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ココロ・プロブレム  作者: 谷木 大來
第四章
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第五話 対決

 やがて玄関の方で物音がして、足音が近づいてきた。

 そして、リビングの扉が開いた。

 姿を現したのは、色黒で背丈が高く、体つきの良い外国人の男だった。短い髪を銀色に染め、腕や首元に至るまでびっしりとタトゥーが入れられている。外見で人を判断してはいけないとはいえ、良いイメージを抱くにはあまりに無理があった。

 ユーコーはそれを見るや、立ち上がって聡恵の腕を掴んできた。促されるようにして、聡恵も立ち上がった。

「こちらは、どちら様ですかね?」

 ユーコーは聡恵を後ろにかばうようにして、部屋の角のほうに後ずさりながら言った。

「ボディーガードだよ」菱田は満面の笑みで答えた。

「へえ。そりゃ優秀そうだ」

「ああ。そいつ、ボクサー志望だったからね。ま、夢破れてやさぐれてたんだけど。聞けば、ボクサーになろうとしたのはファイトマネー目当てだったっていうからさ。つまりカネさえ貰えればなんでもいいってことだよ。それで、僕が面倒を見てやる代わりに、都合の悪いことをやってもらうことにしたワケ。警察なんかよりずっと使えるね」

 得意げに語る菱田。その顔はもはや悪の組織の親玉にしか見えなかった。このボディーガードの男を使って、優佳に何かしたのかもしれない。

「で、ボディーガードさんを呼んでどうするつもりですか?」ユーコーが緊張感のない声で聞いた。

「はあ? 決まってるだろ。あんたを排除してもらうんだよ」白けた顔で言って、菱田はボディーガードと目を合わせると、こちらに向けて顎をしゃくった。「頼むよ。死なない程度にね」

「オンナ、どうします?」

 カタコトの日本語で言って、ボディーガードは聡恵を凝視してきた。聡恵は思わずユーコーの背中にひっついた。

「ああ――男が片付いたら好きにしていい」

 菱田が答えると、ボディーガードは歯を見せてにやついた。

 聡恵は一気に鳥肌がたった。身体が勝手に震えだす。息苦しくなり、吐き気もしてきた。

 すると、ふいに手に温かい感触を感じた。見ると、ユーコーが手を握ってきていた。

「サトちゃん、約束は覚えてる?」ユーコーはいつもと変わらぬ、のんびりした口調で聞いてきた。

 約束――それは、ここに来る前に交わしたものだった。

 ユーコーははじめ、聡恵がついてくることを許可せず、事務所に戻るように言ってきた。思えば、いま起こっているような危険があることを予期してのことだったのかもしれない。だが、聡恵はここまで来て引き下がることなんてできなかった。優佳の無事を確認するまで絶対についていくと食い下がった結果、ユーコーの指示を絶対に守るという条件つきで許されることになった。

 聡恵は覚えていると答えようとしたが、喉が引っ込んでしまい、うまく声が出せなかった。

 すると、ユーコーは首を回してこちらに顔を向けてきた。

「ここでじっとしてて。絶対、大丈夫だから」

 不思議だった。どうしようもなく怖くて不安だったのに、その優しい笑顔を見るとなぜかほっと安心できた。

 聡恵はうなずいてみせた。それを確認すると、ユーコーは握った手を放して、ボディーガードのほうへじりじりと歩を進めた。

 ボディーガードはファイティングポーズをとり、ユーコーと対峙するかたちになった。中肉中背のユーコーに対し、向こうは頭一つぐらい背が高いので、常に見下ろされるかたちになる。体格だけ見れば、勝ち目はなさそうに思えた。

「お手柔らかに」

 のほほんと言って、ユーコーはお辞儀した。

 ボディーガードはそれが気に入らなかったらしい。分厚い唇をへの字に曲げた。

「なめんな!」

 その叫び声が、ゴングの代わりだった。ボディーガードがユーコーに向かって突進していった。

 聡恵は目を覆いたくなる気持ちを抑えた。ユーコーは絶対大丈夫だって言ってくれた。ほかの誰もが負けを予想したとしても、自分だけはユーコーを信じて見届けよう。

 ボディーガードは素早いパンチを何度も繰り出した。それだけ見ると一方的な展開のように思えるが、ユーコーはダンスを踊っているときのように華麗にそれをかわしていた。ボディーガードが掴みかかろうとしても、ユーコーはそれをあざ笑うかのようにひらりと避けるのだった。

 目まぐるしく動きつづける二人。それは中学生の頃よく見たような、男子同士のケンカとは似ても似つかなかった。

 やがてラウンド終了というように、ボディガードはユーコーから距離をとった。

「ヤロウ……」ボディーガードは肩で息をしながらつぶやいた。

「なにしてる? いくら払ってると思ってるんだ。早く片付けろ!」

 菱田が檄を飛ばすと、ボディーガードはユーコーを睨みつけたまま、ポケットに手を突っ込んだ。そして何かを取り出すと、それを両手に装着しはじめた。

再び拳を構えたボディーガードの指には、連なった分厚いシルバーのナックルがはめられていた。あれで一撃でも食らったらひとたまりもないだろう。もはやなりふり構わず、本気を出してきたようだった。

「メリケンかよ……」ユーコーはあきれ顔で言った。「あんた十分強いんだし、そりゃ卑怯すぎるんじゃない?」

「うるせえ!」

 ボディーガードが怒鳴ってユーコーにとびかかった。第二ラウンドの始まりだった。

 構図は変わらなかった。攻撃に出るのはボディーガードばかりで、ユーコーはそれをいなし続けるだけだった。攻勢とは言えないが、見ていて爽快だった。このまま相手が疲れるのを待てば、十分勝機はありそうだ。

 聡恵がそう思った矢先、卒然、ペッという汚い音がした。ボディーガードがユーコーの顔めがけて唾を飛ばしたのだった。

 ユーコーはひるんで、両腕で顔を覆った。そこへ、ボディーガードのパンチが腹部にもろに入った。ユーコーは吹き飛ばされ、聡恵のいる壁際近くのチェストに背中から突っ込んだ。上に置かれていたロココ調の花瓶が倒れて床に落ち、耳障りな音をたてて割れた。

「いいぞ。調子が出てきたじゃないか」

 高価そうな花瓶が割れたことも気に留めず、菱田は愉快そうに言った。

 ボディーガードはいやらしい笑みを浮かべ、両手にはめたナックルをしきりにかち合わせながら、体勢を崩したまま起き上がれないユーコーのほうへ近寄っていく――。

 この場所でじっとしていること――それがユーコーとの約束だった。だが、目の前の状況を見て、言いつけ通りにしていることはできなかった。どうにかして、ユーコーを助けなくては。

 聡恵はとっさに、傍にあったステンレスのポールハンガーの柄を掴んだ。

 これで殴ればボディーガードを止められるかもしれない。だが同時に、相手に深刻な負傷を負わせることになるかもしれない――それでも、いまは躊躇している余裕はなかった。

 聡恵は思い切って、ユーコーの前で身をかがめたボディーガードを殴りつけようとポールハンガーを振り上げた。

しかし、自分の背丈ほどもあるそれは予想外に重かった。聡恵はよろめいた。それで、思わず手を放してしまった。

 ポールハンガーは床に落ち、騒々しい音が鳴り響いた。ボディーガードと菱田が、目を瞠った顔をこちらに向けた。

 絶体絶命――もはやユーコーを救うことはかなわない。聡恵は頭が真っ白になった。

 ボディーガードは眉をひそめたが、いまは聡恵にかまっている場合ではないと判断したのだろう。ユーコーのほうへ顔を戻した。

そのときだった。ユーコーが素早い動きで、足裏をボディーガードの顔面にクリーンヒットさせたのだ。

のけ反ったボディーガードの顔の側面に、ユーコーは飛びあがるようにして電光石火の回し蹴りを見舞った。衝撃で、ボディーガードはもんどりを打って床に転がった。

 やがて、むくりと上体を起こしたボディーガードの鼻からは、滝のように血が噴き出していた。ボディーガードは狼狽のしぐさを見せたのち、両手で鼻をおさえた。そしてよろよろと立ち上がると、足をもつれさせながら出口に向かって駆け出した。

「おい、待て!」

 菱田がソファから腰をうかせて叫んだ。しかしボディーガードは振り返ることなく、ドアの向こうに消えていった。

 一発逆転とはまさにこのことだ。ひやひやさせられたが、結果的にユーコーの言ったとおり、大丈夫だった。

ユーコーが聡恵の傍に立ってささやいてきた。「ありがとう。助かったよ」

「まあ、じつは失敗だったんだけどね……」

 苦笑しつつ聡恵が言うと、ユーコーは微笑をかえしてきた。

 菱田はボディーガードが逃げていったほうを向いたまましばらく固まっていたが、やがてこちらに振り返った。

 その顔を見て、聡恵は息をのんだ。血走った目に、ぐっと食いしばられた歯。憎悪が全てつめこまれたような形相だった。

「もういい……自分でやってやる」

 唸るように言って、菱田はジャケットの内ポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。

 カチャリと音が鳴る。見ると、菱田の手にはナイフが握られていた。

 聡恵は自分の血の気が引いていくのがわかった。菱田は完全に理性を失っている。もはや制御のきかない猛獣だ。何をしてもおかしくない。

「もうやめましょう、菱田さん」ユーコーは諭すように告げた。「人を傷つけたら、絶対後悔しますよ」

「馬鹿にしやがって……」

 説得もむなしく、菱田は刃を向けてきた。そして、獲物を狙うようにユーコーをねめつける。

「お前さえ消えれば、何でもいいんだよ!」

 怒声をあげて、菱田はユーコーに向かって突っ込んできた。

 だが、ボクサー並みのパンチを避け続けていたユーコーだ。きっとたやすくかわすだろう。聡恵はそう思った。

 しかしユーコーは腰を落として、その場にどっしり構えたままだった。

 そしてなんと、そのまま菱田のタックルを受け止めたのだった。

 まさかの出来事に、聡恵は凍り付いた。もはや悲鳴も出なかった。

二人は身体をぶつけ合ったまま動かない。まるで時が止まったかのようだった。

「はは……ざまあみろ……」

 やがて、菱田が力なくつぶやいた。その表情は、見るからにひきつっていた。

 すると、ぼそりと声がした。「――ほら、やっぱり後悔した」

「え?」菱田は目を見開いた。

 聡恵も驚かずにはいられなかった。声は確かにユーコーのものだった。

 そしていきなり、ユーコーが菱田の腕と胸ぐらをがっしりと掴んだ。次の瞬間、菱田の身体がぐるりと宙を舞い、背中から床にたたきつけられた。

 見事な背負い投げだった。

 そのまま、ユーコーは仰向けになった菱田に馬乗りになった。

 押さえつけられ、身動きできない菱田が苦しそうにうめいた。「なんで……」

 ユーコーの衣服にも、床に転がっているナイフにも、血液はついていなかった。聡恵にもどういうことだかわからないが、ユーコーは刺されなかったということらしい。

 すると、ユーコーは着ているトレーニングウェアの裾を摘み、広げてみせた。見ると、前身ごろの左端が裂けてしまっていた。

 どうやら、ユーコーは菱田の攻撃を受ける直前にトレーニングウェアの裾を広げ、身体を覆っていないわずかな部分にナイフの矛先を誘導するという神業をやってのけた、ということらしかった。

「これ、お気に入りなんだけどなあ」ユーコーは緊張感を欠いた口調で嘆いた。

 菱田はあんぐりと口をあけて、裂けたトレーニングウェアを見つめていたが、やがて壊れたように笑い出した。

 しきりに笑ったのち、菱田はぴたっと動かなくなった。もはや抵抗の意思はないようだった。

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