第六話 真相
「――ついてないな」菱田は天井を見つめてぽつりと言った。「あんたみたいなバケモンが、優佳の近くにいるなんてさ……」
「じゃあ、やっぱりあなたが優佳を?」ユーコーが聞いた。
「ああ。全部あんたの予想通りさ。たいした想像力だよ、ホント」
「どうして……」聡恵はたまらず聞いた。「優佳さんとうまくいってなかったんですか?」
「うまくいってたさ、前は」菱田は吐き捨てるように言った。「付き合い始めたのだって、優佳のほうから告白してきたんだよ。でもしばらくしたら急にそっけなくなって、誘いも断られるようになった。きっと、僕がカネを貢がなかったからだろうな。結局、優佳も俺が金持ちだってことを知って、それ目当てで近づいてきただけだったんだ。カネがもらえないなら、つまらない男とはサヨナラってことさ」
「優佳さんはそんな人じゃない」聡恵は憤った。「ちゃんと理由を聞いたんですか?」
「聞いたよ。でも、ダンスで忙しいからとか言うだけだった。そんなの嘘に決まってるだろ」
「嘘じゃないです。優佳さん、ショーのための練習で本当に忙しかったんですよ」
「そうだとしても、僕よりもダンスの方が大事ってことだろ。所詮、僕自身の価値はその程度なんだ。カネを出してたら、ダンスよりも僕を優先してただろうさ」
「お金お金って……そんな考えだからいけないんですよ。どうしてそんなに自分に魅力がないと思うんですか?」
「実体験なんだから仕方ないだろ」菱田は苦り切った顔で答えた。「優佳の前に付き合った女もみんな、いい感じの仲になったと思ったら離れていった……理由は面と向かっては言わないんだよ。でも陰では、金持ちだから付き合ったけど、一緒にいてもつまらなくて我慢できなかった、とか言われてるんだ。向こうは気づいてないと思ってるんだろうけど、ちゃんとわかってるんだよ……」
ひどい話だった。菱田にそんな話をさせてしまい、聡恵はなんだか申し訳ない気持ちになった。
菱田はぼうっとした表情でつづけた。「でもさ、いちおう努力はしたんだ。優佳との付き合いは、内面だけで勝負してみようって。でも、やっぱり離れていった。結局、僕にはカネしかないんだって痛感したよ。だから、決めたんだ。カネの力でも何でも使って、僕から離れられないように徹底的に優佳を支配してやるってね」
いま語られたことが、菱田の心に闇が芽生えた原因に違いなかった。カネでしか評価されない自分を悲観し、自暴自棄になってしまったのだ。
菱田は陶酔したように語った。「はじめはナイフで脅してやったんだ。僕から離れられると思うなよ、ってね。そしたら優佳は僕から行方をくらました。パシェにあんな書き込みをしてね。探しだそうとしたけど、誰かに聞いて回ると足がつきそうでできなかったし、結局見つけられなかった。でも、ダンスショーの日時と場所だけは聞いてたから、行ってみたんだ」
ユーコーが言った。「それで、ショーに出ている優佳を見つけた……と」
「そう。だから俺が来たのがわかったとき、優佳がおびえてたのも当然ってわけ。まあ、優しくしてやったら油断したみたいだけど。あんたらが都合よく帰ったあとで連れ去ろうとしたんだけど、あれだけ混雑してたからね。うまく逃げられたよ。その後はご存知の通りさ」
真相を語り終えると、菱田は声をあげて笑った。無理やり絞り出されたような、虚しい笑い声が響きわたった。
これで、優佳が抱えていた心の問題の根源が明らかになった。それが取り除かれ、しかるべきサポートを受ければ、優佳はいずれ立ち直ることができるだろう。
しかし、聡恵はこれでめでたしめでたしとは到底思えなかった。確かに、菱田は法に触れるような悪事を働き、優佳にひどいことをした。だがそれは、菱田の悲哀にみちた過去が、本来は単純な事象を複雑にし、誤解をうんだことによってもたらされたものだ。それを考えれば、菱田を完全に責める気持ちにはなれなかった。
できることなら、菱田にも立ち直ってほしい。そのためには彼の心の闇も祓わなくてはならない。きっと、ユーコーも同じ気持ちでいるはずだ。
「菱田さん」ユーコーは真顔で告げた。「これだけは思い直してほしい。前の恋人たちは、あなたをお金でしか評価してくれなかったかもしれない。残念ですが、そういう心の狭い人もいます。でも、優佳は違うと言い切れます」
菱田は仏頂面でユーコーの顔を見つめた。「ちゃんと根拠があるんだろうな?」
ユーコーはうなずいた。「まず、優佳が菱田さんへの態度を変えたことについてですけど、優佳はダンスに対して異常なくらい真剣でした。ダンスが大好きで、やると決めたことはとことんやる性格ってのもありますが、初めてのショーで経験した失敗がバネになっていたんでしょう。リベンジを誓ったショーに全てをかけていました。だからダンスの前では、恋人ですら二の次になってもおかしくないんです」
「まあ正直、あのショーを見てたらそんな気もしたけど……」菱田は顔をそむけた。「それは優佳が僕のカネ目当てじゃなかったって証明にはならないな」
「いや」ユーコーは首を横に振った。「優佳は間違いなくあなたのことが好きだったんですよ。もちろん、内面をね」
「あんた……ほんとに折れないね」菱田はあきれたように言った。「今度はどんな名推理を聞かせてくれるわけ?」
「玲から聞きました。失敗に終わったショーのあと、菱田さんが励ましてくれたおかげで、ずいぶん立ち直れたって。玲はそのとき、菱田さんのことをすごく優しくていい人だと思ったって言ってました。優佳だってそう思っているはずです」
「どうかな……優しいだけで刺激が足りない、なんて言われたこともあるからね」
「じゃあ別の理由を話しましょう。あなたは優佳をナイフで脅したりしたわけですけど、そんなことをされたら普通、すぐに警察に通報しますよ。でも、あなたは捕まることはなかった。ということは、優佳は通報しなかったってことです」
「怪我をしたわけでもないから、相手にされなかっただけさ。警察って、なかなか動いてくれないもんだからね。ストーカー対策だってまだ後手後手だって聞くし」
「でも、警察じゃない俺たちが悩みを聞き出そうとしても、話すのをためらってたんですよ。今日やるはずだった打ち上げで、ようやく話してくれることになってたんです。俺たちに話せば警察にも話すことになるだろうから、なかなか踏ん切りがつかなかったんでしょう。優佳は、できることならあなたを警察に突き出すなんてことはしたくなかったんですよ。なぜだかわかりますか?」
ユーコーの問いに、菱田はただじっとユーコーの顔を見据えるだけだった。それはまるで、答えを催促するかのようだった。
ユーコーはつづけた。「ダンスショーにあなたが現れた時、怯えていた優佳が笑顔を見せたのは、油断したからじゃない。端から好きでもなく、ましてやナイフで脅されたような相手に優しくされたって、心を開いたりしませんよ。優佳は、菱田さんが元の優しい人に戻ったと思って安心し、そんなあなたがダンスを見に来てくれたことを心から喜んだんです。あのとき優佳が見せた笑顔には、そんな意味が込められていたんですよ」
ユーコーは熱弁をふるい、菱田はそれを静かに聞いていた。
やがて、その目が充血してきた。そして大粒の涙があふれ、頬をつたった。
「やめてくれ……」菱田はまぶたを閉じ、消え入るような声でつぶやいた。「そんな話、聞きたくない……」
「あなたをお金だけで見ている人ばかりじゃないんです。これからは、それを覚えておいてください」
ユーコーは優しく告げた。そして気持ちを切り替えるように、きりっとした顔つきで質問した。「優佳、ここにいますね?」
菱田は目をつぶったまま、鼻声で答えた。「上のクローゼット……鍵はジャケットの右ポケットにある」
ユーコーは菱田が告げた箇所から鍵を取り出すと、聡恵に差し出してきた。「サトちゃん、頼んだ」
聡恵はうなずいて、それを受け取った。
聡恵は急いでリビングを出ると、左手の階段を駆け上がった。
このマンションのなかで、この部屋だけ二階層になっていた。永福町駅の不動産屋で見せてもらった間取り図によると、上階の洋室にウォークインクローゼットがついていたはずだ。優佳はその中だろう。
階段をのぼりきり、短い廊下の先にあるドアを開け放って洋室に入る。電気はつけっぱなしになっていた。正面の大きな窓ガラスの向こうに、白いベンチが置かれた屋上テラスが見えている。
聡恵は入ってすぐ左手にある大きなクローゼット扉の前に立った。だが、見たところ扉に鍵穴はなく、南京錠のたぐいも見当たらなかった。どこで鍵を使うのだろう。
とりあえず、聡恵は扉の取っ手に手をかけて引いてみた。すると、扉は簡単にスライドして開いた。
クローゼットの中は、想像を絶する光景が広がっていた。
本来ハンガーをかけるべきステンレスのバーに優佳が手錠でつながれ、まるで十字架に磔にされたキリストのような格好になっていた。優佳はぐったりと頭を垂れており、聡恵が扉を開けたことにも気づいていないようだった。
「優佳さん!」
聡恵は優佳のもとに駆け寄り、すぐさま鍵を使って手錠を外した。そして、優佳の頭を膝に乗せて横たわらせた。
優佳の顔は普段とはまったく違い、やつれて青白くなっている。頬を触ると、心なしか冷たく感じられた。
「優佳さん、わかりますか?」
呼びかけても反応がない。一見、呼吸をしているかどうかもよくわからなかった。最悪の事態が頭をよぎる。
お願いだから目を開けて――聡恵は優佳の頬を軽くはたいた。
その思いが天に通じたらしい。優佳が薄目を開けた。
「聡恵……?」優佳はうつろな表情で、か弱い声を発した。
「優佳さん! よかった――」
聡恵は泣き出しそうだったが、何とかこらえた。
すると、優佳が何か言いたげに口を開けた。聡恵は耳を近づけた。
「助けて……」
その短い訴えを聞いて、聡恵はかつて自分が悪人の術中にはまり、危機にさらされたときのことを思いだした。
あのとき、恐怖と不安で張り裂けそうになっていた心を救ってくれたのは、ユーコーのあどけない笑顔だった。ユーコーの笑顔には人を安心させる不思議な魅力がある。さっきもそうだ。ボディガードの下衆な視線に慄然とする聡恵の心を、いつもと変わらぬユーコーの温かい表情が宥めてくれた。
優佳はいま、心の平穏を求めている。だから、自分もやってみよう――今までユーコーがしてくれたように。
「もう大丈夫ですよ。頑張りましたね」
聡恵は心を込めた笑顔で告げ、優佳の頭を優しくなでた。
すると、優佳の表情が和らいだ――ように見えた。そして、優佳はそのままゆっくりと瞼を閉じた。
その後も、聡恵は優佳の頭を撫で続けた。母親が、眠る子供にそうするように。
遠くからサイレンの音が近づいてくる。ユーコーが通報したのだろう。
長い一日もようやく終わりか――そう思ったが、考えてみると警察の取り調べ等々、まだいろいろとやることがありそうだった。
自分が眠れるのはいつになるだろう。安らかそうに眠る優佳の顔を眺めながら、聡恵はふとそんなことを思ったのだった。




