8.わたしはあるらいんおろかでみにくいむすめです
落とし所を探すため、やはり私はオーヴェルを頼ることにした。
また彼といるとダユトが……今度はどうなるのだろう。
でも良くない気がする。
絶対にダユトに見つからないように、オーヴェルの家の裏手で合流する。そこなら我が家から人通りの少ない裏道を通って行けるし、ダユトも用がなければ立ち寄らない。
「落とし所ねえ」
オーヴェルの髪が風になびく。
家の中にお邪魔するのはさすがに気が引けたので、裏手の倉庫になっているよく分からない空き地を教室とした。
私たちは果物が入っていたらしい木の箱に腰掛ける。
「家で働くのとかどうかな」
「内職か?
あんま意味ないだろそれ」
「そうかもしれないけど。
続けていればダユトもそのうち諦めるかもしれない」
説得が無理ならこうするしかない。
私の提案にオーヴェルは呆れたような息を吐いた。
「諦めさせるのは諦めたほうがいい。思い切って働きに出ろよ」
「でもダユトの嫌がることしたくない」
ダユトは私のことを大切にしてくれて、それが結果……オーヴェルの言っていた過保護に繋がっているのだ。
「……仕方ない。ならひとまず内職だな。
って言っても文字が読めなきゃ話にならん」
「……うん。お願いします」
オーヴェルにお礼として焼いたパウンドケーキを渡す。彼は驚いた顔をしてそれを見つめた。
「いらない、そんなの」
「嫌いだった?」
「お前から食べ物をもらうのは抵抗がある……。まずそう」
酷い言い草だ。けど食べたくないなら無理にあげなくていいだろう。
これは家で私が食べることにした。
「文字、全然読めないんだろ?」
「そう。全然」
「だろうと思った。
取り敢えず習うようの表を持ってきたんだ。これ」
オーヴェルがポケットからクシャクシャの紙を取り出した。
広げてみる。よく分からないグニャグニャとした線が並んであった。
「これが、文字」
「簡単なのだよ。まず名前を読めるようにしよう。
俺も求職活動で忙しいからつきっきりってわけにもいかないけど、ま、なんとかなる」
私もずっと家を空けているのはヴィホネルさんが心配なので難しい。
「アルラ……ってどれ?」
「アルラインだろ」
「そうだけど普段そんな風に言わないし。
そういえばどうしてオーヴェルって私がアルラインって名前なの知ってるの?
私もダユトも人にはアルラって言ってるんだけど」
「偶々な。
ほら、これがアルラインだ」
彼はスケッチブックを広げペンでサラサラと文字を書く。
……虫の死骸のような、よく分からない線だ。
「どこがどう……」
「簡単だろ? ここでアル、ここで区切ってここがライン」
「う、うーん」
「ここで躓いてたら先が思いやられる。
ほらほら、頑張れ」
スケッチブックと表を何度も何度も見比べてアルラインという文字を認識しようとする。
すると、最初は虫の死骸に見えていたそれが徐々に意味を持つ記号に変わっていく。
「あ! わかった!」
「な? 簡単だろ」
「うん、そうだね。
ねえ、ダユトはどういう字?」
「そんなものは覚えなくていいんだよ。
次いくぞ。”私”って主語だ」
「シュゴ」
「ハア。そこから説明しなきゃいけないもんな。
先が長そうだ……」
*
文字の勉強は恐らく順調に進んでいる、気がする。
家の中でもダユトに気付かれないよう彼のいない日中にコッソリ表を見て文字を覚えていく。
オーヴェルは案外教えるのが上手いので1週間経った今では子供向けの絵本くらいなら読めるようになっていた。
「今日は息抜きに面白いもん教えてやるよ」
そう言うとオーヴェルはスケッチブックにすらすらと文字を書いた。
覗き込んでみるがなぜか読めない。いや、見覚えはあるのだが……。
「何これ」
「鏡文字。
反転してるんだ。鏡に写すと読めるようになる」
「へー! 面白いねえ!」
「なんて書いてあるかわかるか?」
もう一度スケッチブックを見てみる。
「……ア、ル、ライン……」
「なんだ。読めるな」
「うん! 読めた!
これ面白いね。他に無いの?」
「あるけど……。
まずは普通の文字を覚えるのが先決だよ。これは単なる息抜き。
追い追い書いていけるようにもならねえとだし……はあ、大変だなこりゃ」
「ご、ごめんね。付き合わせて」
「……全部は付き合わない。大事な文が読めるようになるまでだ」
それでも彼の指導は本当にありがたい。
「そういえば私絵本読めるようになったんだよ」
「え? すごいじゃん。
想像より全然早い。文読むのなんて無理かなって思ってたんだよ」
「オーヴェルって私のことバカだと思ってるよね……」
出会い頭に愚かと言ってきた人は違う。
まあ、気にすることはない。私が愚かなのはある意味事実だ。
「そうだ。記念に似顔絵でも描いてやろうか」
「え!? いいの!?」
画塾に行っていたオーヴェルの絵!
私は手を叩いてはしゃぐ。
それからスカートの埃を払いきちんと木の箱に座り直した。
「何やってんだ?」
「え? 似顔絵描くんじゃ」
「今かよ。良いけど。
ならお面外して」
「……それは」
私は首を振る。
「お面姿の似顔絵なんか面白くもなんともないだろ。
その気持ち悪い絵もなんなんだ?」
「ダユトが描いてくれたの……」
ニコニコ顔のイラストをダユトは一生懸命描いてくれたのに気持ち悪いだなんて。
「今更お前の顔見ても何にも言わない」
「……初めて会った時、愚かで醜いって言ったよね……」
「子供は見たものを言っちゃうんだよ。
素直で可愛いもんだ」
「可愛い? んん……? まあ、良いけどさ。
でもお面は……」
「仕方ない。
じゃあ簡単にな。ジッとしてろよ」
私は頷いた。
彼はズルズルと木の箱を引きずって離れた位置に移動する。
それからスケッチブックを構え鉛筆を紙に走らせた。
何度も何度も私とスケッチブックを見比べながら凄い勢いで鉛筆を動かしていく。
「……絵描くのって楽しい?」
「いや。全然」
「えっ!?」
「……俺、才能無いんだよ。ギリギリまで粘ったけど画家として食っていけるだけのモノは持ってなかった。
画塾の奴らはみんな絵が上手くて、入りたての頃はこうなりたいって憧れたけど、結局追い付けずに引き離されるだけ。
焦るばっかりで絵は上手くなんないし、周りは仕事貰えるようになるし。描いた絵全部破り捨てたくなる」
オーヴェルの口調は淡々としていた。
ただ事実を話しているだけのような口調。私はなんと言って良いかわからず黙っていた。
「……けど、絵描くのやめられない。何かを見ると、頭の中でスケッチしてる。木の枝の歪み方、髪の流れ、カーテンのシワ。それが描きたくて体が疼く。
嫌になるよな全く」
ちょっとだけ、彼は口元を緩めて笑う。
「ヨニナは、オーヴェルの絵目が離せなくなるって……」
「あの人趣味悪いから」
「えっ」
「俺がどんな絵描いてるか聞いた?」
「う、ん。
顔の皮を剥がされてる裸の女の人の絵……」
イメージだけだと恐ろしい絵だと思う。どこか飄々としているオーヴェルからはイメージできない。
「俺だって綺麗な女の人とか描きたいんだけどな。完成するのはああいうやつ……まあ、トラウマ療法にはなってるのかもなあ……」
「トラウマ……」
「……昔からお前の顔が怖くて堪らない。
でも顔の皮を全部剥がせばいいんじゃないかと思ってたんだ」
思わぬ言葉にギョッとし、お面を押さえる。
顔の皮を……?
……私の顔はそんなに、こんなに、恐ろしく醜いのか……。
人の心にそこまで影響を与えるほどの顔をしていたとは思わなかった。
「でもそれってなんていうか、対症療法っていうか。
根本の解決にはならないよな」
「痛いのは嫌かな」
私は苦笑した。顔を剥ぐのが根本の解決であっては堪らない。
オーヴェルを見ると彼はスケッチブックから顔を上げこちらに目を向けていた。
「顔見せてくんない?」
なんの冗談を言っているんだと思った。皮を剥ぐと言われているのに見せるわけがないだろうと。
けれど彼の目はすごく真剣で、そして侮蔑も恐怖もなんの感情もない目だった。
「……どうして」
「見たら俺は、もっとダメになるかもしれないけど、もしかしたら大丈夫になるかもしれない」
酷いことを言うなと思う。けどオーヴェルは嘘をつけないのだ。ある意味素直とも言える。
そして私はそんな彼が嫌いじゃない。
「……少しだけだよ」
私はお面の紐を引いた。重みで面がズレる。
ゆっくりとそれを外すと視界がパッと開けた。陽光が柔らかく辺りに広がっていく。
オーヴェルの方を見る。彼は無感動な目で私を見つめた後「大したことなかった」と呟いた。
「大したことないって」
「ちっちゃい頃に見たから頭の中で怖くしてたっていうか。
そっか。こんなもんだったか。まあ酷いとは思うけど……」
「失礼じゃない!?」
「正直、そのお面の絵の方が怖い。線が震えてるしやけに小さいし、歪んでるし。
ダユトって絵が下手なんだな」
私の顔を大したことないと言った上にダユトの絵まで貶めるとは。
呆れてしまうけれど、同時に笑いがこみ上げてくる。
「何よそれ……」
「本当になんなんだろうね」
冷え切った声がして肩が揺れる。
オーヴェルはゾッとした様子で顔を強張らせた。後ろを振り返ろうとしない。
「……ダユト……」
オーヴェルの家の陰から無表情のダユトが現れる。
「アルラ。お面外しちゃダメって言ったよね?」
いつから彼はここにいたのだろう。まるで気付かなかった。
ダユトの怒りを押し殺した声に私は唾を飲み込んだ。
「なんで……」
「ここにいるかって?
多分オーヴェルのところにいると思ったんだ。
仕事紹介してもらってたのかな……ああ、彼にはそんなコネ無いか。
帰ろう、アルラ」
額に汗が浮かぶ。暑いからじゃない。
いつものようにダユトは私に向かって手を伸ばしている。
オーヴェルが私を見つめ小さく首を横に振った。
「アイツ、頭おかしいんだよ」
「ずいぶんな言い草だね? アルラを誑かしたのはお前だろ」
「誑かすって言い方はどうかと思うけど」
オーヴェルはダユトが怖いのだ。
目を合わせないように私の方を向いたまま、彼に背を向けている。
もしかしたらオーヴェルのこと傷つけるかもしれない。私は慌てて立ち上がった。
「ダユト。あの、私……」
「……アルラは悪い子だね。目を離すと危ない奴のところばかり行って。
目を離したらダメなのかなあ……」
オーヴェルがそろそろと立ち上がりダユトに少しだけ近寄る。ただし視線は地面に向けられたままだ。
「ま、待て。俺が悪かったよ、誑かした。
そいつはバカだから俺の言うことホイホイ聞いてただけで」
「アルラはバカじゃない」
「そうでした」
「……僕はアルラに何もしない。何かすると思うのか?」
ダユトがこちらに近づいてくる。オーヴェルは見ていられないというように目を背け続けている。
「アルライン……」
「その名前で呼ぶな!」
突然ダユトが声を上げる。その語気の強さに私は驚いた。
「アルラインじゃない……アルラだ。
おいで、アルラ。可愛い可愛い僕のアルラ」
「……そんな誤魔化ししてもどうしようもないだろ……」
「うるさい。
……二度とアルラに近づくなって言ったのに……」
腕を強く引かれて思わず振り払ってしまう。
彼は一度離した後、また掴んできた。
「やだ、ダユト……」
「……何が嫌なの」
「だってなんか、最近おかしいよ」
怒りっぽいし人にやたらと攻撃的だ。
ダユトは首を振る。
「おかしいのはアルラだよ。
僕に隠れてコソコソオーヴェルに会ったり、お面を外したり、僕との約束を破ってばかりだ。
それに、僕のこと嫌いって言った……」
熱い手が私の頬に触れる。
「オーヴェルの方を好きになったから?
ずっと僕といたのに……僕のことを好きって言ってたのに……!」
「オーヴェルは相談相手になってもらってただけだよ……」
どうしていきなり私がオーヴェルのことを好きだなんて思うのだろう。
この世で一番好きなのはダユトだというのに。
「だ、ダユト」
オーヴェルは怯えた顔をしてダユトの腕に触れる。
「俺たちは話してただけだ。あんたが考えてるようなことは一切無い。
ただ俺はこのままじゃ良くないと思って、それで」
声が微かに震えていた。
ダユトの腕に縋り必死に言い募るオーヴェルの姿はひどく幼く見える。
「……僕が怖い?」
「怖い」
「父に似てるから?」
「あんたの親父に俺は会ったことないよ」
「でも君の母親から聞かされてるんでしょう。どんな酷い奴だったか……」
「蹴ったり殴ったり、村中で暴れて回ったらしいな」
ハハ、と何が面白いのかオーヴェルは引き攣った笑いを漏らす。
それをダユトは真面目な顔で見ていた。
「……君の母親は君そっくりの美しい人だから。父は、本当に酷いことを……」
「え……?
な……なに、言ってんだ?」
オーヴェルは呆然とした顔でダユトを見上げた。
「知らなかったんだね。
知らないままの方が良かった? そうでしょう」
「あ……俺……」
ダユトの言葉の意味はわからないけれど、放たれた言葉はオーヴェルにひどいショックを与えたということは彼の顔色を見ればわかる。
またダユトは人を傷つけたんだ。そう思うとジンワリと嫌な黒い靄が私の心に広がった。
「ダユト……! やめて、何言ってるの?」
「……真実が必ずしも良いことじゃないって伝えたかっただけ。
帰ろう」
「嫌だ」
「……アルライン。帰れ」
オーヴェルは泣きそうな顔をしていた。
ぎゅっと目を瞑り息を吐き出す。そして意を決したように拳を握ると、腕を伸ばし私を抱き寄せた。
嗅いだことのないツンとした匂いが彼から漂う。
「何やってるんだよ……!!」
ダユトがオーヴェルを素早く引き剥がし襟首を掴んでいた。
私は驚きで動けない。
「アルラに触るな!!」
ダユトがオーヴェルを強く押す。細い体で支えきれるわけがなく彼は地面に倒れこんだ。
これ以上オーヴェルに何かしないように慌ててダユトの腕を押さえる。
「やめて!」
彼の体から緊張が抜けていくのが伝わる。
ハッとしたように目を見開いて一歩オーヴェルから後退した。
「……ごめん」
「もう、帰ろう……」
私はダユトに縋り付いた。彼はオーヴェルへの怒りが嘘のようにおとなしく頷くと私の手を取りオーヴェルに背を向けた。
倒された彼は地面に座り込んだまま、疲れた様子で息を吐いている。
—鏡を見ろ
抱きしめられた時こう囁かれた。
目が合うと彼は唇に人差し指を当て、しーっと黙るようにジェスチャーをする。
……オーヴェルは私に何を伝えたいのだろう……。