろうか。
「分かるだろ、恭一。これが答えだ。絢子はもう、お前の命令を聞くだけの人形ではない。自由にさせてやれ」
「私が頷くとでも?そもそも自由とはどんなことを指すのかな?私の元から離れてどこかへ行っても、命令は絶対なんだ」
…これは嫉妬ではない。執着だ。ではあのときの言葉や表情も、執着からくるものだったのだろうか。
ボスは私になにを求めているのだろう。なにも持たない私が、ボスに応えられることなどあるのだろうか。ボスの心を満たせることはあるのだろうか。
それでも私には、あなたの傍を離れることなんて出来ない。
私の戻るべき場所は東恭一の元。それ以外は有り得ない。
しかしそれは、他の者を蔑ろにする理由になるのだろうか。以前なら考えることなどせず、迷わずボスの命令に従っただろう。
この変化はいつ頃から見られる様になったのだろう。
分からないが、それは些細な問題でしかない。ボスがこの考えを受け入れ難いと言っている。それが事実なのだから。
「絢子くん、私の元へ来るんだ」
「絢子、自分の意志で選べ」
捨てる以外に、道はあるのだろうか。
あるのかもしれない。だが今はその方法が分からない。ボス以外のものは後でも手に入れることは可能だろう。
しかしボスの手は、今しか取れない。そんな気がした。
立ち上がりかけた私の手を、貿易のボスが引っ張った。
「目的は想像出来る。だから一度だけ、見逃すつもりだった。お前が用意した者に罪を被せるつもりだった。邪魔そうな者でもあるからな。だが自ら歩き始めようという者を縛り続けると言うのなら、話は違う」
口調や表情から真剣であることは分かったが、なにを言っているのかは分からなかった。だがボスには今の言葉だけで十分伝わったらしい。
口角だけを上げて、にたりと笑っている。目は笑っておらず、普段より大きく見開いている。
「よく分かったね。ちゃんと最後まで調べたのかな?」
「だから見逃すつもりだった。もし私腹を肥やしていたなら、すぐ総代に報告しただろうな」
まさか、賃金搾取をボスが行っていたということだろうか。
しかし私腹を肥やしていないと仰った。それに最後まで調べたか、と聞いたのはどういう意味だ。
「これを読め」
上着の内ポケットから出した一枚の紙を、私に差し出す。
恐らく今の発言についての真相が書かれている。もう隠す必要がないという判断なのだろう。ボスは止めなかった。
内容はやはり、武闘組織での賃金搾取についてまとめられたものだった。
帳簿上支払われたとされる賃金と、受け取ったと思われる賃金。これに差が出始めたのは、3年半前。その差は徐々に大きくなっていく。
半年後に一度それが止まると、以降差が大きくなることはなかった。しかしその頃には、受け取る賃金は約1/3にまでなっていた。
賃金搾取を行っていたのは財務管理をする幹部と、3隊の者であると思われた。
しかしその幹部は、ボスの指示の元適切に行ったと主張。指示は、退職金の積み立て。証言通りの帳簿が発見される。
3隊の者は賃金が減り始めたと同時に、それに乗じて始めている。早い時期から始めていたことから、誰かの口車に乗せられた可能性が大きいとされた。
また、帳簿の内容や管理方法にはずさんさが非常に目立つ。にも関わらず発覚しなかったことから、幹部の関与が疑われる。しかし怪しい人物はいない。
この3年半の間に退職者した者数名を訪問。死亡した者は家族が、積み立ての帳簿と同額の金品を受け取っている事実を確認。
帳簿の閲覧は限られた幹部にしか不可能であること。帳簿を通常より厳重に管理することや、積み立て等の指示を行ったこと。
これらから、武闘のボスである東恭一の関与が疑われる。
状況証拠のみであることから、東恭一の処分は見送り。3隊で搾取を指示、実行した数名は5隊へ異動。その他の3隊の者は減給。
以上で、調査を終了とする。
これでは3隊の者が一時私腹を肥やしただけだ。
この報告書を読んで総代が納得するとも思えない。ボスの関与を認めそれを記しながら、不問とするなど。
ボスは明らかに、なにか目的があって行っている。そして貿易のボスはそれを分かっていると仰ったが、記されてはいない。
「申し訳ございません。これを読んでも私には、ボスがなにをしたかったのか想像することも出来ません」
「徐々に変化していくことに違和感を覚えない者は多い。だけど絢子くんはいきなり低賃金だ。いつ搾取に気付くのかと最初はワクワクしたものだよ」
賃金搾取を暴いたことを功績とし、幹部にする算段だったのだろうか。そして罪は全て、3隊の者に擦り付ける。
だが私は全く気が付かなかった。3年も経った今になって、誰かが告発するとは考えにくい。何故自ら暴いたのだろう。
「帳簿をいじるのは案外面倒でね。ふふ、言っただろう?絢子くんの考えることならなんでも分かる」
愉しそうに笑ったボスの声がこべり付き、視線が絡み付く。…私が変わったのだろうか。それとも、ボスが変わったのだろうか。
「遡って見ることは少ないよ。でもね、なにがあるか分からないから改ざんは止められない。調査をして終わりにしたいところだけど、きっかけが必要。絢子くんのあの発言から連想するのは流石に無理がある。でももう面倒で面倒で」
向かいの椅子に座ると、微笑んで貿易のボスを見る。それを無視して、ボスが部屋に入って来る前と同じ体勢になった。
太ももに血の流れが伝わってくる。耳はそれがよく分かると、本に書いてあった気もする。
「さっきも言ったが、お前の私腹は肥えていない。ただでさえ不安定なこのときにボスの不祥事を明らかにしたくない。俺は寝ていたことにする」
「だろうと思ったよ」
分からない。そう判断するという確信に近いものがあったとする。だとしても、わざわざ言う必要がどこにあったのだろう。万が一ということもある。
偶然誰かに聞かれる可能性も、全くないわけではない。
「西真白が言っていた。お前は絢子に関することだけ正義感が歪んでいる、と。本当にそうだな。絢子のことになると本当に、常識がなくなる」
「うぅん、言われてみればそうだね。そういったものに遠慮したせいで手に入れられなかった者ばかりだからかな?」
東恭一という人物は、なにも欲しない者である。
ボスを語った方たちは、口を揃えてそう言った。特に晴臣さんが語ったことは印象に残っている。それとは異なる言葉だ。
「兄は実父であろう剣の達人に、恋をしたかもしれない人は“経済の”に、取られてしまった。おや、ばかりと言っても2人だったね。元々手に入れたいと思う者が少なかったから、印象的なのかもしれないね」
ボスがこい。栞さんに、こい。何故だか分からないが、水の表面が静かに波打ち始めた。恋を、していた。徐々に波が大きくなってゆく。
ふと、海人さんの笑顔を思い出した。農園のボスに小南朝陽のことを言われた際の笑顔だ。嫌がる様なことを言いながらも見せた、あの笑顔。
今のボスの表情と、ほんの少しだけ似ている気がした。




