第104話 帰る場所④
扉が極々小さく叩かれた。布団の近くにあった机から貿易のボスが離れ、扉を開ける。すぐに閉めると、布団の脇に立った。
「夕食だ。身体を起こせ。………気付いていたのか、とでも言いたいのか?そんなもの当たり前だ。お前の嫌いな“草”はない。身体を起こせ」
なんの匂いかは分からないが、温かい匂いがする。本当に草はなさそうだ。それにしても、そんなことまで知っているのか。
「おはよう」
「……おはようございます」
貿易のボスが優し気な笑みを浮かべている。私はそれを見たくない。
底が見えていた透明という綺麗な色らしい水が、濃い色で汚れてゆく。何故だか、そんな気がする。
「ぼさっとしていないで食べるぞ。冷める」
良かった。よく見る、少し不機嫌そうな表情をしている。
小さな鍋の蓋を開けると、美味そうだ、と笑顔で呟く。この笑顔は水が汚れていく感覚を覚えることはない。
「ろくに食事をしていないと聞いた。何故そんな無茶をするのかは、聞いても答えられないだろう。答えられたとして、俺が分かるとも思えない」
「申し訳ございません」
「本当にそう思うなら、今後は一日に一食は食べろ」
霞城さんも、同じ様なことを言っていた気がする。
「努力します。…ところで、これはなんという食べ物ですか」
「お粥も食べたことがないのか?米を煮たものだ。分かるか?具は溶き卵とネギだ。とても簡単だが消化に良く美味い」
「稲穂は俳句の季語ですね」
「はぁ…?」
なにか変なことを言った様な反応だ。
一口頬張る。熱い。味がしない。これが美味しいのか?米は高級品だと聞いたが、こんなものが何故。
「首を傾げたいのは俺だ」
「どうぞ…?」
深く、長い、ため息が吐かれた。
「美味しいのか?美味しくないのか?」
「味がしないので分かりません」
「そうか。質素な食事をしていただろうと思って薄味にさせたが、濃い味付けで誤魔化していたのか」
武闘組織では賃金の搾取が行われていた。十分な食費が確保出来ていなかったことを、調査の過程で知ったのだろう。
それを踏まえてのことか。それだけ気遣いが出来れば、もっと慕われても良さそうなものだ。知られていないのだから、仕方のないことか。
「そういえば」
濃い色の液体を入れながら、ふと思い出した様に言った。置いた容器には醤油と書かれている。
「カレーは食べていただろ。それで何故、お粥を知らない」
「かれー…カレーライスでしょうか。カレーライスはカレーライスという食品として図鑑に載っていたので、知っています」
「ったっく…、一体なんの図鑑に載っているんだ。あー、答えなくて良い」
沢山読んだ。題名を覚えているものは、あまり多くない。だから聞かれても答えられない場合の方が多い。
それよりも、カレーライスに米が使われていることが気になる。
「余計なことを教えたくない“武闘の”の気持ちも…いや、沢山食べろよ。身長と顔はどうしよもないが、そんなに細いから余計にナメられるんだ。太れ」
「筋肉は身体が重くなるので、速度を重視した今の戦闘方法では丁度良いと考えています。脂肪は動き辛くなるので必要ありません」
「重症だな」
なんと返答して良いのか迷っていると、そのまま無言が続いた。静かに手を合わせ蓋を閉じる。
「もう食べないのか?」
「一人前を全て食べると、眠くなってしまいます。それに食後すぐに素早く動けませんし、身体も重くなります。もう十分です」
「なるほど。感心は出来ないが、本当に自分なりの理論があったのか」
自らの言葉に小さく頷くと、私の前にある今閉じたばかりの蓋を開ける。匙に大きくお粥を掬うと、こちらへ差し出して来た。
「最後にこれだけ食べろ。自分が出来ると思っている範囲から一歩踏み出すと、出来ることが増える。剣も食事も同じだ」
水が、汚れてゆく。気持ち悪い。
「早く受け取れ。腕が疲れる」
同じ言葉ばかりが頭の中を反復している。扉を叩く音で我に返り、扉へ駆け寄った。その向こうに誰がいても良かった。
貿易のボスの笑顔を、見ていたくなかった。
「あ…南、久しぶり。目が覚めたって聞いたから来ちゃった。南は休むってことを知らないから心配でさ」
「お久しぶりです。ご心配をおかけして、すみません」
顔は覚えているが、いつどの隊で一緒だったか分からない。ましてや名前など欠片も思い出せそうにない。
「心配なんて相手が勝手にすることだから、そんなのは良いの。元気そうで良かった。顔見たし戻るよ。食事と睡眠はしっかりね。じゃ、また会えたら良いね」
…あ、思い出した。
含みのある言い方を、貿易のボスがなにか言わないだろうか。そう思ったが、なにも起こらず扉はしっかりと閉められた。
「彼女とは私が5-Aに所属していた際、共に過ごしました。さりぎ」
「去り際の言葉も“また明日”のような意味だと知っている。そんなものはお前が眠っている間に済んでいる」
それもそうだ。貿易のボスは、ボスが覚えていたと言っていた。だが当然、当事者やその周辺の人物からも話を聞くはずだ。
「失礼しました」
「あの含みのある言い方を聞けば、釈明したくなる気持ちも分かる。絢子は知らないだろうが、3ヶ月前に引き抜かれていることも気になる点だからな」
農園本部で食中毒事件があった頃か。なにか関係があるのだろうか。いや、考え過ぎだ。彼女は部下思いの…だから、という可能性もある。
全く分からないことを疑っていては、息も出来ない。その考えはずっと変わらない。そう。だから、彼女は違う。
「彼女の隊への配属を望む者が多かったが、滅多にないことらしい。それを聞き付けた本部のどこかの隊長が後見人に、と引き抜いたんだと」
「そうでしたか」
聞こえた足音がこの部屋の扉の前で止まる。すぐ近くからしか聞こえなかった。呼吸は落ち着いているが、浅めの深呼吸を数回すると扉が叩かれた。
襲わなかった元武闘組織の者が誰かなど気にしなかった。そのためなにも聞いていなかったが、すぐに分かった。
返事をすると、すぐ静かに扉が開く。
「南!目立った傷は…ないな。さては無理をして倒れたんだな?そうなんだろ?だからもっと睡眠と栄養をといっ…貿易のボス…、失礼しました」
「もっと言ってやってくれ。一日一食も苦労しそうだ」
「なんと…!相変わらずダイエットか?そうなんだな?何度も必要ないと言っているだろ」
よく言われるため、わざわざ調べた単語だ。食事制限をして脂肪を落とす行為らしいが、言われた通り私には必要のない行為だ。
「騒がしいにも関わらず、好かれているな。心なしか表情が穏やかだ」
「へっ…!?えっ、いやっ、そんな…あ、違うか。五月蠅くして申し訳ございません。顔が見られたので戻ります。生きてる内にまた」
貿易のボスの制止も聞かず、部屋を出て行ってしまう。私は一言も発していない。本当に顔を見ただけだ。
「戦闘時は妙に穏やかな者だと思ったんだが…」
「彼が慌ただしいのは表面上、主に口で、いつも心は凪いでいます。なので口を開けていても、それに対応する行動以外は穏やかです」
首を傾げて考える様な仕草をするが、すぐに閃いた様子で私を見る。
「来るときは足音がしなかったが、去るときはバタバタとしていたな。そしてすぐ不自然に聞こえなくなった」
「はい」
「増々不思議だな。“武闘の”の元へ戻る必要が、どこにあるんだ?」
…どういう意味だ?いや、本当は分かっている。
彼は5-Dへ配属された際に4-Dの隊長を務めていた。初めて配属された5-Fが2ヶ月で解体された後に配属された隊だ。
当時は分からなかった彼の、彼女の、優しさが今は分かる。
「寂しがり屋のボスに、これ以上寂しい思いはさせられません」
「そうか。いつか絢子が自分自身のために戻りたいと思ってほしいと、俺は思っている。出来ればそれが、東恭一の元ではないこともな」
「何故ですか」
「見つければ分かる」
答えを知り見つけるのではなく、見つけて答えを知るのか。
「分かりました。覚えておきます」
「ああ、今はそれで良い」
何故だろう。何故、この笑顔を見ると水は汚れてしまうのだろう。
しかし、そもそも本当に汚れていっているのだろうか。濃い色というだけだ。その色がどんなものかも知らない私が、何故汚れてゆくと思っているのだろう。
分からない。
「貿易のボス、私は…何色ですか?」
「下らない二つ名を聞いたのか」
いつ頃から二つ名があったのか、具体的には知らない。だが長く言われていることを5-Eの編成が大きく変わり、隊長が変わった際に知った。
それ自体は的を得ており、なにか言うつもりはない。
静脈血の色は、暗褐色というらしい。二酸化炭素を多く含むため、動脈血の赤褐色より暗い色をしている。そう本に書いてあった。
今の今まで相手が生きていた証の色と言えるのかもしれない。
その色を被った、歩兵である少女。
「大丈夫だ。絢子は汚れてなどいない」
いいや、確かに汚れてゆく。その優しい笑顔が、水を汚す。この水は一体私のなにを表しているのだろう。
これ以上ない程に、二つ名が私を表しているというのに。