第四話 迫りくる危機
「それにしても、こいつはまたずいぶん若い娘じゃねえか」
「ええ。さすが、ネットは宣伝効果が大きいです。かなりの応募がありました。まあその分、ひどいはずれもありましたがね」
まどろんでいる時のような、現実と夢の狭間をさまよっているような意識のなか、聡恵の耳に男たちの会話がぼんやり入ってきた。
どうやら、自分はいまソファのような柔らかいものの上に横たわっているらしい。うっかり寝てしまったところを運んでもらったのだろうか。それにしたって、運ばれている途中で意識を回復してもいいものだが。それに気が付かないほど熟睡してしまったのか。
周囲の状況を確認しようとするが、不思議と首が動かない。それどころか、身体のどの部分も満足に動かすことができなかった。やむなく、薄く開いた瞼の間から、目の眼球だけをなんとか動かして辺りを見回す。さっきまでいた部屋とは別の場所のようだ。窓があるらしい箇所は黒い暗幕で覆われていて、天井の暖色の灯りが、タバコのものと思しき煙越しに、部屋の中を頼りなく照らしている。
「きらびやかな女って感じじゃねえが、俺は悪くねえと思うぜ。むしろ、いい売り方ができそうだ」
喉に痰が絡んだような、ガラガラした男の声が告げた。
「喜んでいただけて良かったです。私は尻軽女ってのは好みじゃありませんでしてね。こういう奥ゆかしい女のほうが、案外ウケがいいんじゃないかと思ってるんですよ」
なにやら不穏な会話だった。声の主の一方、丁寧口調なのはおそらくワタナベだ。もう一方の荒々しい口調の男は、ワタナベがへりくだって話をしていることから、おそらくワタナベの上司にあたるのだろう。
「ちょいと、ためしに遊んでおくか」だみ声が言った。
「価値が下がるかもわかりませんよ。もしかするとこの子は――純潔かもしれませんので」
「なあに、限度は考える。しかし眠ったままってのは興が冷めるな。反応が楽しめん」
「そのうち意識を取り戻しますよ。まあ、しばらくは身体がまともに動かないでしょうがね」
聡恵はここにきて、自分の置かれた状況を理解した。
この男たちは悪人――それも極悪人だ。
一瞬にして、全身の血の気が引いていく。助けを呼びたくても、身体は自分のものではないように言うことを聞かない。それに、ここは敵の牙城だ。助けを求めたところで何も期待できそうになかった。
「お、目が開いてるぜ。起きてんのか?」
突如、聡恵の視界に、いかつい、脂ぎった顔のスキンヘッドの男が現れた。それはもう、悪い人を思い浮かべてみてください、というお題を与えられたら大半の人が思い描くような風采だった。
「へえ、もうですか。意外と効き目が薄いですね」
その隣に、もう一人の影が入ってきた。それは見まがうことなく、ワタナベだった。自分を見下ろすその顔は、それまでの印象とはかけ離れた、狡猾で冷酷な表情に見えた。
「来てくれてありがとよ、嬢ちゃん。でも、もうちょっと世間の怖さってのを知らねえといけねえな」
スキンヘッドの男は聡恵に顔を近づけ、黄ばんだ歯を見せて気持ち悪い笑みを浮かべた。何とも言えない不快な口臭が、聡恵の鼻をつんざいた。
「撮影、しときますか?」ワタナベが聞いた。
「そうだなあ……売り物になるかわからんが、撮っておくか。俺の顔にはボカシ入れろよ」
「わかりました。じゃ、カメラ持ってきます」
言って、ワタナベは聡恵の傍を離れていった。
「いいか、ちょいと手ほどきをしてやるからな」
いやらしく言って、スキンヘッドは聡恵の太ももを撫でまわし始めた。全身に鳥肌が立つ。大声をあげたいのに、全く声が出せない。
やがて、魔の手は聡恵の上半身まで迫ってきた。
聡恵は心の中で叫んだ。どうして自分ばかりこんな目にばかり合わなきゃならないんだろう……何も悪いことなんてしてないはずなのに!
すると突如、ドンドン、という騒々しい音が室内に鳴り響いた。
「なんだ?」
スキンヘッドの男は聡恵の胸をさする手を止め、音のした方を振り返って確認しているようだった。
再度、ドンドンと音が鳴る。どうやら、ドアを叩く音らしい。
「鍵なんかかけてねえぞ! いちいちノックするなんて、どういうつもりだ?」
声を荒げて、スキンヘッドは聡恵から離れた。そして数歩の足音がしたのち、ガチャリと扉が開く音がした。
「誰だ! てめえは?」
スキンヘッドのがなり声が響き渡った。
「いやあすみません。最近、下の階に入った者なんですけどね、ちょっと挨拶に伺ったんですよ」
それは、オモテの顔のワタナベとはまた違う感じの、物腰柔らかい口調の男性の声だった。
「ああ? それにしたって、こんな中まで入ってくるたあ、ふざけた真似してくれるじゃねえか。おいワタナベ! 何して――」
そこでスキンヘッドの声が止まった。
「ああ、そこの人、いきなり襲ってきたもんだから、危ないんでちょっと眠ってもらいました」
「てめえ!」再度、スキンヘッドの怒声が響き渡った。
「いやいや、そんな危ないものしまってくださいよ」
音声だけの情報から察するに、スキンヘッドが何らかの武器を取り出したらしい。
「後悔するんだな、兄ちゃん――何者だか知らねえが、ここを見られちまったからには、始末しねえとならねえ」
「こんなとこで人殺しなんかしたら、ばっちり証拠が残っちゃいますよ?」
正体不明の男性の忠告に、スキンヘッドは高らかな笑い声をあげた。
「あのな、俺らの世界じゃ、人殺しなんか恐くねえんだよ!」
スキンヘッド怒号がとどろいた。
一瞬、静寂が流れる。
突如現れた謎の男の人はどうなってしまったのだろうか。聡恵は精一杯耳をすませた。
やがて、カラン、という甲高い音が耳に入ってきた。
そして、聡恵の方に向かって足音が近づいてきた。
いったい状況はどうなっているのだろう。心臓はさっきからずっと、破裂しそうなくらいに強い鼓動を続けている。こうしているだけで息絶えてしまうのではないかと思うほどだ。見えないというのは怖い。迫りくるのは生か死か。その判別は、視覚によってしか確認できない。しかし、それを見るのも、怖い。
すぐそばで足音が止まった。そして明かりを遮るようにして、人影が聡恵の顔を覗き込んだ。
果たしてそれは、無造作にのびた長髪を携えた、若い男性の顔だった。
精一杯の力を振り絞って、聡恵は声を発した。「た、たすけて……」
「こりゃ、かなりまずい感じだな……」
甲斐あって、男性に聡恵の意図が伝わったようだった。
「えーっと、警察は……イチ、イチ、ゼロ、だよな」
つぶやきながら、男性は折り畳み式のガラケーを操作した。
「あ、すいません、ちょっと事件が起こりまして、すぐ来てほしいんですけど……えーと、ナイフを持った男が暴れたりしまして。まあ、それはもう片付いたんですけど、弱ってる女の子がいまして――あれ? これはレスキューに言わなきゃいけないんだっけ? ――ああ、そちらで呼んでもらえるんですか。ありがとうございます――はいはい、ええと、場所はですね……」
まるで出前を注文するかのように、男性は通報を済ませていった。世間一般の人がこのような状況に居合わせたならば、気が動転し、興奮した口調になってしまいそうなものだが、そのような様子はまったくない。落ち着いている、というより超然としているという印象だった。
「いま、警察と救急車呼んだから。あと少しの辛抱だよ」
そう言って、男性は無邪気な笑顔を聡恵に向けてきた。
それは正義のヒーローのような勇ましい表情ではないが、不思議と安心することができるものだった。それで一気に緊張が解けたのか、聡恵は身体がふわふわと水の上に浮くような感覚になり、やがて意識を失った。
目をさすような光を感じて、聡恵は瞼をあけた。
茜色の陽の光が、左手の窓から差し込んでいる。ここは……おそらく病院のベッドだろう。周囲は白いカーテンで仕切られている。傍らには、地元から駆け付けてきたらしい母親が、険しい顔つきで控えていた。
母は聡恵が目覚めたのがわかると、「もう馬鹿! なんだって怪しいバイトなんかに手を出したの!」と、開口一番に叱責してきた。
聡恵の母は几帳面な性格で、聡恵が間違ったことをするといつも容赦なかった。そんなだから、聡恵が実家暮らしの時は、母のしつこい小言に不満を募らせることも多かった。だが今回ばかりはかなりの心配をかけたし、母が怒るのも無理はないと思った。
「――ごめんなさい」聡恵は平謝りした。声はもうしっかり出るようになっていた。
世の中の学生の大半は、きっと今頃楽しくやっているだろう。だというのに、自分は初の合コンで大恥をかいて、初のバイトで悪人達にいいように騙されて、危うく辱められかけた。本当に、散々なゴールデンウィークだ。滔々と続く母のお叱りを聞きながら、聡恵は悲哀の感情に浸っていた。
「でも、大したことがなくて本当に良かった……」母はひとしきり説教を済ませると、ようやく安堵の言葉を吐き出した。「警察の人から聞いたけど、偶然居合わせた男の人が助けてくれたんだってね。その人がいなかったと思うと身震いするよ。ほんと、感謝しなきゃね」
そう、不幸中にも幸いはあった。
迫りくる危機に、突如現れて自分を救ってくれた男性。命の恩人と言っても過言ではない。会って、お礼を言わなくては。
そう思いつつ、聡恵は母が手渡してくれたペットボトルのキャップを回した。握力は十分、キャップは難なく空いた。