番外編 東野悠の願い
今日も彼女は綺麗だ。そして周囲の時間がゆっくり流れている。
僕に気付いて、軽く微笑んで小さく手を振る。彼女は誰に対してもそうだ。僕だけじゃない。だから勘違いをしてはいけない。
それに彼女は僕とは違う。
蘭道という、苗字持ちの中では中流でありながら後ろ盾もなく銀バッヂを与えられた。同じ中流の東野である僕は、後ろ盾があってやっと銀バッヂ。
彼女には、僕の知らない才能があるに違いない。
「相変わらず熱心だね。でも六花は、悠くんには無理だよ」
「分かっています。だけど遠くから見るのは自由のはずです。晴臣さまは、ここでなにをされているのですか」
「もう誤魔化さなくなったんだね」
この調子だと、僕をからかいに来たとでも言いそう。まだ冗談で受け流せるほど立ち直ってはいない。そんな日がいつ来るのかは分からないけど。
「通りかかったらいたから、からかっただけだよ」
「そうですか…」
あながち間違いじゃなかった。
「縁談相手と上手くやれることを祈っているよ」
恋愛結婚出来ることを祈ってくれはくれないんだ。
でも実際問題、多分無理。東野は本家との繋がりを強くすることに必死。政略結婚させられるんだろうと思う。
兄は東姓とはいっても所詮、追い出された者との結婚。僕には権力のある者をあてがうことしか考えていなさそう。
「六花には相手もいるんだから、早く諦めた方が良いよ」
「諦めてはいます。ただの護衛で、隠しきれていない癖に隠せている気でいることが気に食わないのです」
「だから悠くんはまだまだなんだよ」
相手と話したことはないけれど、これは当人の魅力とは関係のないこと。なにが駄目だと言うのだろう。
「隠せないから、隠しているフリをして適当に見せつけているんだよ。そしてみんなには、そうとは言わず見て見ぬフリを求めているんだ。実際、悠くんは誰かに報告しようとしていないよね」
流石彼女だと思った。同時に、ほんの少しも思い付かなかったことを悔しいと思った。それで僕は思わず、なにも考えずにその言葉を口にした。
「わざわざ報告することでもありません」
「そうだね。仁彦くんの狙い通りだよ。疑惑は面白い。でも事実は退屈。それが他人の恋愛なんだ。見事だと言う他ない」
あの護衛が考えた…?嘘だ。
「ここに来たときから目を付けていたんだけど、ボスが聞いてくれないんだ。私がどこかのボスになって、そこに仁彦くんがいたらどうしようかな」
「それは銅バッヂを与えるという意味ですか」
「うぅん、それより悠くん。これは悠くんにだから言ったんだから、絶対に秘密だよ。良いね?」
どうして僕に言ったんだろう。分からない。
僕は自分を未熟だと思う。だけど晴臣さまは本当に、なにを考えているか分からない。分かる人なんているのかな。いるなら、それはどんな者なんだろう。
「はい」
少しぬるくなった風が吹く。その風が、茶色っぽくなり始めた葉っぱを僕の元へ運んで来た。
***
建物の外に出ると、吐いた息が白く見えた。
楠巌谷と初めて会ったあの日も寒い日だった。季節的には春でも半分冬のような時期だから寒いのは当たり前で、だから特徴のない日だった。
でも、あの日のことは絶対に忘れられない。
「スミレさんと海人くん、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。情報を持っている協力的な者を殺せはしないからね」
スミレさんがここにいた理由は有名。
きっかけの晴という青年は、当人にとって幸せだと思う日々を過ごしている。スミレさんにとって、他の問題なんて大した問題じゃない。
良くしたいとは思っているだろうけど、夢物語だってことは認識している。だから巌谷さんの言っていることは分かる。
海人くんは態度からして、脅されたんだと思う。
そのとき選択が可能だった未来は3つ。今なにも知らずに死ぬ。多分、未来悪役として死ぬ。ひょっとして、救世主になる。
海人くんの今は、僕が望んだもの。この3つ以外の選択肢が選べるようになったのなら、僕もそうする。
海人くんは良かったね。でも、残った僕が困る。
「それなのに引き渡して、こっちは大丈夫なの?」
「こちらの情報を垂れ流しにされるよりは良いよ。それに、2人にはこれ以上こちら側でいる理由がないからね」
相変わらずなにを考えているのか掴めない。
2人のことだけじゃない。武闘本部近くの町を襲うとか、その者たちにあんなものを渡すとか、一体どういうつもりなんだろう。
――今渡した物を奥歯に仕込んでおいて。捕らえられたら噛むんだ。入っているのは、ただの水だよ。だけど死んだフリをすれば勘違いをしてくれる。死体を持ち帰る趣味はないだろうから、一先ず危機は脱せると思うよ。
あんなものは嘘だ。あれは本物の毒。だけど、僕には止められない。怖いから。きっと、僕のこういう性格を見抜いているんだ。
だから僕を選んで、あんな方法を取ったんだ。それに『眠れる森の美女』関連のことも、なにも聞けていない。
「悠くんは、最期まで付き合ってくれるよね?」
「もちろん…」
誰でも良い。早く、早く助けて…!




