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ココロ・プロブレム  作者: 谷木 大來
第四章
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第四話 豹変

 一人暮らしには広すぎるリビング。真新しい内装は、くつろぎをあたえてくれそうな明るい色でまとめられていた。壁一面に張られた窓ガラスの向こうには、光り輝く都心の夜景が見渡せる。こういうところに住んでいるということが、人生の勝ち組であるかどうかの物差しの一つになるのだろう。

「ええ、火事は起こってないんです。友人が手違いで押してしまったみたいで――ほかの住人の方にもそのようにご連絡いただけますか?」

 スマホを耳に当てて言いながら、菱田は何度も頭を下げていた。マンションの警備会社に電話をかけているらしい。

「ありがとうございます。お手数をおかけします。本当に申し訳ありませんでした」

 電話を終えると、菱田はこちらに顔を向けた。

「――とりあえず、お掛けください」

 言って、菱田は部屋の中央にあるコの字型のソファを指した。口元は努めて笑おうとしているように見えたが、目は据わっていた。

 聡恵とユーコーは、菱田と対面するかたちでソファに座った。

 菱田が口を開いた。「呼び出しに応じなかったのは申し訳なかったです。ちょっとソファで寝てしまっていたので……でも、さすがにこれはやりすぎですよ」

「どうもすみません」ユーコーは平謝りした。

「でも、どうしてこのマンションがわかったんです? 教えてなかったですよね?」

「それはまあ、『友人』ですから」

 言って、ユーコーは聡恵のスマホの画面を菱田の眼前に出した。

「パシェですか? でも僕は、住所は公開してないはずですけど」

 そう言われると、ユーコーはスマホを操作して一枚の画像を表示させ、再び菱田に見せた。

 その画像は、『友人』にのみ公開されているアルバムの中に保存されていたものだった。都心のビル群をバックに、楽しそうに笑う菱田と友人たちの顔がアップでうつっている。『マンション屋上テラスで誕生パーティー』いうタイトルがつけられていた。

 ユーコーは言った。「ちょっと見切れてるけど、東京タワーと森ビルがうつってる。これで大体の位置はわかりました。あとは不動産屋さんに聞いて、六本木付近の屋上テラスつきの物件を探してもらったら、ここがヒットしたってわけです」

 菱田は明らかに不快のいろを浮かべた。「いくら『友人』でも、プライバシーを暴こうとするのは感心しませんね。僕の住所を知りたいなら、ちゃんと連絡してくれればよかったのに」

 菱田の非難に、ユーコーは微笑を浮かべて軽く頭をさげただけだった。

 菱田はいらだった様子でつづけた。「どうしてそこまでして僕に会いに? そもそも、今日は打ち上げの日じゃなかったですか?」

「へえ、ご存じだったんですか」

「ええ。優佳から聞きましたから」

「優佳と連絡したんですか? いつ?」ユーコーは前のめりになって聞いた。

 菱田は迷惑そうに眉根を寄せた。「つい最近ですけど、いつだったかまでは……どうかしたんですか?」

「今日、打ち上げの直前に優佳からメールがあったんです。急用ができたから行けないって」

「そうだったんですか……それは残念ですね」菱田は同情するように言った。

「菱田さん、優佳の急用ってのがなんなのか、心当たりありませんか?」

「さあ……」菱田は顎をさすった。「ご家族に不幸があったとか?」

 ユーコーはかぶりを振った。「優佳のお母さんに連絡してみましたが、それはないです」

「そうですか……なら、僕にはちょっと思い当たらないですね」

 言って、菱田は愛想笑いを浮かべてきた。聡恵はそれが無性に気に障った。

「心配にならないんですか?」たまらず、聡恵はとげのある口調で聞いた。

 菱田は驚きのいろを見せた。「心配もなにも……ちゃんと連絡があったんでしょ? 前に音信不通になったときとは違うわけだし――」

「私も最初はそう思おうとしました。でも玲さんが言うには、優佳さんだったら、ただ急用っていうだけじゃなくて、ちゃんと何なのか説明するはずだって。だから、やっぱり何かあったんじゃないかと思うんです」

「それはどうかな」菱田は苦笑交じりに言った。「いくら親しい相手でも、知られたくないことはあると思うよ」

「とにかく、俺たちはそう考えんです」ユーコーが言った。「それで、無事を確かめるために、優佳のアパートに行きました。呼び鈴を鳴らしても反応がなかったんで、大家さんに無理言って鍵をあけてもらったんです」

「そんなことしたんですか? それ、不法侵入ですよ。その大家さんだって罪に――」

「とりあえず聞いてください」

 ユーコーにさえぎられ、菱田は不服そうな顔で口をつぐんだ。

「優佳は不在でした。部屋の状況からして、優佳は部屋からいなくなる前、お風呂に入ろうとしていたのがわかりました。それと、玄関近くに口を縛ったゴミ袋が置いてありました。可燃ごみの日、この前の木曜の朝までに出そうとしていたものだと思います」

「――それがなんだっていうんです?」菱田はじれったそうに聞いてきた。

「優佳がいなくなった時期がわかるんです。俺たちが前にアパートを訪ねたのは水曜の夜でした。つまり、俺たちが帰ったあとすぐに予定外の何かがあって、お風呂にも入らず、ゴミ出しもせずに外出したまま、戻っていないことになるんです」

「それは、急用ってのができて慌ててたんでしょう。まあ、今日になって風山さんたちに連絡してきたのは、単に忘れてただけで、結果的に打ち上げをドタキャンするかたちになってしまっただけじゃないですか?」

 言い分としては不自然ではない。ただ、いらだった様子の菱田はどこか意固地になって反論しているように見受けられた。

「俺たちには、そう思えませんでした」

 ユーコーは菱田の目を冷静に見据えて、ゆっくりと告げた。

「優佳はお風呂に入るために着替えを準備して、湯船にお湯を入れはじめた。でも、お湯が溜まるまでには時間がかかるから、その間にゴミを出そうと思った。そして玄関のドアを開けたら……そこに思いもよらぬ人がいたんです」

 ここまでは小島の推理と同じだ。異なるのはこの先。果たしてそれが正しいか――それを明らかにするためにここまで来たのだ。

 ユーコーはつづけた。「見知らぬ変質者に出くわしたのなら、優佳はきっと大声を出すでしょう。夜とはいえ人の耳のある住宅街ですから、そうなったら犯人は逃げ出すはず。不意打ちによる誘拐も考えられますが、お湯が止められていて、電気も消してあって、きちんと鍵もかけてあったことから違うとわかります。つまり、玄関先にいたのは知り合いで、その人物が優佳に急な外出を余儀なくさせたってことです」

 菱田は、ユーコーと目を合わせたまましばらく黙りこくっていた。

 やがて、菱田が冷めた顔で言った。「――それが僕だと言いたいわけですか」

 ユーコーはうなずいた。「違いますか?」

 すると、菱田はばかばかしいと言わんばかりにフンと鼻をならした。

「都合のいい話ですね。まったく違いますよ。それに言ったでしょう? 僕はいまだに優佳の下宿先を知らないんです。あなたたちは知ってるのに、彼氏が知らないなんて皮肉ですけどね」

「いや、あなたは知っているはずです」ユーコーは譲らなかった。

「何を根拠にそんなことを……」菱田はあきれ顔でつぶやいた。「優佳は住所に関しては本当にガードがかたかったんです。僕も一度、どこに住んでるのか聞いたことはあるんですよ。でも、どうしても教えられないって。だからしつこく聞いたりはしませんでした。まあ僕だって、ここに住んでいることをあまり知られたくはないから……」

「そうなんですか?」聡恵は変に思って聞いた。「こんな立派なところに住んでるのに」

 菱田は口元を曲げた。「先入観をもたれたら嫌だからだよ。学生のくせにこんなところに住んでるなんて、金持ちのボンボンだってバレバレだからね」

 どうやら、菱田は金持ちであることが後ろめたいらしかった。庶民の聡恵にはそれが理解できなかった。テレビでは有名人の邸宅の豪華さを披露する番組があったりするし、自慢したいステータスなのではないのだろうか。

 聡恵は疑問をぶつけてみた。「お金持ちだってことがバレたら嫌なんですか?」

「金持ちだっていう先入観をもたれるのが嫌なんだ。僕という人じゃなくて、金目当てで近づいてくる奴も多いからね……だから、本当に親しい人にしか住所は教えてない」

 言って、菱田はやれやれというように息を吐いた。

「だからなんとなく、優佳の気持ちもわかるんだ。普段はおしゃれでクールな優佳がぼろアパートに住んでるなんて知れたら、きっと陰で心無いことを言われるよ。プライドの高い優佳には耐えがたいと思う」

 なるほど……そういうものか。苦労は誰にでもあるんだな――。

 聡恵が納得しかけたそのとき、ユーコーが言い放った。「やっぱり、優佳のアパートを見たことがあるんですね?」

菱田は面食らった顔をした。「なんでそうなるんです?」

「いま、ぼろアパートって言ったので」

「それは、優佳が自分でそう言ってたからですよ」言って、菱田は憮然とした面持ちになった。「あなたはどうも僕を悪者にしたいみたいですね。なにか気に障ることでもしましたか?」

「いや、そう考えるだけの根拠があるんですよ」

「へえ、なんです?」菱田は見下したように聞いてきた。

 菱田は余裕しゃくしゃくとしているが、憶することはない。事前にユーコーの考えを聞かされたとき、ちゃんと理路整然としたストーリーになっていると、聡恵は感じることができた。

 ユーコーは話を始めた。「昨日、事務所ビル一階のお店の人から聞いたんです。俺が優佳のお母さんに連絡しようとしていた日、帽子をかぶった学生風の若い男が、ビルの様子をうかがうように何度も通りかかったって。優佳の実家に電話してみるってことは、その前の日に菱田さんにも伝えてましたよね。事務所の場所も、連絡先を交換するときに教えてた。だから話を聞いてすぐ菱田さんだと思いました。そのときは、なんでそんなこそこそした真似をするのか不思議だったんですけど……事務所近くに待機して、優佳の下宿先に向かう俺たちのあとをつけるつもりだったんですね」

 まるで事実だと確信したように、ユーコーは毅然とした態度で語った。それを聞いていた菱田は、だんだんまばたきの回数が多くなっていった。それが不本意からくる怒りなのか、図星を指された焦りなのかはわからないが、動揺しているのは明らかだった。

「そんな目撃証言……曖昧じゃないですか。僕だという証拠にはならない」

 菱田は上ずった声で、手ぶりを交えて大げさに言ってきた。

 ユーコーは落ち着きはらって言った。「ビル向かいのコンビニには防犯カメラがあるはずです。それを見せてもらえれば菱田さんがあの場所にいたってことを証明できると思います」

「そんなの、警察でもない限り見せてもらえないでしょう」

「それは、まあ……」ユーコーは言葉を濁した。

「じゃあ、話になりませんね」余裕が戻ったような顔で菱田は言った。「仮に僕がその目撃証言どおり、その場所にいて、防犯カメラにもうつっていたとしましょう。確かに花菊さんから、優佳の下宿先の住所がわかったからこれから向かうつもりだ、っていうメッセージをもらってましたから、あとをつけようと思えばできたでしょう。けど、僕があとをつけたという証拠は何もないはずですよね。それとも、僕がつけてることに気づいていたとでもいうんですか?」

「いえ……でも、ほかにも確かめる方法はあります。優佳がアパートを離れたと思われる時間には、もう終電はなかった。だから、あなたは優佳と一緒にタクシーに乗ったはず。なら、記録を調べれば――」

 ユーコーが言い終わる前に、菱田が言葉をかぶせてきた。「それも同じことでしょう。タクシーの乗車記録なんて一個人には開示できない。結局、あなたの言ってることは全部、妄想なんですよ。何一つ証拠に基づいていない。それなのに、誰よりも優佳を想っている僕を悪者扱いするなんて、まったくひどい話です。正義の探偵気取りかもしれませんが、あなたには無理ですよ。証拠を武器にできない探偵なんて、あまりにお粗末ですからね」

 まくしたてるように言って、菱田は勝ち誇ったような冷笑を向けてきた。

 確かに、菱田が優佳になにかしたという物証を得ているわけではない。こちらの推理を聞いているうちにボロを出してくれればよかったのだが、菱田は的確に痛いところをついてきた。これがもし裁判における弁論だったとしたら、たぶんこちらの主張は認められないのだろう。

 けれど、聡恵もユーコーと同じく、菱田こそが優佳の心の問題を引き起こしている張本人であると考えていた。その一番の根拠は、まだ菱田に突きつけていない推理のなかにあった。

 最初に優佳が音信不通になったのはダンスショーのあと――菱田に会ってからだった。菱田がショーの会場に来ていると気づいた優佳は、妙に驚愕しきった様子だった。菱田にショーの出来を褒められ、頭を撫でられたところで、ようやく顔をほころばせたのを覚えている。今になって思えば、あのときの優佳の挙動は不自然だった。ショーを見に来られないはずだった恋人が来てくれたとわかったら、自然と笑顔になるものだろう。つまり、優佳は菱田が来るのを望んでいなかったのではないか。だから、ダンスショーのことも伝えていなかった。それほどまでに関係がこじれていたのではないだろうか。

 あのときの菱田は極めて紳士的に振る舞っていた。だから、来るはずのない菱田が現れたことに困惑していた優佳も、しだいに安心して心を開いた。しかし、菱田は他人がいる手前の演技をしたに過ぎず、聡恵たちがいなくなったあとで態度を豹変させた。そうして、大成功のダンスショーによって高揚していたはずの優佳の心は、急激にダメージを受けることになった――いまここで威圧的な態度をとっている菱田を目の前にすると、いっそうそんな気がしてならなかった。

 無論、この推理を菱田にぶつけたとしても結果は見えている。反論を崩せるのは、聡恵たちでも手に入れることができるような、確かな証拠だ。果たして、ユーコーはどう切り抜けるつもりなのだろうか。

 しかし、ユーコーはじっと菱田の顔を見据えているだけで何も言おうとしなかった。

 やがて、菱田が口を開いた。「――おかえりください。そうしたら、すべて水に流しましょう。僕からも優佳に連絡してみます。たぶん連絡がつくと思いますよ。だから、もう探偵ごっこはやめることですね」

 それは白々しい言い分にしか聞こえなかった。菱田は優佳の行方を知っているはず――それがわかっているのに退くしかないのか。

 すると、ユーコーがおもむろに告げた。「違いますね」

「何がです?」菱田は鬱陶しそうに顔をしかめた。

「あなたの言う通り、探偵は動かぬ証拠によって真実を明らかにし、犯人を追い詰める役目があります。でも、俺は探偵になったつもりはないです。言うならば、優佳を心配する友人でしかありません――だから当てずっぽうでも何でも、優佳の無事さえ確かめられればいいわけです」

 どうやら、この主張がユーコーの切り札らしかった。

 そうだ――自分たちは優佳の消息を掴むために、その情報を握っている可能性が高いと思われる相手のところに来ただけだ。探偵のように、菱田に悪事を白状させるのが目的ではない。物証がないからといって、手をこまねいている必要はないのだ。

 菱田は、あからさまな呆れ顔をつくってみせた。「苦しい言い訳ですね。どうやってそれを確かめるつもりですか」

「――部屋のなかを調べさせてもらいます。徹底的にね」

 ユーコーが不敵な笑みを浮かべて言うと、菱田はわざとらしい笑い声をあげた。だが、その頬筋はひきつっているように見えた。

「馬鹿なことを……そんなこと、警察でも令状がなければできないんですよ。それくらい知ってるでしょう」

 意にも介さない様子で、ユーコーは飄然と言い放った。「俺は警察でもありませんから、関係ないですね」

 すると、いきなり菱田が立ち上がった。

「いいから出てけよ! いい加減にしないと、警察を呼ぶぞ。不退去罪に、名誉棄損もだ。それでもいいのか?」

 顔を紅潮させ声を荒げる菱田に、聡恵は恐怖を感じずにはいられなかった。もはや柔和で誠実なイメージは完全に崩れ去った。

 一方、ユーコーは表情一つ変えなかった。荒ぶる菱田を冷静に見つめている。

「どうぞ」

 その短い言葉には、深い意味が込められていた。菱田が宣言通り警察を呼んだなら、それは自らの潔白を証明することになる。だが、呼ばなかったなら――。

 菱田は何か言いたげに口をぱくぱくさせたが、結局何も言わないまま、どしりと腰をおろした。そしてソファに背中を預けて足を組むと、スマホをいじり始めた。

 警察を呼ぶつもりだろうか。聡恵はどきどきしながら菱田の動向を注視した。

 しかし、菱田はずっと画面を操作しているだけで、一向に電話をかける気配がなかった。

「――言わないであげてたんだけど」菱田はスマホに目を落としたまま告げてきた。「あんたのやってること――KPSだっけ? ウザいと思ってたんだよね。優佳の知り合いでもなく、助けを求められたわけでもないのに、いきなり会いに行ったんでしょ? それ、マジでウザいってか……怖いわ。頭イカれてるよ」

 菱田は乱暴な言葉使いで悪態をつき始めた。これが菱田の本性なのか――あまりのギャップに、二重人格ではないかとも思えた。

「まあ、そう思う人もいるでしょうね」ユーコーは苦笑した。「でも、悩みを声に出せない人もいますから。そういう人がいる限り、KPSは必要だと思ってます」

「……どうでもいいけど」菱田は相変わらずこちらに目を向けず、失笑交じりに吐き捨てた。「あんたの事務所、そんなに儲かるんだな。全然儲かりそうもないのに」

「儲かる?」ユーコーは目を見開いた。「なんのことです?」

「だってしょせん世の中、カネでしょ? 世のため人のためとか立派なこと言ってたって、誰もタダじゃ動かない。カネがもらえなきゃ動かないんだよ。あんただって本当はそんなめんどい事務所やりたくないけど、儲かるからやってるだけなんだろ?」

 かわいそうになるくらい、ひねくれた考え方だった。何が彼をこんなゆがんだ思想の持ち主に至らしめたのだろう。

 お金目当てに近づいてくる人もいるから、お金持ちであることをあまり知られたくない――菱田はそう言っていた。これはきっと本心から出たものだ。その思いに至った背景が、菱田の心の闇に関係しているのではないかと聡恵は直感した。

「――すべては否定しません」ユーコーは真剣な表情で言った。「お金を稼ぐために、嫌々働いてる人は多いと思うんで。けど、うちは全然儲からないですよ。最低限、事務所がつぶれないように、スタッフに報酬を払えるようになんとかするつもりですけど……活動の本質はお金儲けじゃないです」

 菱田はようやくこちらに視線を向けてきた。刺さるような、鋭い眼光だった。

「何を言っても、のらりくらりと言い返してくる――初めてだよ、あんたほどムカつく奴は」

 菱田のスマホの通知音が鳴った。菱田は再びスマホに目線を落とした。

「だから、今から痛い目にあわせてやるよ」

 言って、菱田は薄ら笑いを浮かべた。聡恵は背筋が寒くなった。

「何をするつもりです?」ユーコーが聞いた。

「すぐにわかるさ」菱田は楽しげに告げた。

 それからしばらく、菱田は不気味な笑みをたたえてこちらを見るばかりだった。自ら危害を加えようという気はないようだが、それがかえっておぞましく感じられた。

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