第95話 その理由①
ボスが口にした言葉は、回答とは言えないものだった。目からなにかが溢れ、それが頬を濡らした。
「何故――」
私へと伸ばされた手が、貿易のボスによって止められる。
「泣かせたのは誰だ。俺の部下だ、触るな」
「今は“貿易の”の部下でも良いよ。でもね、私の玩具なんだ。これだけは、いつ如何なるときでも変えられないんだよ」
「恭一…!」
数名の慌てた様な足音が聞こえ、掴んでいた胸ぐらを離す。足音と同じく、扉を叩く音は慌てた様なものだ。
貿易のボスが返事をすると、扉が開く。緊張していることが伝わって来る。
「失礼します。西真白と名乗る人物が逃走した2名を連れて来ました。南絢子さん…異能戦争へ参加した少女と以外話す気がないと言っています」
「そうでなければ、どうすると言っている」
「2人を逃がすと…」
貿易のボスの手紙によって反逆者であることが知られて、逃げて来たのだろうか。それなら2人を捕まえず楠巌谷たちと合流すれば良い。
2人を捕まえたことによって、反逆者集団からは再度寝返ったと思われるだろう。何故逃がすと言う。
目的が分からない。
「応接室に案内して30分後に行くと伝えてくれ」
「ですが…」
「もう暗示は解けている。見てみろ。念のために足枷はしているが、手枷はしていない。暗示が解けていなければ、お前たちを殺そうと暴れているだろう」
単純に私が気に入らないのでは。
操られていたとはいえ、多くの者を殺した。それを不問にしようとしている。そうでなくとも、急に現れた少女だ。
「武闘のボス、貿易のボス、何故彼女に入れ込むのですか」
「自分より立場の弱い者に当たる、名前も知らない者。己の意志で招いた部下。どちらが可愛いと思うのが当然だ?」
「また厳しい言葉を振り撒くんだね。自分より立場の弱い者に当たる者など、相手にする価値もないよ。仕事だけこなしてくれれば良いんだ。分かるね」
ボスは仄暗い満面の笑みを浮かべた。それを見て怯え、すぐに背を向ける。しかし貿易のボスが声をかけ、再びこちらを向いた。
「俺の護衛である佐治に、温かいタオルとコイツの着替えを持って来るように言ってくれ」
返事をして、今度こそ部屋を出て行った。
「じゃあ私は行くよ。“貿易の”はいてほしくないだろうからね」
「なんのために佐治を呼んだと思っている。今のお前をひとりには出来ない。佐治に見張らせる。来るまで待っていろ」
壁に身体を預けて立つと、小さくため息を吐いた。
「否定したら信じてくれたのかな」
「今更無駄だ」
「仮定だよ」
「どうだろうな。だが、信じたかった」
いつ他組織が反旗を翻したのかは知らない。だが、こうして追い込まれたのではないかと想像してしまう。
薄ら寒い程の優しさ。それが東の弱さなのではないだろうか。
「本当なら、そう言ってもらう資格すらないと思うよ。ありがとう」
「気持ち悪い」
少しすると佐治さんがやって来た。その手にはタオルが4枚と、貿易のボスと私の着替えがあった。
「お待たせ致しました」
「佐治、“武闘の”は楠巌谷にされた要求がまだあるらしい。おかしなことをしないか見ていてくれ。部屋は隣で良いだろ。弓弦と合流しろ」
「はい、ボス」
2人が出て行くと、距離を取って背中を向けて立つ。背中にあるボタンを外そうと触れると、勢い良く振り向いた。
「なにをしようとした」
「背中のボタンを外さなくては着替えられない構造の様子ですので、お手伝いをしようとしました」
「これは飾りだ。それから、俺が背を向けたのはお前が着替えるからだ」
そういうものなのか。霞城さんは着替えを手伝いたがった。断る理由もないため任せており、それが普通なのかと思っていた。
「分かりました」
着替えを終えて声をかけると、何故かため息を吐かれた。
「なんのためにタオルを用意させたと思っている。血を拭け、血を」
「肌はほとんど出ていないので、汚れていないはずです」
「本当に世話の焼けるヤツだな」
タオルを手に取り、顔、首、手、髪と拭いてくれる。
「よし、これくらいで良いだろ」
「ありがとうございます。壁を向いていますので、凛太郎さんも着替えて下さい。佐治さんが用意したということは、汚れているのですよね」
「…そうだな。俺も着替える」
互いに背を向け合う。部屋には、布が触れ合う音だけが妙に大きく響いた。その空気を、呼吸の音ではない息を吸う音が切り裂いた。
「気付いているだろ。何故なにも言わない」
「その秘密を暴くことは、必要なことではありません」
「そうだろうか。もう、俺には分からない」
振り向くと、そこにはやはり傷ひとつない綺麗な背中があった。近付き前に回り込み、同じく傷ひとつない綺麗な手を取る。
「多くの者を守ってきた、ご自分を信じて下さい」
「絢子、お前はみなにこうも優しいのか?」
「分かりません。弓弦さんは優しいからこそ出て来る言葉があると、そう言ってくれました。でも私には分かりません」
またため息を吐かれてしまうかと思ったが、貿易のボスはただ微笑んだだけだった。そっと手を退けると、服を着て私に視線を向ける。
その顔は、ボスという役割を背負った者の顔だった。
「行くぞ」
「お待ち下さい。南海人を連れて行きましょう」
「確かに、あの異能があれば心強い。だが聞かせて大丈夫だろうか。今回も協力的だとは限らない。それに…」
こちらを見る視線は、心配そうなものだ。
「私のことを気にして下さっているのであれば、問題ありません」
「分かった。では協力を依頼しに行こう」
「はい」
西真白が待つ部屋の周辺には、人を寄り付かせない様にしてある。
扉の前に立つ貿易のボスと私、そして南海人。見張りは中に4人、扉の前に2人。西真白本人と連れて来た2人。
南海人は部屋を移動した後に扉の前で話を聞いて、嘘があれば合図を送る。そして必要に応じて部屋に入るという手筈だ。
しかしこの部屋でどの様な会話がされるか分からない。それも聞くため、今も部屋の前にいる。
扉を開けると、西真白はゆっくりとした仕草で紅茶に口を付けようとしていた。机の上には2冊の本が置かれている。
2人は手足を拘束され、猿ぐつわを咥えさせられていた。
私たちが入って来たことを気にする様子もなく、紅茶を飲み進める。
「こんにちは、お待たせしました」
飲み干してからコップを置き、私に視線を向けると小さくお辞儀をした。どの動作も不自然な程ゆっくりだ。
「…………こんにちは。…………お土産…です」
霞城さんへの態度とは随分違うな。疑っていたわけではないが、極度の人見知りというのはどうやら本当らしい。
「部屋を移動しましょう。2人に聞かせるわけにはいきません」
小さく頷くと、机の上の本を差し出して来る。題名は『赤い靴』と『眠れる森の美女』。私と正雄さんの異能の本だ。
「あなたの期待に応えられるかは分かりません。それは持っているべきです」
「…………脅すことは、したくない…です。断るような人は、尚更。…………恩を売られたとも、思わないでほしい…です」
「分かりました。ありがとうございます」
受け取り、部屋を移動する。座ると促されることもなく語り出した。要約すると、こうなる。
自分が異能戦場に入る前、私はまだ5隊に属する者のひとりであった。それが銅の徽章を持って異能戦争に参加している。正体を明かしたに違いないと思った。
幽閉されていると教えられた霞城さんを助けるため、反逆者となった。だが金の徽章を与えられ異能戦場に現れた。このとき楠巌谷に騙されていることに気付く。
どこかの組織が大陸の支配権を得るとはいえ、組織間のいざこざが残る。反逆者でいる理由がない今、霞城さんを虐げた西にしがみ付く理由もない。
どちらかでいる必要がないのなら、異能戦争の勝利組織を頼ろうと決めた。
相手に協力していることを知らせることが出来れば、より事は上手く運ぶだろう。余所者である霞城さんを受け入れ、金の徽章まで与えた東にしよう。
不自由なく育ててもらった恩があるので、異能戦場での出来事を報告はした。その後すぐに出発。向かう途中で2人に出会ったため、土産に捕らえた。
猿ぐつわには異能を封じる役割がある。2人はそれを知らないと知っていたため、鳥の声に似せた合図に使う笛を試しに吹いてほしい。そう言って咥えさせた。
「あいつは馬鹿なのか?」
「…………それより…………どうして東の方は反逆者だって気付いたの…ですか。バレて、逃げて、追手を撒いたと思う、としか聞いてない…です」
「それを言う必要はない」
小さく頷くと、一度窓に視線を向けてから私を見る。
「…………僕が自ら語るべきことは、もうないと思う…です」
「なにを質問するかで、どこまで知っているか知るためか?」
「彼女がひとりで来られないのは立場や事の重大さから理解出来る。だからなにも言わなかったが、その偉そうな態度を言及しないわけにはいかないな」
異能戦場で名乗ったときと同じ口調だ。これが外の顔というわけか。
「そうか、出しゃばったな。話の運びによってはまた出しゃばるだろうが、一先ず黙って聞こう。だが、その前にひとつ確認させてくれ」
寂しそうに笑った西真白は、いつか見た霞城さんのそれとよく似ていた。




