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13. ××××××

ガチャンと乱暴にグラスを置く。もう何杯飲んだだろうか。

だがいくら飲んでも酔っても頭の中に冷静な部分は残っていて、それを搔き消したくてまた飲む。

ヨニナに未練の残る彼は離れたと言うのに結局彼女のいる街に来てしまっていた。だが彼女は出張とか言ってアルラインの家に行ってしまった。

ヨニナがなぜアルラインに目をかけるのかわからないが、あのぼーっとした彼女にまで負けてしまったのが悔しくてたまらない。

いつになったら自分はヨニナの一番になれるのだろう。一生なれないのだろうか。


「お兄さん、随分荒れてんね。女に振られでもしたか?」


横にいた中年の集団がニヤニヤ笑いながら声をかけてきた。

オーヴェルはぼんやりした視線を向ける。


「……そう」


「嘘だろ。にいちゃんみたいに顔の良いやつが?」


「振ったの間違いだろ?」


「三股がバレたか?」


「なんで、二股飛び越して三股なんだよ……」


悪い悪い! と男は笑う。


「で? 何があったんだよ?」


「人の不幸は蜜の味。それを肴に俺たちゃ楽しく呑ませてもらうから教えてくれよ」


どうしようもないなとオーヴェルは苦笑しながらヨニナのことを話すことにした。

こんなどうしょうもない人達でもいいから誰かに聞いて欲しかった。


「……好きな人と……やっと結ばれたと思ったら、向こうは遊びだったみたいで……」


「にいちゃんが遊ばれちゃったのか!?」


「すげえ女だな……」


「そう。すげえ女なんだよ。

……再会できて嬉しかったけど、向こうは俺のこと眼中に無いみたいで……」


「へ、へー……」


「ひでえ奴だな」


それは否定できない。ヨニナはひどい人だ。

冷たいし嘘つきだし平気で他人を貶める。

だが彼女はオーヴェルの絵を見て「素晴らしい」と言ったのだ。


*


あの時彼は人生のどん底にいた。

ダユトが……口止め料とはいえお金を出してくれて街に来られたというのに画塾にいたのは自分よりずっとずっと、追いつけないほど上手い人だらけだった。

追いつこうと必死で絵を描くがそれは物体の美しさをまるで描き切れていない腐臭の漂う死んだ絵で、こんなものを書きたいんじゃないといくつもスケッチを破り捨てた。


苦しみから抜け出そうと人体クロッキーをしていると傷だらけの顔をした彼女の姿が脳裏にチラつく。

目の前にいる女はつるりとした肌をしているのに、違うのに、アルラインの肌に走る長い赤い線が頭を支配した。

あの顔が恐ろしいのに、あの顔から逃れられない。


授業では顔の皮を剥いだ全裸の女を提出した。

先生たちからは「露悪的だ」「悪趣味」と酷評されたが、それは彼自身が一番よくわかっていた。

あの恐ろしい傷はもう思い出したくないのに。


しかしそんな絵を褒めてくれた人がいる。それがヨニナだ。

出版社に勤める彼女は、画塾の特集記事を書くということでオーヴェルの通う塾に何度も足を運んでいた。

不思議な人だった。

話すときは本音をほとんど言わず嘘ばかりで、そのくせこちらのことを鋭く観察している。

作ったような笑顔もどうも信用ならない。

それなのに、彼女が口を開き話し始めると否が応でも引き込まれてしまうほど話がうまい。

いつの間にかヨニナに好意を抱く自分に気がついた。

それは彼女も同じ気持ちだと朝を迎えるまで思っていた。


あの夜ヨニナは部屋の壁に隠すように立て掛けていたオーヴェルの絵を見つけて「素晴らしい」と呟いた。

その時の彼女はベッドの中ですら見せなかったギラつく瞳と興奮したような震える低い声をしていた。


「素晴らしくないよ、こんなの」


彼がシャワーに入っている間に見つけられてしまったらしい。慌ててオーヴェルが絵を取りあげようとすると彼女は止める。


「もっとよく見せてください」


「嫌だ。これは塗り潰して別の絵を描く」


「……そんなことしないで。その絵、私が買います。

いくらで売ってくれますか?」


「は!? 何言ってんの。金払うような価値無いから」


「ありますよ」


ヨニナの顔には何故か自信が漲っていた。

彼女の白い指がキャンバスの縁に触れる。


「……見ただけで魂が震えました。目を背けたいのにずっと見ていたい、こんな気持ちになったの初めてです……。

あなたには才能がある。そして才能にお金を払うのは当然のことです」


頬を染めヨニナは官能的な息を吐いた。

信じられなかった。彼の絵を評価してくれる人は今まで誰もいなかったのに。


「アンタの趣味が悪いだけだと思う」


「そうかもしれませんね」


絵は売らなかった。ヨニナに渡すのが惜しくなったのではない。

絵と向き合おうと思ったからだ。

それからヨニナとも。


……だがそんな決意は虚しくオーヴェルはヨニナに捨てられ、絵も周りが評価されるのに自分だけが評価されない苦しみに押しつぶされ地元に帰ることにした。

ヨニナはただチェイラが最後にいた村の出身である自分に興味をもっただけで、オーヴェルの求めるものを与えることはなかった。

ヨニナ以外の誰もオーヴェルの絵を評価しなかった。誰もが悪趣味で痛々しいと嫌悪の滲む目で彼の絵を見下ろした。

こんな絵しか描けない自分には向いていなかったのだ。現実を見なければ。

彼は画家の夢を諦めた。新しい生き方をしよう。

オーヴェルは皮を剥がした女の……アルラインを描いたキャンバスを倉庫に閉まった。

ヨニナへの気持ちもそうやって閉まっておきたかったのに。


*


酔っ払い相手にヨニナへの未練をタラタラ話していると1人の女が近づいてきた。


「……オーヴェルくん」


ヨニナだった。彼女は眉を下げ呆れたようにオーヴェルを見下ろしている。

……いや、彼女のはずがない。ヨニナはアルラインのいる街に行ったはずでここにいるわけがないのだから。

そうだ、酔っ払って幻覚を見ているんだ……。


ヨニナがいないと頭ではわかっていても心ではそうあればいいと望んでしまう。オーヴェルは手を伸ばし彼女に縋り付いた。


「……ヨニナ……」


「大丈夫ですか?」


「無理。吐きそう」


「仕方ないですね」


ほら、と誘導されオーヴェルはフラフラ立ち上がりヨタヨタ歩き出す。

ヨニナは店のトイレの個室に彼を押し込んだ。


「吐いたら楽になりますよ」


便器に向かってこうべを垂れる。けれど口から出てくるのは胃液だけだ。


「……吐けない……」


背後でため息が聞こえる。呆れられてしまっただろうか。

けれど立ち上がって謝れるほどの体力は残っていないので、また便器に向かって唾液をダラダラ零した。やはり吐き気はあるのにうまく吐けない。


「オーヴェルくん」


ヨニナが背中に手を置いた。


「お口開けて」


言われるがまま口を開く。ヨニナは躊躇うことなく細い指を口の中に突っ込んだ。

驚いていると喉の付け根を押される。グエッとひどい嗚咽が漏れた。

慌ててヨニナの指を引き抜いて便器に顔を向ける。吐瀉物が吐き出された。

……好きな人に吐瀉物を見られるって……。オーヴェルは生理的な涙と、悲しみの涙、両方流しながらしばらくそうしていた。

だが彼女は幻覚だ。アルコールが見せてくれる素敵な夢。

オーヴェルはそれを思い出すとヨロヨロと立ち上がった。


吐いたことで気分は良くなったが頭は回らない。

ヨニナに掴まりながら上の階にある宿の一室に向かっていた。けど、なんでだろう。


「ほら、部屋とっておきましたから」


ふかふかのベッドに押し倒される。彼女はオーヴェルの靴を脱がしシャツを緩め「仰向けで寝ちゃダメですよ」とゴロンと横に転がした。その間彼はなすがままだ。


「良い子ですね。お布団かぶって、少し休んだら気分良くなりますよ」


このまま彼女は消えるつもりだ。オーヴェルは慌ててヨニナの腕を掴む。


「……行かないで」


みっともないし情けない。今日は醜態を晒しすぎている。

でもこれが夢幻だとしてもどうしてもヨニナに側にいてほしかった。


「今日だけで良いから」


「……仕方ありませんね」


重々しく溜息をつくと、彼女はオーヴェルの体を起こした。

そしてベッドの空いたところに座るとキョトンとしたままの彼の頭を膝に乗せる。

膝枕だ。まさかこんな風に甘やかしてくれるなんて。

オーヴェルはヨニナの足に触れる。

ストッキング越しに熱と柔らかさが伝わってくる。なんて良い夢なんだろう……。


「あんまり撫で回さないでくださいよ」


「ごめんなさい」


そう言いながらも彼はヨニナの膝頭にキスをした。ストッキングがスベスベして気持ちいいので唇を何度も付ける。


「オーヴェルくん……気持ち悪いんでしょう。大人しく寝なさい」


「ごめんって……ヨニナ足弱いもんな」


オーヴェルは色っぽく笑いながら彼女のふくらはぎを人差し指で撫でた。

ヨニナが珍しく、本気で困った顔をする。夢だからこんな顔も見られるのか。


「その顔好き……。体も声も全部好き」


「私は……」


「付き合うの嫌なんだろ? 遊びでもダメ? 頑張って都合のいい人になるからさ……」


頭がふわふわする。自分が何を口走っているのかオーヴェルには最早わからなかった。


「あんたが俺と寝たくなったら俺のところ来て。他の男と寝ても文句言わないようにする。

嫌になったら放っておいていいよ。来てくれるの待ってる……ずっと」


「……私、飢えた獣みたいに男と寝まくってるわけじゃありませんからね。それからあなたみたいな若い子を愛人にするつもりもありません」


「愛人ですらなくていいよ。物でいいから。

……ヨニナの物になりたい」


そうしたら苦しくなくなるのに。

ヨニナがいないことも、絵が評価されないことも、なんも気にならなくなる。


「物は嫌です……」


彼女は優しくオーヴェルの頭を撫でた。呆れたように息を吐く。


「……なら何ならいいの……」


目から熱いものが流れる。ヨニナの白く長い指がそれを拭った。


「……オーヴェルくん、私はね、あなたのことが好きなんです。

けど困ったことに男としてのあなたも好きだけれど芸術家としてのあなたも好きなんです……。

芸術家は苦痛と孤独が必要でしょう? でも私はあなたのこときっと甘やかしてしまう。

だから私は離れていなくては」


その声はいつもの嘘くさいものではない。これが彼女の本音なのだ。

好きと言ってくれたことに一瞬天にも昇る気持ちになったが、苦痛と孤独? 何を言ってるんだ?

彼は起き上がりヨニナの頬に触れた。柔らかく暖かい……本物だ。

夢じゃない。

オーヴェルの酷い酔いが覚めていく。


「なんで俺が地元に帰ったかわかる?」


「……わかりません。あそこで、あなたを見たときは……ショックでした」


オーヴェルが地元に帰ったのは失意に飲まれ、新しい生き方をするために過去と決別するためだった。

……結局、ダユトやアルラインに抱えていたトラウマは克服できたがヨニナと決別することはできなかった。


「俺はヨニナにされた仕打ちのがショックだった。

アンタと結ばれた、恋人になれたと思ったのに、あっさり拒絶してくれたよな。

……俺のこと評価してくれたアンタが、苦痛と孤独をもたらしたいって、そんな下らない理由で離れてたのか」


「多くの芸術家は皆孤独で苦痛に苛まれていました。それがあれば芸術性が磨かれるということでしょう」


「そういう奴らもいるかもな」


オーヴェルはヨニナのを腕を掴む。


「けど俺は、その苦痛と孤独で描けなくなった。アンタは俺に才能があるって言うけど違う。俺は才能なんか無いんだよ。ただ描くのが人より少し好きだっただけ。

センスも技術も速さも無い。才能ある芸術家じゃないんだ俺は……絵を勉強してるだけの凡人なんだ。

凡人は、苦痛と孤独なんかもたらされたら簡単に筆を折る」


彼の慟哭に似た言葉が溢れていく。ヨニナが辛そうな顔でオーヴェルを見つめている。


「……俺のこと芸術家だって、才能あるって言うなら側にいてよ。

アンタしか俺のこと評価してくれないんだから……」


視線がユラユラと揺れている。彼女は動揺しているのか。

唇をわななかせオーヴェルの髪を優しく梳かす。


「今に皆があなたのことを評価します」


「いつ。誰にも認められないこと長く続けてらんないよ」


「いつかはわかりませんけど必ず。

……それまでは私が側に。だから描いてください」


ヨニナがオーヴェルの手を取る。そして彼の指先に口付けを落とした。


「私はただ、あなたの絵が好きなんです。

あなたの絵を見ていたい。あなたの絵は私の答えなんです……」


祈るようなヨニナの言葉。

それは、オーヴェルを好きと言ってくれた以上に体中痺れる甘い言葉だった。

彼は思わず彼女にキスをしようとして慌てて顔を離す。


「……オーヴェルくん?」


「いや、俺さっき吐いたから」


「ゆすいだでしょう」


「そうだけど嫌じゃん」


ヨニナはクスリと笑う。

顔が近付き頬に柔らかい感触がする。


「……唇以外にしましょうか」


「えっ!? あ、でも、俺いっぱい呑んだから、できない……」


「何を考えてるんですかあなたは。

酔っ払いを襲うほど私は飢えてませんよ」


「てっきりそういう意味かと」


「雰囲気ぶち壊しますねえ」


また、ヨニナは呆れた顔をする。けどどこか楽しそうだ。

そっと彼女に腕を回し抱きしめる。細い体はゆったりとこちらに身を預けてきた。

耳に唇を寄せ「大好き」と囁くと「わかってますよ」と返された。


どうかこれがアルコールの見せた夢でありませんように。


「おはようございます」


「ハッ!? 夢、じゃない!」


「そうですよ。

ほら、起きてシャワー浴びて」


「その間に帰らないよな?」


「ここにいますよ」


「……一緒に入る?」


「もう入りました」


「そう……」


「まず、お互いこれからどうするか話しましょう。

それから好きに過ごせばいい。時間はあるんだから」


「好きにって……そういうこと?」


「…………寝起きなのに元気ですよねえ…………」

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