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清々しい気持ちで雑草の消えた庭を見る。
そういえばダユトが花の種をくれたはずだ。美しい花々の咲く庭なら、オーヴェルのように森と勘違いして敷地に入ってくる人も減るはず。
庭の端の柔らかい土を掘り返していると影が落ちてきた。
……オーヴェルだ。
怪訝な顔でこちらを見下ろしている。
「何やってるんだ」
「こんにちは……。お花育てようと思って」
「ふうん」
彼はつまらなさそうに返事をするが立ち去りはしない。何の用だろう。
ダユトに話すなと言われたし、話さないほうが良いのだろうけど。
「……どうかしたの?」
「……職安に行ってこようと思ったら潰れてた……。なあ、職安って潰れるのか? 公的な施設だろ。
それともこの村じゃロクな紹介できないから別の地区に移動した?」
「職安って……?」
「職業安定所のことだよ」
「何それ」
「はあ? お前職安も知らないのか?
職業を案内してくれる施設だよ。お前も行ったほうがいい」
そう言われても。
私は首筋に垂れる汗を袖で拭い立ち上がった。
「誰か知ってる人いないの?」
「帰り道にちょうどお前がいたから聞いたんだよ。
はあ、頼る相手を間違えた俺が馬鹿だった」
呆れたオーヴェルの言葉に私は俯くことしかできない。
「ご、ごめんね」
「あ、そうだ。これ本当か?」
彼は鞄から新聞を取り出して私に見せた。
若く美しい女性のモノクロ写真が大きく載せられている。
「わあ、誰?」
「誰って……チェイラ・ヤクス知らないのか?
有名な詩人なんだけど、10年も前に行方不明になってさ。でもその人がいなくなる前に手紙がこの村から編集に送られてきてたらしい」
「へえ。詩? を書く人のこと?」
なんだか難しい職業の人がいるものだ。
「ほんっとうに世間知らずだな!」
「ごめん……字が読めないし……新聞も読まなくて……」
「え?」
オーヴェルは突如、すとんと無表情になった。それから唇を歪め何か恐ろしいものを見たかのような顔になる。
「オーヴェル?」
「……なあ、お前さ、外に出る努力した方がいいよ。嫌なこともあるかもしれないけど、いつまでもそのままじゃ……。
……なんてお前に言っても仕方ないか」
字が読めないことは彼にとって相当なことだったらしい。愚かな娘。やはりそうだったと再認識された気さえする。
「俺もう行くわ。職安見つけたらお前にも教えてやる」
「え? どうして」
「字が全く読めなくてもなんか仕事はあるだろ」
吐き捨てるように言ってスタスタとオーヴェルは歩き出してしまう。だが明らかにそちらは村の方向ではない。
「オーヴェル待って、そっちは森だから多分職安無いよ……」
駆け出した足をスコップに取られる。
バランスを崩した私は頭から地面に突っ込んだ。
「うわあ!? アルライン!?」
オーヴェルの悲鳴を聞きながらノソノソと起き上がる。だが目の前が真っ暗だ。どうやら泥にお面ごと突っ込んでしまったらしい。指で泥を拭うがうまく前が見えない。
「ビックリした。そんなの付けてるから視界が悪くなるんだ!」
「ごめん……」
「あーあ。全身泥だらけ……。
早く風呂入れよ」
私はヨロヨロ立ち上がった。足がふらつく。
「……おい、前見えてるのか?」
「見えてない……」
「はあ? お面外せよ」
「それは……」
できない。ダユトとの約束だし、もうオーヴェルに素顔を見せたくない。
「仕方ねえな。
ほら」
グイッと腕を引かれた。どうやらオーヴェルが家まで先導してくれるらしい。
細くてガサガサした手だ。オーヴェルの骨張って大きな力強い手とはまるで違う。
「ありがとう。ごめんね」
彼は黙ってズンズン歩く。しかし、ピタリと歩くのをやめた。その動きに私はまたこけそうになる。
「……なあ、赤い扉と茶色の扉、どれがお前の家の裏口なんだ?」
「……え? 赤でも茶色でも無いよ?
黒い鉄製の扉」
「んー? そんなのあったか?」
「さっきいた場所から10歩もいかないとこにあったはず」
「戻るか」
また私の手を引いてズンズン歩き出す。何か不安だ。
オーヴェルは会うたび道を間違えている……。
「黒い扉……?」
「い、今どこにいるの?」
「畑がある」
「畑まで来ちゃった? どうしてだろう……。
そしたら表玄関から行ったほうが早いかも……」
「どう行けばいい?」
「道に沿って真っ直ぐだよ」
泥が乾いてカピカピになってきた。これなら目の穴の泥が落ちるかもしれない。
しかし泥を落とそうにも片手はオーヴェルに握られ、そして迷いのない足取りでズンズン歩くため中々難しい。
それにしてもこんなに自信たっぷりに歩くのに逆方向に向かっているのはどういうわけか。
「……森が見えてきた」
「え? あれ? どうしてかな」
道に沿ってまっすぐ歩いたら森にたどり着けるはずがない。というかそれまでに裏口の扉が見えてくるはずだ。
「くそ、迷子か」
彼が悔しげな声を出した。なぜ悔しいという感覚になるのかわからない。不安しか感じられない。
「自分の家で迷子になるなんて」
どうしよう。もう素顔を見られたくないなどと言ってる場合じゃない。
このままだとオーヴェルと共に森で彷徨うことになりそうだ。そうなったら最悪の場合、野犬に襲われて食い殺されるかもしれない。
彼と心中はごめんだと私がお面の紐に手をかけた時、「アルラ!」と呼ぶ声がした。
「ダユト?」
「げっ! おい、俺はお前を助けようとしただけだってちゃんと説明しろよ!」
「う、うん!」
タタタッと足音がした。結構な早さだ。
オーヴェルに掴まれていた手が引き離され「大丈夫!?」と声が降ってくる。
「ダユト。あの、あのね」
「彼女に気安く触るな」
冷たい声はオーヴェルに向けてのものだ。普段との温度差にどきりとする。
「俺は家まで案内しようとしてただけだ」
「森の方に歩いてたくせによく言う」
「わざとじゃない。迷ってたんだ」
「あの、本当だよ。私がこけて、お面に泥が付いたから前見えなくてそれで……」
「こけたの? 怪我してない?」
「うん」
肩をぐっと掴まれる。
「戻ろうか。
……二度とアルラに近付くな」
ダユトは氷のような声で言う。それにオーヴェルは返事をしなかった。
誤解で怒られてしまって不愉快な気分になっただろう……。彼には申し訳ないことをしてしまった……。
「……どうしてここに?」
ダユトは今仕事中のはずだ。
私の呟きに彼は「休憩の合間に様子を見に来たんだよ」と淡々と答えた。
昨日オーヴェルの話をしたから心配してくれたのだろう。
玄関の扉が乱暴に開けられる。
泥だらけのお面が外された。視界が明るくなる。
まず飛び込んできたのは怒りを滲ませたダユトの顔だった。
「ダユト……」
「話すなって言ったのに。僕が来なかったらどんな目にあったか……!」
「挨拶してただけだよ……。それにオーヴェルは助けようとしてくれて」
「そんなのわからないだろ? 善意を装ってアルラに酷いことするつもりだったのかもしれない」
「……そんなことないよ」
オーヴェルがそこまでするとは思えない。彼はダユトのように優しいわけではないが、悪人でもないのだ。
しかしダユトは返事せずに私の靴を手早く脱がすと、そのまま抱き上げた。
驚いて動けずにいると「このままお風呂に行くよ」と言われる。
泥が落ちないように抱えることにしたらしい。
昔お風呂は離れにあったが、それだと行き来の間も私がお面をしなければなくて大変だから、と室内に作られた。
脱衣所に私を運び込むと彼はワンピースのボタンに手をかけた。
「じ、自分でやる」
「どうして?」
「恥ずかしいし……」
「恥ずかしがらなくていい」
そんなこと言われても。だけどダユトがピリピリしているのでそのままなすがままになった。
インナーにしていたキャミソールワンピースのみになると彼は息を吐いた。
泥だらけのワンピースと靴下を洗濯カゴに入れる。
「……オーヴェルにどこ触られた?」
「え、あ、手?」
「他は?」
「どこも……」
「そう」
彼は私の首筋や腕をジッと見ている。
なんだか落ち着かない。腕で体を隠そうとすると押さえられた。
「どうして隠すの?」
「だって恥ずかしい。たくさん汗かいたし汚いもの」
「……アルラは綺麗だよ。とっても」
驚いてそんなことないと言おうとしたが、オーヴェルに握られていた方の手を掴まれる。
ダユトの柔らかい唇が手のひらに当たった。ちゅ、と音がする。
「君の美しさに気付いた奴は浅ましいことをしてくるだろうね。
でもアルラ、よく覚えておいて。君にこうやって触れていいのも」
指が私の唇を撫でた。つつつ、と移動して耳や顎を撫で摩る。
「キスしていいのも、僕だけだ」
ダユトの顔が近付いてくる。唇が、今度は頬に触れた。
「……わかった?」
「う、ん」
「何がわかったのか言ってごらん」
「……私に、触ったりキスしていいのはダユトだけ……」
「そう。良い子だね」
私の頭をよしよしと、まるで子供を褒めるように撫でてダユトは洗濯カゴを持って出て行った。
膝に力が入らない。ずるずると脱衣所の床にへたり込んだ。
心臓がバクバクと脈打ち耳の後ろが痛くなるほど熱くなっている。
*
お風呂場から戻るとダユトはいつものようにソファに腰掛けていた。
「あの」
「……アルラ……」
私に気付くと彼はすぐに駆け寄った。
「……さっきはごめん。少し感情的になって……」
思わず俯いて足先をモジモジと動かす。
どれのことを謝られているのだろう。
キスのこと? それなら私は……。
「怒った? ……ごめん。僕は君のことが本当に大事で……だから、たまに自分を抑えられなくなる」
「怒ってない……」
「許してくれる?」
ダユトが私の顔を覗き込んだ。美しいグレーの瞳に私が写し出されているような気がして思わず目を逸らす。
「許すよ……怒ってないし。ね?」
「……うん」
ごめんね、とまた謝ってダユトは私の頬を撫でた。
「ダユト、お仕事に戻らなきゃいけないんじゃないの?」
「そう、だね。
大丈夫?」
私の手を優しく掴んで握りしめる。軽く握り返して頷いた。
「平気。
今日はもう家の掃除してる」
「……わかった」
彼は後ろ髪引かれるようにこちらを何度も振り返りながら「戸締りしっかりしてね」と言って出て行った。
……ダユトに触れられたところすべてが熱い。